ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

久しぶりの立山(終)

2013-07-20 17:43:10 | 山日記

7月17日。陽が登ると消えるかと思っていた霧は一向に晴れず、小屋主の「午後から雨になりそう」という話に下山することにしました。7時15分、スタート。手袋なしではストックを握る手が冷たく、体感温度は10℃をはるかに下回っています。(11時に美女平駅で見た Live view camera では、その時点で室堂で11.6℃でした。小屋のすぐ下の石畳の道は少し凍結して滑りやすくなっています。


昨日あれほどよく見えた稜線は雲に覆われ、「もう一度、自分の登った急斜面を確かめたかった」と丸さんは残念そうです。少し霧が流れて別山が顔を出しましたが、真砂岳から雄山に続く稜線は見えません。


30分ほど下ると少し青空が見えるようになりました。下りの急斜面で何度も雪面を渡りますが、次第に雪が緩んできたので、アイゼンは装着の手間を惜しんで使わずに慎重に下ります。


室堂の建物群が近づく頃、太陽が顔を出して雪面に影を落とすようになりました。(Photo by Marusan)
奥大日岳をバックに地獄谷から噴煙が一筋挙がっています。左端は中大日岳、奥大日から右にグンと落ち込んだところがカガミタン乗越、更に稜線は室堂乗越へ続きます。若い頃、ザックを担いで弥陀ヶ原から称名谷に下り、凍えそうな冷たい水を渡渉して大日岳に登り、あの稜線を歩いて別山乗越から剣沢の幕営地へ降りたことが夢のようです。何度か登ってくる人に道を譲ったり、譲られたりしながら…


ちょうど1時間で室堂第三十二番石塔の分岐に来ました。浄土山の方は晴れていましたが雄山はまだ雲の中です。剣や立山への登山の途次で室堂を通るのは10度目なのですが、実は私も♀ペンもこの辺りでゆっくりしたことがありません。しばらく周辺を散策することにしました。玉殿岩屋への道は雪で覆われているので、室堂山荘の前からミドリガ池の方へ進みます。


ミドリガ池 室堂周辺の火口湖群の中ではミクリガ池に比べて面積が小さく、水深も浅いのですが透明度がとても高い池です。周囲にはアオノツガザクラやコバイケイソウを始め、いろいろな高山植物が咲いていました。のちほどまとめてご紹介します。


ミクリガ池 室堂周辺で最大(面積約30,000平方メートル)、最深(15m)の火口湖です。立山地獄の中の「八寒地獄」であるとされて、昔、山の先輩から「今でも亡者が水を飲みに来る」怪談を聞かされたものです。しかし、「ミクリ」は「御厨」と書き、立山権現の「神の厨房」という意味でした。まず修験道で「神の水」と崇められ、浄土信仰の発展で地獄と見做されるようになったようです。


ミクリガ池の北西隅にあたるところに「みくりが池温泉」があります。写真はここから地獄谷を見下ろしたところです。地獄谷は立山の爆裂火口で周囲約1.5kmの平坦な窪地で、無数の噴出孔が点在しています。立山信仰では八大地獄に小地獄を加えて百三十六の地獄があるとされ、生前の罪に応じて死後どこかに送られると言われました。今昔物語で修行僧が女に会い家族に供養するよう頼まれる話、謡曲「善知鳥(うとう)」で生前、善知鳥を殺した猟師がやはり修行僧に供養を頼む話などの舞台になっています。
 

変愚院の立山・剣デビューは1961年、その頃は源泉地域の中に温泉宿(房冶の湯)があり、宿泊もできました。写真はその折、雷鳥沢幕営地に向かう途中で。左上隅に房冶荘が写っています。


1998年の9月、♀ペンと剣岳に登った帰りにも地獄谷を周回しました。黄色い噴泉塔が突っ立ち、噴煙がたなびく地獄谷を移した写真です。この日は剣沢から剣岳を往復したあと、別山乗越へ登り、雷鳥沢を下ってここへきたので、♀ペンはミクリガ池への登りが辛かったようです。それでも室堂で空室を確かめて、天狗平の立山高原ホテルまで下りました。朝5時半から16時半まで11時間行動、無茶をしたものです。


そんな思い出のある地獄谷は現在、通行禁止になっています。英語、韓国語、中国語の表記もあるのが時代の流れを語るようです。


遊歩道からミクリガ池を見下ろします。立山の稜線はまた雲に覆われてきました。



(Photo by Marusan)

室堂ターミナルの建物のすぐ横に人だかりができています。大きなカメラを据えた人も何人か。昨日、出発時に見た雷鳥の親子が今日も草叢から出たり入ったり。よちよち歩きの数羽の雛をお母さん鳥が心配そうに見守っています。微笑ましい風景に暖かい気持ちで駅に行くと、出発寸前の11時のバスに間に合いました。短い滞在でしたが、懐かしい山々を眺めながら残雪の上を歩き、可愛い雷鳥や美しい花々にも会えて充実した山行でした。

*今回も丸さんの写真を何枚も使わせて頂きました。長時間の運転と合わせてここにお礼申し上げます*


久しぶりの立山(続)

2013-07-20 06:02:01 | 山日記

7月16日。予想外に早く一ノ越に着けたので、夕食までに雄山に登ることにしました。余分な荷物を小屋に預けて14時20分、出発。


南方の展望。中央に槍ヶ岳、右端の岩峰は竜王岳。次第に雲が湧いてきました。


ガラガラの岩屑の急坂を登っていきます。他の山で何合目というところを立山では「何ノ越」と呼びます。それぞれの「越」には小さな祠があります。ここは二ノ越です。


二ノ越付近は落石止めの鉄柵が何ヶ所か設けられています。岩の上の踏み跡もいくつかあり、赤や黄色のペンキで矢印が付けられています。三ノ越まで登ってきました。祠の右手に雄山から北へ向かう稜線が見えます。


頂上の社務所がすぐ近くに見えますが、まだまだ急坂の上りが続きます。疲れ切った感じのご夫婦が降りてくるのに出会いました。


四ノ越まで来ました。あと一頑張りです。日が陰ると風が冷たく、寒さを感じます。(Photo by Marusan)


15時40分、頂上(五ノ越)に着きました。国土地理院の一等三角点標「立山」。前の四角い銅版には三角点の意義や明治28年8月に設置されたこと、この三角点の正確な標高(2991.6m)や位置(北緯36度34分21.2秒・東経137度37分02.9秒)が記されています。背後の丸い石の上には風景指示板が埋め込まれています。


富士山(手前下)、白山はじめ周囲に見える山々が描かれています。前に来たとき(1991年)に見た記憶がないので、家に帰って写真を確かめると上の四角い説明版に「平成8年設置」と記されていました。


登りきったところが三角点で、その前の広場から峰本社の神殿を仰いだ写真です。下から見えていた建物は広場左手にある授与所(社務所)で、この写真には写っていません。左端に見えるV字形の狭間は、立山の最高地点・大汝峰(3,015m)へ行く道です。三ノ越で出会った3人組の男性から「14時半で頂上のお祓いは終わった」と聞いていたのですが、鳥居横の門が開いていて、社務所で200円納めると登拝することができました。


峰神社神殿 敷き詰められた丸い石は登拝者が途中の河原で拾った石を持ちあがる習慣があったことを物語っています。1991年に参拝したとき(それまでは縦走路を通過するだけで、いわゆる三山巡りは初めてでした)の山日記には『万延元年建立の古い神殿の前に敬虔な気持ちで額ずき、神主さんの祝詞で参拝し、お祓いを受けお神酒を授かる。この若い神主は美男で声もよく、しばらく女性軍の話題を独占した。』と記しています。また朝の頂上から見えた峰々を『剣、白馬から鹿島鑓、針の木に続く長い後立山連峰、槍から穂高への厳しい岩稜、優美な笠、五色ヶ原から薬師への長い稜線、緑濃い大日・奥大日のなだらかな連なり、遠くの富士、白山、御岳、北岳、甲斐駒、八ヶ岳…」と書き連ねていますが、午後遅くの今日は濃い霧の中で展望は望むべくもありません。


神社のある場所が雄山での最高点になります。雄山の名については日本三霊山のうち『山容が優美な白山を「比め(口偏にに羊)神と崇めたのに対して、屏風のようにそそり立つ雄大な立山を「雄山」と呼んで崇めてきた」とされています。(住谷雄幸「江戸人が登った百名山」)


神殿のすぐ横は切り立った断崖です。時どき霧が流れると、眼下に足がすくむような景色が展開します。


私たちが最後のようで神殿への門が閉まりました。閉める準備を始めた社務所で記念のお土産を買って、16時30分、ゆっくり滞在した頂上をあとにしました。


17時20分。一ノ越山荘帰着。泊り客は私たち4人を入れて10人。7.5 畳の部屋に一家族ずつ。ゆったりしています。食堂にはストーブが焚かれていました。

 

山荘の夕食。メニューはシチュー(ジャガイモ、ニンジン、缶詰フレーク?)、唐揚一個、煮物(里芋と高野豆腐)、漬物、オレンジ一切れ。ご飯とシチューはお代わり自由ですが、正直言ってロング缶のお相手には副食が不足でした。ここに泊るのは1973年、1991年と三度目ですが、40年前の夜の献立は「エビフライ、卵焼き、ハム2枚、キューリ、サラダ、トマト、キャベツ」とわざわざ書き残しています。当時としては他の小屋に比べて良かったのでしょう。


楽しみにしていた星空は見えず、17日の朝は濃い霧で明けました。朝食の献立は玉子・ソーセージ・コーンを小鍋で焼き、納豆、かまぼこと焼海苔、芽昆布、ワカメの味噌汁。美味しく頂きました。