ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

久しぶりの立山(続)

2013-07-20 06:02:01 | 山日記

7月16日。予想外に早く一ノ越に着けたので、夕食までに雄山に登ることにしました。余分な荷物を小屋に預けて14時20分、出発。


南方の展望。中央に槍ヶ岳、右端の岩峰は竜王岳。次第に雲が湧いてきました。


ガラガラの岩屑の急坂を登っていきます。他の山で何合目というところを立山では「何ノ越」と呼びます。それぞれの「越」には小さな祠があります。ここは二ノ越です。


二ノ越付近は落石止めの鉄柵が何ヶ所か設けられています。岩の上の踏み跡もいくつかあり、赤や黄色のペンキで矢印が付けられています。三ノ越まで登ってきました。祠の右手に雄山から北へ向かう稜線が見えます。


頂上の社務所がすぐ近くに見えますが、まだまだ急坂の上りが続きます。疲れ切った感じのご夫婦が降りてくるのに出会いました。


四ノ越まで来ました。あと一頑張りです。日が陰ると風が冷たく、寒さを感じます。(Photo by Marusan)


15時40分、頂上(五ノ越)に着きました。国土地理院の一等三角点標「立山」。前の四角い銅版には三角点の意義や明治28年8月に設置されたこと、この三角点の正確な標高(2991.6m)や位置(北緯36度34分21.2秒・東経137度37分02.9秒)が記されています。背後の丸い石の上には風景指示板が埋め込まれています。


富士山(手前下)、白山はじめ周囲に見える山々が描かれています。前に来たとき(1991年)に見た記憶がないので、家に帰って写真を確かめると上の四角い説明版に「平成8年設置」と記されていました。


登りきったところが三角点で、その前の広場から峰本社の神殿を仰いだ写真です。下から見えていた建物は広場左手にある授与所(社務所)で、この写真には写っていません。左端に見えるV字形の狭間は、立山の最高地点・大汝峰(3,015m)へ行く道です。三ノ越で出会った3人組の男性から「14時半で頂上のお祓いは終わった」と聞いていたのですが、鳥居横の門が開いていて、社務所で200円納めると登拝することができました。


峰神社神殿 敷き詰められた丸い石は登拝者が途中の河原で拾った石を持ちあがる習慣があったことを物語っています。1991年に参拝したとき(それまでは縦走路を通過するだけで、いわゆる三山巡りは初めてでした)の山日記には『万延元年建立の古い神殿の前に敬虔な気持ちで額ずき、神主さんの祝詞で参拝し、お祓いを受けお神酒を授かる。この若い神主は美男で声もよく、しばらく女性軍の話題を独占した。』と記しています。また朝の頂上から見えた峰々を『剣、白馬から鹿島鑓、針の木に続く長い後立山連峰、槍から穂高への厳しい岩稜、優美な笠、五色ヶ原から薬師への長い稜線、緑濃い大日・奥大日のなだらかな連なり、遠くの富士、白山、御岳、北岳、甲斐駒、八ヶ岳…」と書き連ねていますが、午後遅くの今日は濃い霧の中で展望は望むべくもありません。


神社のある場所が雄山での最高点になります。雄山の名については日本三霊山のうち『山容が優美な白山を「比め(口偏にに羊)神と崇めたのに対して、屏風のようにそそり立つ雄大な立山を「雄山」と呼んで崇めてきた」とされています。(住谷雄幸「江戸人が登った百名山」)


神殿のすぐ横は切り立った断崖です。時どき霧が流れると、眼下に足がすくむような景色が展開します。


私たちが最後のようで神殿への門が閉まりました。閉める準備を始めた社務所で記念のお土産を買って、16時30分、ゆっくり滞在した頂上をあとにしました。


17時20分。一ノ越山荘帰着。泊り客は私たち4人を入れて10人。7.5 畳の部屋に一家族ずつ。ゆったりしています。食堂にはストーブが焚かれていました。

 

山荘の夕食。メニューはシチュー(ジャガイモ、ニンジン、缶詰フレーク?)、唐揚一個、煮物(里芋と高野豆腐)、漬物、オレンジ一切れ。ご飯とシチューはお代わり自由ですが、正直言ってロング缶のお相手には副食が不足でした。ここに泊るのは1973年、1991年と三度目ですが、40年前の夜の献立は「エビフライ、卵焼き、ハム2枚、キューリ、サラダ、トマト、キャベツ」とわざわざ書き残しています。当時としては他の小屋に比べて良かったのでしょう。


楽しみにしていた星空は見えず、17日の朝は濃い霧で明けました。朝食の献立は玉子・ソーセージ・コーンを小鍋で焼き、納豆、かまぼこと焼海苔、芽昆布、ワカメの味噌汁。美味しく頂きました。


久しぶりの立山(2013.07.16)

2013-07-19 08:41:24 | 山日記

1991年以来の立山に登ります。リタイア後、登山の魅力に憑りつかれた丸さんを案内するのにふさわしい夏山をと…考えた挙句、「歴史・高嶺の花・展望…」と私たち山好きが望む条件のすべてを満たし、しかも古来、富士山・白山とともに「日本三霊山」に挙げられる立山を選びました。しかし心配されるのは、あのアプローチのケーブル、高原バスの混雑です。やっと天候も安定しそうな三連休明けを狙って16日5時家を出ました。

立山駅前の駐車場に丸さん車を置いて駅に行くと驚くほど閑散としています。待つほどなくケーブルに乗車。美女平駅で高原バスに…何と一番で乗り込みました。一番前の特等席に座った丸さんは車窓からの撮影に余念がありません。

ブナ坂近くの立山杉の中で最大の仙洞杉。幹回り940cm、高さ21m。運転手さんはこのような見どころがあればバスを徐行させ、時には停車して説明してくれます。(Photo by Marusan)


日本最大の落差を誇る称名ノ滝。滝の音が念仏を唱えるように聞こえることから名が付きました。5月に「雪の大谷」ツァーで来たときは、ここはあっという間に通過しました。出発地の奈良のバスでバスガイドは乗車せず、添乗員さんは無口?で殆ど説明なし。今回はさすが地元のドライバーだけに堂に入った説明で、しかも多くの乗客が見えるように少しづつバスを動かしてくれました。(Photo by Marusan)


右手車窓に薬師岳の大きな山容を仰ぎながらバスは進みます。左には大日、奥大日岳そして正面に立山三山。眼下には富山平野の眺め。天狗平が近くなりました。称名川の上流に架かるソーメン滝がよく見えます。「雨が多いとウドン滝になります」とユーモアも加えた説明。


天狗平からは美しくも険しい剣岳の威容が…。「こんなに周囲の山が見渡せたのは、今月に入って初めて…」とドライバーさん。


弥陀ヶ原では久しぶりの晴天に、ヘリコプターが物資運搬に大活躍していました。


終点、室堂が近づきました。雪の大谷の壁もずいぶん低くなりました。(Photo by Marusan)

 

予定よりずっと早く11時45分に室堂バスターミナルに着きました。「玉殿の湧水」をボトルに入れて出発の準備をします。
玉殿湧水 立山開山伝説によると、大宝元年、越中国の国司の子、有頼が逃げた白鷹を追いかけて山に入り熊に出合います。有頼の矢を受けた熊は血を流しながら窟に逃げ込み、それを追って岩屋に入った有頼が見たのは矢が刺さった黄金色に輝く阿弥陀如来の姿でした。阿弥陀如来より諭しを受けた有頼は仏門に入り、修業ののち立山を開山します。熊が逃げ込んだ洞窟が「玉殿窟」でそこに湧く地下水は室堂一帯の貴重な水源でしたが、立山黒部アルペンルートの立山トンネル開通の際、毎分約15Lという豊富な水量で噴出しました。それをこのターミナル横まで引いています。

正面に(右から)主峰・雄山から最高峰・大汝山、富士折立…と続く立山が美しく望めます。大きな鞍部が一ノ越、その右が浄土山です。最初の計画では一ノ越山荘で一泊して雄山から大汝山、真砂岳、別山を経て雷鳥沢を下って室堂へ下る計画でした。


正午、観光客で賑わう室堂ターミナルを出発します。


立派な石畳の道が続きます。しかし、まずは腹ごしらえです。ここを過ぎるとイワカガミ、ミヤマキンバイ、チングルマなどの花の咲く草原の道になり、右手に大きな広場がある十字路に出ます。左はミドリガ池、右は浄土山への登路です。


広場では宝塚の中学生の団体がお弁当を食べていました。昔、立山登拝の道には様々な石塔や石仏が並んでいました。これは第三十二番石仏と呼ばれ、西国三十三ヶ所観音霊場の三二番札所、繖山・観音正寺の千手千眼観音の分霊で文化八年の銘があります。


室堂 重要文化財。現存する日本最古(1726 年・享保11年再建)の山小屋です。「室」は山小屋、「堂」には宗教施設の意味があり、両方の役割を併せ持っていました。


12時40分、室堂発。すぐに長い残雪の中を登ります。念のためアイゼンを用意してきましたが、登下山とも結局、使わずに済ませました。


何ヶ所も途切れ途切れに残雪を渡ります。勾配が強い斜面では一歩一歩、滑らないように慎重に進みます。


祓 堂 (祓戸社) 古くはここが俗界と神域の境界となっていました。登拝者は祓川で潔斎して白装束に着換えてから登山を続けたと伝えられています。(背後は浄土山


柏手を打ち、振り向くと間近に雄山が…。社務所の建物が大きく見えます。


最後の急坂を登りきって山荘に着きました。ちょうど14時。小屋に入るにも早いし、小屋主も「今日は久しぶりにいい天気で、午前中は富士山も見えた。しかし明日はどうなるか分からない。」というので、今日中に雄山に登ることにしました。


青い果実 (2013.07.15)

2013-07-15 13:38:38 | 山日記

夏至を過ぎると季節ははや晩夏。日本の秋を代表する果実の今の様子です。

花の時に見て頂いた庭先の柿。だいぶ大きくなりました。
うからみな愁しもてり柿青く (角川源義)


朝、散歩の途中でみた青栗。
秋風の吹けども青し栗の毬(いが) 松尾芭蕉


私たちの富士登山(7)

2013-07-13 20:40:13 | 四方山話

お鉢巡りを終えて富士宮口頂上に帰ってきたところです。右手が浅間神社奥宮になります。左隅に登ってきたときに潜った鳥居が見えます。


今回は同じ道を下らずに、5分ほど引き返して御殿場道を下るコースをご紹介します。


下山口のすぐ傍銀明水がありますが、現在は涸れている様子です。1986年に登ったときには、浅間神社で小さい容器に入れて授けていました。お初穂料300円で義父が買ってくれました。


御殿場への下山道は富士宮道に比べて楽とはいえ、下り始めはやはり傾斜が強いです。ごつごつした岩の道が何度も屈折しながら、次第に高度を下げていきます。途中に目標となる山小屋や道標もないため、かなり長く感じます。一時間近く下って、ようやく勾配が緩まり、やや歩きやすくなります。(2011.09.13)


八合目の上に「長田尾根登山道建設記念碑」が立っています。元強力から気象庁職員になった長田輝雄さんが1959 年冬に御殿場道から登山中に突風に煽られて殉職。その死を惜しむ職員の基金で八合目から頂上に向かう尾根に長田さんの名を冠した登山道が開かれて、風雪から身を守る鉄柵を建設しました。冬季は積雪で数センチしか頭を出していないこの鉄柵は、山頂測候所の人達の大事な命綱だったのです。写真は2006年のものですが、2011年に通ったときには鉄柵は撤去されていました。2009年7月、悪天のなか下山中の男性二人(一人は米人)が、この辺りで遭難したのが撤去の原因の一つと言われていますが…。また富士山の歴史が失われていくようで淋しいです。



御殿場道はもともと登山者が少なく、ある統計では夏でも富士宮道の7分の一だそうです。八合目で初めて小屋に出会い、ついで七合九勺にも赤岩八合館があります。小屋の入口や窓は、番号を打った木材を積み重ねて締め切り、厳重に冬の備えをしています。この小屋には2008年8月、皇太子浩宮殿下が宿泊している。このとき皇太子一行は富士宮五合をスタート、宝永山荘の前を通って宝永山馬の背から御殿場道に出てこの山小屋で一泊。翌朝山頂でご来光を見て御殿場道を下りました。それ以後、今ご紹介しているこのルートは「プリンスロード」と呼ばれるようになりました。



ここからも合目を表す標識や道標は一切なく、小屋の看板も外してあるので、どの辺りを歩いているのか全く分かりませんが御殿場市のホームページなど見ると、赤岩八合館の後は気象庁避難小屋、砂走館(七合五勺)、わらじ館(七合四勺)と続いていいます。次の小屋の前で始めて「七合目」の文字を見つけました。建物は日ノ出館。午後になっていつものようにガスが出てきました。



御殿場道の下りでは2006年8月、霧に包まれて宝永山への道を失い、標高差を100mあまり登り返した苦い経験があります。その時はジグザグの道を六合目まで下って森林限界らしいところをトラバースしました。しかし2011年は日出館の少し下、ブル道と合流するところに小さい標識がありました。



この先が「大砂走り」と呼ばれるところです。標高差1,000m近く滑りながら下れるのですが、初めはかなりの急傾斜でしかも溶岩がゴロゴロしています。先行者や自分の足元から上がる砂埃を吸わないようにするのに懸命でそれほど爽快感はありません。それでも一歩踏み出すと2m近くは下ります。これは2006年の写真、こんな青空が一転して濃い霧(雲?)に覆われるのですから山の天気は油断できません。


2006年は後でGPSの軌跡を見ると、ここ「下り六合」を標高差で100mも下り過ぎて難儀しました。「プリンス…」のお蔭で今はこんな立派な道標ができて安心です。大砂走りの醍醐味はここから下だそうですが…


宝永山へトラバースする水平道に入ります。ここもずいぶん広く立派に整備されました。霧が晴れて青空が出てきて、ルンルン気分で行くと5分ほどで宝永山の馬ノ背の少し上に出ました。


宝永火口と山頂とのコル、馬ノ背から宝永山頂を目指します。

 

宝永山(2,693m) 宝永4年(1707)宝永大噴火で誕生した富士山の側火山。これ以降、富士山は活動を休止しています。上から第一、第二、第三の三つの火口があり、現在残されている噴出物の量からも大規模な爆発性の噴火であったことが分かります。
 写真は2000年の頂上の光景。風雪のためか柵や展望図台などの構造物が無残に壊れていました。この時は濃霧で無展望でしたが、晴れていると背後に富士の山頂部が名残を惜しむように仰がれます。


私の住む町の山の会で、三度目の富士登頂となった2006年の宝永山頂。柵はまだ(又?)倒れています。


一昨年(2011)には美しく整備されていました。


砂礫の急坂を下り、第一火口底を通過します。ここから少し登ると、ブロッケンを見た分岐にでます。
私達の富士登山のフィナーレを夕陽を浴びた宝永山が見送ってくれました。(終)


私たちの富士登山(6)

2013-07-12 20:05:59 | 四方山話

剣ヶ峰からお鉢巡りを続けます。お鉢の周囲は約3km、1時間半ほどかかります。前に少し触れましたが火口の周りにある峰は「蓮華八葉」に例えられ「八つの峰」を巡拝するとされています。しかし富士宮市観光協会のパンフ(2012年発行)では「剣ヶ峰・白山岳・久須志岳・成就ヶ岳・伊豆岳、朝日岳・駒ケ岳・浅間岳、三島岳」と九峰の名が見えますし、名称も時代の宗教観とともに変わります。深田久弥さんは「お鉢廻り」という紀行文の中で、「一たい八つなどと決めたのからして一種のこじつけで、見様によっては六つ位にも見え、十あまりにも数えられる」と書かれています。


写真は5回目の登山となった2002年9月のものですが、『お鉢巡りは、ロープで規制されて稜線通しには歩けなくなり、決められたコースを歩くようになっている。』と山日記に記しました。それまでは剣ヶ峰を越えたところで、火口よりの内輪廻道と岩の稜線を行く外輪廻道に分かれていました。
 1986 年は『
稜線通しに忠実に辿つたので、ちょっとした岩登りまで義父にさせてしまった。殆どの人は内輪巡りのルートをとったようで、こちらのコースはがら空きだった。』


蟻の戸渡りという痩せた岩稜を行くと大沢崩れの断崖を見下ろします。最大幅500mで頂上から標高2,200m付近まで達する大崩壊地です。古くは「鳴沢」呼ばれたように、今も絶えず小さな落石が音を立てています。(写真は別の年のもの)


始めての富士登山では幸運にもここで影富士を見ることができたのです。裾野に浮かぶ黒い富士が朝陽が登るにつれて刻々と動いていく光景を、義父も私達夫婦も息をのんで見つめ「苦労して登ったからこそ見られた」と喜び合いました。その後も影富士は剣ヶ峰で見ましたが、この時の感激には比べようもありません。

剣ヶ峰の次のピークは白山岳<写真右>ですが、その前に顕著なピークを一つ越します。
ここを雷岩といいますが、雷岳とも呼ばれました。この辺りから雷が生まれると信じられたからの名前のようです。白山岳の左肩に四角い建物のような大岩が見えます。この石を「釈迦の割れ石」といいます。


白山岳(3,773m)は古くは釈迦ヶ岳と呼びました。割れ石に「釈迦」の字が付いているのはそのためです。白山岳はやや南北に長いお鉢の北西隅近くに当たり、これまで見えなかった北西側の麓の景色が見下ろせるようになります。山頂には鳥居が立ち、その右側に割石があります。30年近く前の記録媒体はフィルムで、現在のように気楽に撮れなくて記念写真が多くなります。ここでは外人ペアの男性にシャッターを押して貰いました。

富士山第二の高峰・白山岳から内陣の方に下ると阿弥陀ヶ窪で、内輪廻りの道に出会うところに金明水があります。写真は1988年のもので現在とはだいぶ様子が違っています。金明水は銀明水とともに「富士の霊泉」として知られ、昭和初期までは写真のお堂の中にある井戸から自由に汲むことができたそうです。写真の1988年には厳重に鍵がかかっていました。現在はお堂もなく金明水取水所として井戸が剥き出しになっています。「泉」の名は付いていますが、この高所から湧き出すわけはなく、コノシロ池と同じく融雪が地表に染みだしたものです。そのため久須志神社で授かる金明水(500円也)の箱には「古くは不老長寿の霊水として…近年は茶道・華道に用いるため拝受」されてきたが、「天然水のため飲用には煮沸してご使用くださるよう…」の注意書きがあります。

 

白山岳を越えて一休み。右手(北)には吉田大沢が拡がります。


三日月の形をした山中湖が眼下に…

 

久須志岳頂上には富士山を鳥瞰した立体像付きの展望盤があります。


久須志岳を下りたところで吉田口、河口湖口、須走口の各登山道が集まり、数軒の頂上小屋があります。ここから道は南へ向かい、大日岳へ緩やかに登ります。


伊豆岳、成就ヶ岳を過ぎると荒巻といって1950 年代まで地熱が感じられたという所があります。面白い形をした溶岩群の中を歩いて行くと、荒涼たる東安ノ河原に出ます。昔は賽ノ河原といって八体のお地蔵さんがあったが、廃仏毀釈で姿を消したと上述の深田さんの文章にあります。(前回・<富士登山日記(5)>の三島岳のお地蔵さんがひょっとするとこれでしょうか?)河原南端で虎岩が近くに見えるようになると…

 

間もなく御殿場口から登ってきた登山道に出会います。この先は右に浅間ヶ岳、左に駒ヶ岳の間を通る岩の道を5分ほど登ると浅間神社奥宮の前に出て、お鉢巡りを終えることになります。


私たちの富士登山(5)

2013-07-11 20:19:19 | 四方山話

富士山頂の夜明け。真っ暗な中を登ってきた大勢の人々が、祈るように次第に明るむ東の空を見つめています。

『紫紺の空に金粉を散りばめその中心に真紅の大円が静かに姿を現してくる。今ここにある幸せを何者かに感謝したくなる荘厳な一瞬。(1986.07.29 AM04:48)』どよめき、歓声のうちに期せずして「バンザイ」が起こりました。


再び、山頂奥宮に手を合わせてお鉢巡りに出発します。富士山の形はよく「擂り鉢を伏せたような」と表現されますが、その底の部分にあたる頂上部は大きな窪地になっています。この旧噴火口を大内院(御内陣またはお鉢)といい、古くから周囲約3kmの縁を回る「お鉢巡り」が行者や富士講の信者によって行われてきました。蓮華八葉に例えられる大小の峰にはそれぞれ神仏が祀られ(明治の廃仏毀釈後は神のみ)、それを巡拝することが富士登山の大きな目的だったのです。写真は南西隅にあたる剣ヶ峰方面からの大内院です。


お鉢巡りは時計回りに行います。奥宮から西に向かうとやや広い台地になります。左手、富士館の裏手にあたるところに近年、バイオ式・燃焼式併用トイレができました。その右手には「このしろ池」があります。この池は左の三島岳などに積もった雪が融けて地面を潜って再び湧き出した池で、形が魚の鮗(コハダ)に似ていると言われます。(2012.09.15)


この池には「コノハナサクヤヒメに求婚した風神を、(死人を焼く匂いがする)コノシロを焼いて諦めさせた」とか「龍神が棲んでいる」等の伝説があります。そう聞くと何となく神秘的な感じがします。(2008.10.03)





三島岳の下を通ります。


大内院を見下ろしたところ。夏早い時期で残雪がたくさん見えます。(1986.07.29)


虎岩。平安時代の文章博士・都良香の「富士山記」に『池の中に大いなる石あり。石の体驚奇にして宛も蹲る虎の如し』とあります。当時は鮗池の中にあったのでしょうか。


ゆったりした感じの三島岳を過ぎると直角に右に折れる感じで、いよいよ剣ヶ峰への最後の難所・馬の背の急登になります。この写真からも傾斜の強さがよく分かります。


こうして見るとあまり傾斜があるように見えませんが、砂礫の急斜面の登りは滑り落ちそうでかなり厳しく、一歩一歩を踏みしめながら登ります。「三歩進んで二歩戻る」状態の人も見かけます。私も時には左の防護柵を頼ることがあります。


ようやく急坂が終わります。左の建物が「旧」富士山頂測候所。現在の名称は「富士山特別地域気象観測所」


かって、ここには純白のレーダードームがありました。毎年、日本列島を襲う台風を事前に予測するために、日本一の高所に当時最新鋭のレーダーが設置されたのです。気象庁職員、建設会社、富士山強力、ブルドーザーやヘリコプターで資材運搬にあたった人々…1964年にドームが完成するまでの多くの人々の労苦は新田次郎の小説「富士山頂」や、石原裕次郎監督・主演の映画にもなりました。しかし、この写真を撮ったとき(2001.07.17)、すでにレーダーは役割を終えていました。気象観測の中心は人工衛星に変わり、1999年11月にレーダーは引退したのです。


上の写真を撮った次の年、2002年の山日記には『これまで見慣れたレーダードームの撤去された富士山頂。汚れた台座や構造物だけが取り残されて、まるで廃墟…』の姿に変り果てたことを嘆いています。更に2004年、富士山測候所は無人化されて今は気温・気圧・湿度だけ自動観測が行われています。この写真は2003年9月3日のものですが、測候所の標識の横に当日の気象状況が掲示されています。

 

これは2002年の写真ですが、登山者にはありがたい情報だった風向、風速は現在の自動観測では対象になっていません。


測候所の建物の前が剣ヶ峰。「日本最高峰富士山剣ヶ峰」の碑が立っています。


その右の三角点標石は2002年に新しくなりました。その年の4月1日から位置基準が日本測地系から世界測地系に変更され、緯度経度が変わったためです。


実際の日本最高点(3,776m)は、上の三角点から数メートル左奥に離れた絶壁の上です。赤いペンキのマークがあり、なぜか溶岩の隙間に硬貨が散らばっています。下を覗きこむと足が竦むようで思わず腰を下ろしました。

 

さらに山頂の一番奥には電子基準点が設置されています。国土地理院の発表では『ピラーの高さは3mあり、電子基準点の標高(アンテナ底面)は3777.5m』でここが正式な日本最高点ということになります。『なお、これにより一般に知られている富士山の標高3776mを変更することはありません。』




この向かい側、測候所建物横左手には展望台があり、2008年にはここで大展望を楽しめましたが、2011年にはロープが厳重に張り巡らされて登れなくなっていました。写真は南アルプス方面を見たところです。なお、電子基準点の写真で見える北側の柵の先には鉄梯子がかかっていて、お鉢巡りの道に下りることができたのですが、かなり以前から測候所の下へ引き返すようになっています。


私たちの富士登山(4)

2013-07-10 20:13:46 | 四方山話

富士宮登山道八合目は標高すでに3,250m。日本第二の高峰・北岳の高さを越えています。しばらく休んでいざ頂上目指して出発。


最初から急な登りで、八合目の小屋が次第に下になります。


ブル道を横切る辺りが八合五勺。小屋はありません。



この辺りに来ると気温もぐっと低くなり、10月には火山岩からツララがぶら下がっています。



右手に残雪のある谷を過ぎると九合目。万年雪山荘。ここには1986年と1988年の二度、お世話になりました。
 『小屋は月曜日のためか思ったほどの混雑もなく、カイコ棚にのんびり足を延ばす。素泊まり3,000円也。夕食は好きなメニューを選ぶ。卵丼1200円(味噌汁付)、紙コップ入り燗酒600 円』…『
食後、戸外に出ると降るような星空。南の火星も北斗にも手が届きそうで、明日の好天を約束するかのよう』とこれは1986年の山日記です。この時は15時10分に五合目を出て、当初予定の八合目を見送って18時50分着。所用時間3時間40分、75歳の義父が頑張りました。


1988年は町内のハイキングの会で10人のパーティでしたが、足並みが揃わず八合目を過ぎた辺りで『星が瞬き始め、眼下に町の灯が見える。ライトで足元を照らし、励ましあって登る。』連絡のため♀ペンとSL役の男性に小屋へ先行してもらいました。『すぐ頭上に見える小屋の灯りがなかなか近くならない。何歩かごとに足を休め、ようやく全員が九合目・万年雪山荘に』着いたのは20時35分でした。

標準タイムでは八合目から九合目まで約30分です。九合目でいったん傾斜は緩くなりますが、砂礫のジグザグの道が続きます。1988年にあった上の写真の鳥居は

 

2011年にはこんな有様に。ここは落石の多いところで、何度か整備して下さっている人に出会いました。前に見えるパーティのすぐ先で左に折れ、再び大きく折り返すと九合五勺です。九合目から30分、標高3,590m。


山頂までの最後の小屋・胸突山荘は頑丈な石組で厳しい自然から守られています。


山荘の名前通り、いよいよ「胸突き八丁」に差し掛かります。


最後は溶岩塊の中の急坂を小さくジグザグを繰り返して登ります。距離は僅かですが辛い登りで、思いのほか時間がかかります。九合五勺から30分ほど…


この鳥居を抜けると、いよいよ富士宮口頂上です。


登りきった所は広場になっていて、南面する切り立ったテラスからは大きな展望が拡がります。反対側に立つ鳥居の奥が富士浅間神社奥宮。シーズン中は参詣人で混み合いますが、今は戸が閉ざされています。

富士浅間神社奥宮 祭神はコノハナサクヤヒメ(木花之佐久夜毘売命)とされていますが、もともとは富士山そのものの神霊「浅間大神」でした。かなり古い時代に神話に登場するコノハナサクヤヒメと習合したようです。なお富士山の八合目以上全体が山梨・静岡両県に所属せず、富士山本宮浅間神社(富士宮市)の境内です。

頂の浅間神社に額づきてほっと息づく攀じたりなわれも(花田比露思)


上の場所から右(東)へ少し登って見下ろした写真。正面左は頂上富士館で宿泊もできます。右の赤い屋根(浅間神社に続いています)の建物は富士山頂郵便局。奥に見える日本最高峰・剣ヶ峰(3,776m)へは二つの建物の間を抜けて行きます。


私たちの富士登山(3)

2013-07-09 11:15:21 | 四方山話

夜明け前の富士宮口六合目。東の空が明るんできました。


ここから見る太陽は宝永山の肩から登ります。


7月、8月以外の時期には登山道は通行止めになっています。ただし登山届を出して自己責任で登ることはできます。私たちは夏の最盛期の小屋や登山道の混雑を避けて、本格的な積雪が始まるまでの短い秋の富士を楽しむことにしています。ここから上の小屋は全て閉まっていますが、六合目の二軒の小屋だけはしばらく営業している(年によって異なる)のです。
写真は2008.10.04 。実際は右に屋根が見えるバイオトイレの手前を宝永山の方へ少し下ったところから踏み跡に入り、屋根の上に見える白い標識の上で夏の登山道に迂回します。

ゆっくりモーニングサービスのコーヒーを頂いて出発すると、宝永山と同じ高さまで登った辺りでご来光を迎えます。天気が良すぎると、しばらく真横から眩しい光を受けて登ることになります。


1時間ほど登ると新七合目に来ます。眼下に見えるのは愛鷹山。その向こう、雲の上に浮かぶのは万三郎岳を主峰とする伊豆の山々です。(2007.09.21 AM06:05)

愛鷹山(1,504m) あしたかやま。一般に愛鷹連山を指します(六甲山と同じ)。標高は最高峰・越前岳のもので、狭義の愛鷹山は連山南端の1,188m峰。「古くは足和田山、足柄山とともに足高山として、
富士を中心とした「富士三脚」と呼ばれた(Wikipedia)」。


こんな珍しい雲がかかっている時もありました。モーニング・グローリー・クラウドと呼ばれる雲の小型版でしょうか?
去年(2012年)も見ましたが、写真は2001.07.21撮影のものです。


七合目で標高は2,780m。宝永山が次第に足の下になります。ここから約50分で「元祖」七合目。


標高3,010m。ここには山口山荘がありますが、夏季の他は戸を閉ざしています。(2012.09.15)
頭上には八合目の小屋が見えます。普通の山の感覚では簡単に到着できそうですが、スケールが大きくて砂礫の登りが続く富士ではここからがたいへん…


3,000mを越えると、人によってはそろそろ高度の影響が出てきます。焦らずにゆっくりと登ります。写真は始めて高度順化を目的に登った1999年10月のもの。少し古い写真ですが新旧二つの小屋が写っています。


愛鷹山もかなり下に見えるようになりました。しばらく緩く登ってきた道が再び急になります。


ゴツゴツシタ溶岩塊の中の登りを頑張ると…


ようやく八合目(池田館)に着きます。




大きなテラスがあり、少し長めの休憩をするのにもってこいの場所です。元祖七合目から約40分。標高は3,250m。


頂上の稜線がかなり近く見えるようになりました。まだあと標高差526m、標準の所要時間1時間半。ここからが正念場です。


私たちの富士登山(2)

2013-07-07 06:12:52 | 四方山話

日没まで少し時間があるので宝永火口へ散歩します。富士山腹をほぼ同じ標高で一周する「お中道」と呼ばれる古い道の一部に入ります。





(2008.10.04)

山腹の道はちょうど森林限界のすぐ上辺りを巡っていて、左手は砂礫の山肌に点々とオンタデの群落(秋には草紅葉に変わります)が浮かび、右手には緑の樹林帯を見下ろします。


足元にはルビーのようなコケモモの実も見られます。

10分足らずで第一火口の縁に来ました。五合目駐車場東端からの道は写真右下からここで合流します。(2011.09.12)


ここから見る宝永山の東側火口壁は「馬の鞍」と呼ばれる特異な形状を見せています。(2002.09.21)
宝永山(右)への登山道が見えます。山頂まで1時間ほどですが、いったん火口底に下りて火山礫の道を登るのは一度で十分です。


今回はしばらく刻々と夕陽に染まって変化していく宝永山を観賞します。しばらくすると雲が湧いてきて、そのカーテンに私達の影が投影されました。ブロッケン現象です(2011.09.12)。富士山では1986年、七合目辺りでぼんやりとしたものを見て以来でした。


この年(2011)は図らずも仲秋の明月でした。小屋の前にはお供えが置かれ、宝永山の方から真ん丸い月が登ってきました。


別の日の写真ですが、夕暮れの宝永山荘の前から影富士を見たことも何度かあります。


上の写真とは反対側の西空が夕焼けに染まっています。(2006.09.02)


さあ、小屋に入って食事の時間です。宝永山荘の名物は富士宮ヤキソバ。情報誌に紹介され、わざわざここまで食べに来る人もいるほどの人気メニューです。私たちは通常、下山してきた「お八つの時間」に生ビールと一緒に頂くことにしています。




お月見の日は夕食の一品に加えて貰いました。標高が高いので下界よりカラッと揚がった天婦羅、猟師さんが仕留めた猪肉をじっくり煮込んだ猪鍋、さらにお月見のお供えのお下がり…豪華なメニューでした。



日が落ちると眼下の町の灯りが美しく輝きます。外は大分冷えてきました。明日の登頂を控えて早めに床につきます。