7月16日。予想外に早く一ノ越に着けたので、夕食までに雄山に登ることにしました。余分な荷物を小屋に預けて14時20分、出発。
南方の展望。中央に槍ヶ岳、右端の岩峰は竜王岳。次第に雲が湧いてきました。
ガラガラの岩屑の急坂を登っていきます。他の山で何合目というところを立山では「何ノ越」と呼びます。それぞれの「越」には小さな祠があります。ここは二ノ越です。
二ノ越付近は落石止めの鉄柵が何ヶ所か設けられています。岩の上の踏み跡もいくつかあり、赤や黄色のペンキで矢印が付けられています。三ノ越まで登ってきました。祠の右手に雄山から北へ向かう稜線が見えます。
頂上の社務所がすぐ近くに見えますが、まだまだ急坂の上りが続きます。疲れ切った感じのご夫婦が降りてくるのに出会いました。
四ノ越まで来ました。あと一頑張りです。日が陰ると風が冷たく、寒さを感じます。(Photo by Marusan)
15時40分、頂上(五ノ越)に着きました。国土地理院の一等三角点標「立山」。前の四角い銅版には三角点の意義や明治28年8月に設置されたこと、この三角点の正確な標高(2991.6m)や位置(北緯36度34分21.2秒・東経137度37分02.9秒)が記されています。背後の丸い石の上には風景指示板が埋め込まれています。
富士山(手前下)、白山はじめ周囲に見える山々が描かれています。前に来たとき(1991年)に見た記憶がないので、家に帰って写真を確かめると上の四角い説明版に「平成8年設置」と記されていました。
登りきったところが三角点で、その前の広場から峰本社の神殿を仰いだ写真です。下から見えていた建物は広場左手にある授与所(社務所)で、この写真には写っていません。左端に見えるV字形の狭間は、立山の最高地点・大汝峰(3,015m)へ行く道です。三ノ越で出会った3人組の男性から「14時半で頂上のお祓いは終わった」と聞いていたのですが、鳥居横の門が開いていて、社務所で200円納めると登拝することができました。
峰神社神殿 敷き詰められた丸い石は登拝者が途中の河原で拾った石を持ちあがる習慣があったことを物語っています。1991年に参拝したとき(それまでは縦走路を通過するだけで、いわゆる三山巡りは初めてでした)の山日記には『万延元年建立の古い神殿の前に敬虔な気持ちで額ずき、神主さんの祝詞で参拝し、お祓いを受けお神酒を授かる。この若い神主は美男で声もよく、しばらく女性軍の話題を独占した。』と記しています。また朝の頂上から見えた峰々を『剣、白馬から鹿島鑓、針の木に続く長い後立山連峰、槍から穂高への厳しい岩稜、優美な笠、五色ヶ原から薬師への長い稜線、緑濃い大日・奥大日のなだらかな連なり、遠くの富士、白山、御岳、北岳、甲斐駒、八ヶ岳…」と書き連ねていますが、午後遅くの今日は濃い霧の中で展望は望むべくもありません。
神社のある場所が雄山での最高点になります。雄山の名については日本三霊山のうち『山容が優美な白山を「比め(口偏にに羊)神と崇めたのに対して、屏風のようにそそり立つ雄大な立山を「雄山」と呼んで崇めてきた」とされています。(住谷雄幸「江戸人が登った百名山」)
神殿のすぐ横は切り立った断崖です。時どき霧が流れると、眼下に足がすくむような景色が展開します。
私たちが最後のようで神殿への門が閉まりました。閉める準備を始めた社務所で記念のお土産を買って、16時30分、ゆっくり滞在した頂上をあとにしました。
17時20分。一ノ越山荘帰着。泊り客は私たち4人を入れて10人。7.5 畳の部屋に一家族ずつ。ゆったりしています。食堂にはストーブが焚かれていました。
山荘の夕食。メニューはシチュー(ジャガイモ、ニンジン、缶詰フレーク?)、唐揚一個、煮物(里芋と高野豆腐)、漬物、オレンジ一切れ。ご飯とシチューはお代わり自由ですが、正直言ってロング缶のお相手には副食が不足でした。ここに泊るのは1973年、1991年と三度目ですが、40年前の夜の献立は「エビフライ、卵焼き、ハム2枚、キューリ、サラダ、トマト、キャベツ」とわざわざ書き残しています。当時としては他の小屋に比べて良かったのでしょう。
楽しみにしていた星空は見えず、17日の朝は濃い霧で明けました。朝食の献立は玉子・ソーセージ・コーンを小鍋で焼き、納豆、かまぼこと焼海苔、芽昆布、ワカメの味噌汁。美味しく頂きました。