たんなるエスノグラファーの日記

エスノグラフィーをつうじて、ふたたび、人間探究の森へと分け入るために

短いの、でも、す・ご・い・の

2011年11月02日 09時31分03秒 | 文学作品

川上未映子『わたくし率 イン 歯ー、または世界』講談社文庫★★★★(11-46)



タイトルのこのきわめて不思議な言語感覚:わたくし率 イン 歯ー、または世界は、話の内容を聴覚的に・視覚的に的確に表している。
歯医者の助手になった「わたしは奥歯であるのやと、云うてもええんとちやうのん、わたしは奥歯であってもいいのですと、そういうことにしたのでした。」と、わたしとは奥歯であると観念する。
彼女には、どうやら青木という恋人がいるが、しばらく忙しくて会ってもらえないこともあり、妊娠もしていないのに、未来に生まれてくる子どもに向けて毎日手紙をしたためる。
このあたりから、この主人公の行動が、怪しく感じられてくる。
やがて青木が彼女の勤める歯医者に患者としてやってきて、主人公は、治療後に彼を追いかけ家に乗り込むが、そこには、別の女がいて、青木宅では見知らぬ女の突然の訪問によって騒ぎが起きる。
当然である、青木は、奥歯に自分を見出す女のことなんか、とっくの昔に忘れ去っていて、何の関係もないからである。
どうやら、青木と奥歯の女は中学の同級生で、いじめにあっていた時代に、青木が優しく語りかけたようなのである。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」には主語がないということを教えてくれて、主人公である奥歯の女は、その後、そのことをずっと覚えていて、その青木宅への訪問時のやりとりで、一気呵成にぶちまける。
「あの雪国の、あの主語にその秘密のちょっとが隠されているような気がしたん、あの文章は、どこ探しても、わたしはないねん、私もないねん、主語はないねん、それじたいがそれじたい、なあなあなあなあ素敵やろ、主語がないねん、こんな美しいことがあるやろか!」。
私のわたくし率についての文学的・哲学的な考察。
大阪弁で語られる言葉がつぶつぶして魅力的に感じられる。

絲山秋子『イッツ・オンリー・トーク』文春文庫★★★★(11-47)

上の川上の本の女主人公と違って、現代日本の日常のありうる情景として、読者はす~っと、主人公の橘優子にシンクロすることができる。
優子は、精神病を患って入院して、会社に復帰すると仕事がなくなっていて、今は貯金を切り崩しながら、絵描きとして暮らしている。
彼女は、男に振られて蒲田に引っ越すが、そこで大学時代の友人・本間に再会する。
優子は、誰とでも「してしまう」女である。
本間と飲んで家に連れ帰って、彼には淡い恋心を抱きながらも、勃起障害だと分かって、できない。
メンタル系の病気サイトで知り合った安田とは、時々会うだけの関係である。
女のヒモをやっていて、自殺予告メールを送ってきた、いとこの福岡在住の祥一を、一時、蒲田の家に引き受ける。
議員に立候補している本間の事務所で働いている、同じく大学時代の友人・バッハ。
それぞれと性的な関係が発生し始めたり、最初からそういう気がなかったりするような経緯が描かれる。
もう一人の登場人物は、出会い系サイトのバイトをしていた時に知り合った、40代の痴漢kさんである。
「痴漢に名前は要らないだろう。彼は私のことをuちゃんと呼び、私はkさんと呼んでいる」「垂れ目で頭が少しさびしい四十代だが、私が好きなタイプの禿げ方だ」。
優子と痴漢の関係がなかなかに興味深い。
「私と痴漢の出会いは常に指が触れている『点』のイメージであって、プロフィールのある『面』であってはならなかった。ましてや時間軸の設定された『立体』などは論外だった。私はそういうイメージでしか男をとらえられなかった。」
主人公・優子の日常のムダ話(イッツ・オンリー・トーク)であるが、秀逸である。

モブ・ノリオ『介護入門』文春文庫★★★★(11-48)

現代社会の周縁的現実。
金髪で、無職で、小学生相手の家庭教師をしている大麻常習者の主人公・29歳が、痴呆症を患い、庭先の石畳で頭蓋を割って快復した祖母・85歳を、母と交替しながら介護している。
夜は、祖母のベッドの脇に寝て、夜中に二回起きて、祖母の股を拭いてオムツ替えをする。
 昼はぐったりとしているだけなので、親戚である祖母の実子たちからは、「穀つぶし」だと見られている。
実の親が介護ベッドで横たわる部屋の隣室で、「人間もこないなったら終わりやなあ、私やったら死んだほうがましやわ」としゃあしゃあと口にする祖母の実子たちに
内心猛反発したり、手抜きをする介護士に対する反感が、小説のなかでは、呪詛として綴られる。
「知識、知恵、技術は魂の力となる。記憶は思考への固有の資源だ。思考は魂を鍛え上げるためにある。魂は、俺を動かす。俺はヘルパー達の顔を思い浮かべ、介護を職業とする者の存在でこの俺を励まし続けよう」
「日々俺死ぬ、故に我あり。わが人生に価値なし。これがおれの生活になった。他の二人分も濃い祖母の血を持つ祖母の実子らは、ねぎらいの言葉すらお穢らわしいと撥ねつけたくなる俺の心を知らない・・・」
フェルデイナン・セリーヌばりに、次から次に吐き散らされる呪詛の言葉言葉言葉。
しかし、そうした呪詛の言葉の向こう側に、祖母に対する深い愛情が透けて見えてくる。
「俺はいつも、«オバアチャン、オバアチアン、オバアチャン»で、この家にいて祖母に向き合う時にだけ、辛うじてこの世に存在しているみたいだ」。
その語りに、一筋の救いの光があるような気がする。

西村賢太『寒灯』新潮社★★★★(11-49)

『苦役列車』は、中卒で女もいないし、何をやってもうまくいかない男・貫多の話だったが、この本では、西村の分身である貫多が30歳半ばくらいで、秋恵という女と恋仲になり、ウキウキしながら同棲生活を始めるのだが、一年くらいで破局を迎える
貫多は女性から見れば、さぞ細かくてジコチュウで最低の男だろうな。
貫多と秋恵のやり取りは、外から見るとたんなる口喧嘩である。
同居し始めて最初の正月を迎えるにあたって、秋恵の母が送ってきた帰省のための新幹線のチケットをめぐっての諍い。
秋恵が帰省しないことになり、大晦日、秋恵が年越し蕎麦のおつゆ作りに失敗し、貫多は怒声を浴びせ、癇癪を起こし、秋恵は嗚咽する。
彼の口癖は、何事にも「慊(あきたら)ない」という言葉。
ペン皿という誕生日のプレゼントにも慊ない。
「無論、貫多とて女には、自分に対する善意もあれば愛情もあるのを他面では充分に理解していた。だが、根がどこまでも駄々っ子気質にできている彼は、それならば尚と一層に、息せき切ってデパートに駆け込み、彼の為に精一杯の品を購めて綺麗にラッピングまでしてもらった女の厚意を、そして眼前に並ぶ心づくしの手料理を、思いきりケチをつけたうえで足蹴にしてやりたくてたまらなくなってくる」。
貫多は、堪え性がないのだ。
この本を読んだ後味はかなり悪い。
なぜなのか。
それは、男女を越えて、
貫多の振る舞いのなかに、他ならぬ自分=「潜在的な自己」を見出すからではないだろうか。
すると、そうした「自分」を私小説のなかに曝け出せる西村は恐るべしである。

笙野頼子『母の発達』河出文庫★★★★★(11-50)

 

うわっ、何じゃこの問題作は、でも好き。
全編これ、母の物語。
母は命を生み育む源、母は偉大なり、母は太陽である・・・という神話のこっぱみじんの解体ではないか、この小説は!
でも何が書いてあるのかよく分からない。
論文でいえば、時々まわってくるリジェクト査読論文を読んだときのような感覚。
いや、この小説は文字面を丁寧に追っていくと分からないけど、斜め読み的に文字を追うと、母の「はは」性という私(たち)が疑うことがなかった自明性を壊していることに気づく。
そもそも「母の縮小」という第一章のタイトルからして頭をひねってしまう。
しかし、これは、私自身が体験した私の母なるものの原像にぴったりと重なる。
おそらくまだ小学校に上がる前の頃だと思うが、二段ベッドの上からテレビを観ている母を見ていると、いや、遠くへ行って小さくなってしまったことがある。
「その母を私は指でつまみ上げて、ディスプレイの上に叩きつけた。そのままその上を掌で強く押し続けると、急に抵抗してくる厚みがなくなってしまった。見ると、母はヤブカのようにぺしゃんこになり、デゥスプレイのなかでインベーダーのような、小さな記号のようになって点滅していた。母という文字ですらなくなっていた。」
文字を流すだけで、真剣に意味を考えない方がいいのだろう。
やがて主人公ヤツノは母を殺す。
死んだはずの母が言う。
「ちがうわ。あのな。おかあさんな、まず、お母さんらしいおかあさんを、センメツすんのや。それからあるべきお母さん白書をソウカツするのや、どれでな、もともとからあったお母さんを全部カイタイするのや。」
これが、この小説の核心部分ではないか。
ヤツノは、アイウエオ順に、母が「落ち」になるような小噺をつくりだす。
「『れ』の母は連立政権の母やった。物語のないところがこれがみそやった。『ろ』の母はロリータの母やった。ナボコフに言うた。--へへんあてに振られたからてなんちゅうあてつけがましい。あーあ、あきまへんわいなあ、あーんな小娘。」
意味はよくわからないものの、
母が母でなくなっていく。
母とは、たんなる女であり、人間であるということに気づいて、母を相対化することになるやもしれぬ。


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