落葉松亭日記

ニュース・評論スクラップ、凡夫の日々雑感、山歩記など

終戦記念日

2009年08月15日 | 日常・身辺
産経新聞の夕刊に読者の投稿による「夕焼けエッセイ」というコラムがある。
このあいだから「戦争、そのあと」というシリーズが続いている。
当方はまだ赤ん坊で一切の記憶はなく、興味深く拝読している。
8月13日 「疎開先にて」 山内さん(77)
(昭和20年8月疎開先の佐賀のこと)・・・(中略)・・
敵機は真上に飛んできたが機銃掃射はせず、私たちの周りをぐるぐると旋回飛行した。しばらくするとかさかさと音がし、何かが落ちてくる気配がした。
新型爆弾を投下する敵機だから私たちは怖くて目を閉じ、身動きせず固くなっていた。
やがて敵機がいなくなり警報も解除されたので身の回りを見渡すと、紙がたくさん落ちていた。
紙には日本兵が崖っぷちの樹にぶら下がり、助けを求める絵が描かれ、その横には、
「日本、よい国、花の国、8月10日は灰の国」と書かれていた。
9日には長崎に原爆が投下され、間もなく、長い戦争は終わった。

8月14日 「私の8月14日」 本間さん(女性77)
「この前、広島と長崎に落とされた爆弾、新型ですごく怖いらしいよ。ぴかっと光ったとたん、何十万人の人が死ぬんやて・・・。外気に触れただけで大やけどするから、絶対に素肌出したらあかんよ」
挺身隊員として工場に動員されていた姉が、職場でのうわさ話を聞いてきた。父も徴用されて兵器工場で働いていたが、工場では木製飛行機を作っていた。
1945年8月14日。大阪は昼前からの空襲であった。B29の重苦しい爆音に姉の話が頭をよぎった。
恐ろしい新型爆弾が落とされるのだろうか。次々と落下してくる爆弾の爆風が大気を揺るがし、まるで地震のように家を揺さぶる。
病弱で足の悪い母を抱えて外へ連れ出すことなどとてもできない。直撃されればそれで終わりなのだから、あきらめの境地で耐えていた。
姉の忠告通り、長袖の服を着て素肌を出さず、冬の大きな布団をすっぽりとかぶった。
真夏である。暑かっただろうと思うのだが、恐怖が先に立ち、ふるえが止まらなかった。
あとで聞けばB29の目的は、大阪城の東に立ち並んだ大規模な軍需工場群の壊滅にあった。
当時、大阪市内のほとんどの中学校、女学校の3年生以上は、この工場に動員されていた。この日のだけで犠牲者は千人を超えたという。
翌日は終戦。
たった一日のことで・・・。
14日は毎年先輩方の無念をしのぶ日なのである。

昭和19年から20年にかけて米軍の無差別攻撃が日本各地に展開された。
赤ん坊であった当方も疎開先の岡山で空襲にあったが、母や伯母の機転で助かった。
戦後世代は忘れがちだが、このような経験談は無数にあることだろう。
その「灰の国」後、日米安全保障のもと、日本は経済発展をとげ今日に至った。先人の進路選択、米のお陰とも言える。
同じ米国が敵であったときは、もう日本が敗色濃厚な時期にこのような無差別爆撃し、核爆弾を投下したことを忘れるべきでない。
国や家族を守るために命を落とした300万人を忘れるべきでない。

間もなく衆院選が行われようとしている。北やシナが核兵器を保持し周辺国に脅威を与えているにも関わらず、政権公約に国防の順位は後ろの方になっている。今まで通り国防はさておいて、経済一辺倒でいいのか。この先何十年も生きさせてもらう歳でもなくなったが、気になるところだ。