ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

獅子ヶ鼻湿原

2011-07-22 07:00:00 | 旅日記
鳥海山・獅子ヶ鼻湿原と出羽三山の旅(6)
7月15日。砂地を利用したメロン畑や、砂防のために植えられた松林(枝や幹が内陸に向けて傾いている)を車窓から眺めながら、酒田から北へ。バスは秋田県に入ります。
 鳥海山は今日も雲の中に姿を隠し、わずかに長い裾野の一部からその姿を想像するばかりです。
右手に見えていたその山麓を北に回り込んだところが、秋田県にかほ市「中島台レクリェーションの森」。
管理棟の前から湿原への遊歩道が始まります。



今日は約3時間のハイキング。18人づつ2班に分かれて現地ガイドさんから説明を受けた後、一列に並んで出発します。



一帯は天然記念物「鳥海山獅子ヶ鼻湿原植物群落および新山溶岩流末端崖と湧水群」の指定地域になっていて、いろいろな植物の説明を聞きながら遊歩道を歩きます。
 特に珍しいものはなかったのですが、この植物の名前はガイドさんもご存じないようでした。(どなたかご存知の方お教えください)

30分ほど歩くと分岐があり、ここから湿原の核心部を一周するコースと、「あがりこ大王」を往復するコースに分かれます。道が細いので私たちの班は「大王」へ先に行くことになりました。



すぐに「燭台」(「西洋のローソク立て」と説明がありました)と呼ばれる大きなブナの木に出会います。「ニンフの腰掛」とも呼ばれています。この森にはニンフならぬ熊が良く出没するですが、この人数でゾロゾロ歩けばまず大丈夫でしょう。
 森の中には、このような奇形のブナがあちこちに立っています。雪に痛めつけられたり、病気になったりしたのではなく、積雪時に炭焼きのために人が切ったところから新しい枝が伸びたものです。



その炭焼き窯の後を見ながら10分ほど行くと「あがりこ大王」とご対面です。



傍らの説明版によると幹回り7.62m、幹が上がったとこから子に分かれていることから「あがりこ」と名づけられ、日本中の巨樹の中から「森の巨人たち百選」に選ばれています。
 さすが大王の貫録で、周りには柵やベンチ、一周できる歩道も設けられています。
分岐に引き返し周回路に入ります。



分岐から約10分。「出壺」と呼ばれる湧水地です。別名「熊の水飲み場」
実際はこの写真より右手10mほどの上流にあり、前はそこまで行けたのですが、倒木や保護のために現在近づけなくなっています。
鳥海山の雪解け水が何十年も地下の溶岩を浸み通って湧きだした出壺は、森の中に他にも何か所かあるそうです。





流れに沿って下流へ30分ほど歩きます。対岸にキンコウカが群生しています。



清冽な水があふれています。手が切れるほど冷たい水にタオルを浸して首に巻くと、火照った身体が嘘のように涼しくなりました。
この導水路の水は水門を流れ出て山麓の田園地帯を潤しますが、あまりに冷たいので途中で小さいダムのような貯水槽で温度を上げています。帰りのバスでこの「温水路」を見ました。



鳥海マリモの群生地に来ました。
マリモと言っても北海道阿寒湖の毬藻のような球状ではなくて、岩の上に丸く盛り上がるような形です。
また淡水性の藻ではなくて苔の一種です。



『ハンデルソロイゴケとヒラウロコゴケが絡み合って、内部に古いからだを遺骸として残しながら表層が成長を続くけた結果、球状となった』と説明版にありました。

最後は少し急な岩交じりの道を登って、元の分岐に帰りました。
駐車場近くの管理棟まで5km、ゆっくり説明を聞いたり休んだりしながら3時間足らず。
殆ど高低差もなく楽なハイキングでしたが、マリモや出壺が傍で見られなかったので、ちょっと期待外れで残念でした。

朝の酒田散歩

2011-07-21 07:36:29 | 旅日記
鳥海山・獅子ヶ鼻湿原と出羽三山の旅(5)
7月14日、羽黒山から酒田に下りました。
山形県酒田市は人口約11万人。庄内平野の平坦地でのどかな田園風景が広がっています。



最上川を渡って市街地に入ります。



橋の欄干の獅子頭。
 酒田のシンボルともいえる獅子頭は、市役所玄関をはじめ市内のいたるところで見られます。
 酒田市は1976年(昭和51年)10月、のちに「酒田大火」と呼ばれる大火災で中心部を含む広範囲を焼失しました。
 その復興に一役買ったのが、日枝神社の例大祭「山王まつり」。酒田大火の復興後、昭和54年から「酒田まつり」と名前を改めて市民の祭りとなりました。祭りの日は様々な神輿や山車が練り歩きますが、子供が健康に育つように、獅子頭の口の中に子供を乗せて市内を巡るそうです。

 市内に新しい家が多いのはこんな歴史があったためと改めて思い、今回の太平洋側の大震災や津波の被害からの一日も早い復興を祈らずにおれません。



15日、前夜泊まったホテル近くにこんもりと茂った緑の森が見えます。昨日、ガイドさんに聞いていた「山居倉庫」(さんきょそうこ)です。早朝、5時から朝の散歩がてらに行ってみました。
 明治26年(1893)、酒田米穀取引所の付属倉庫として建造され、今も現役の農業倉庫として活躍しています。
これは正面からみたところで、12棟の白壁土蔵作りの倉庫がずらりと並んでいます。



ここは元、酒田市内を流れる新井田川の中洲で、港が近く舟運にも適していたところです。
かっては川に面して船着場も設けられていました。
江戸時代には最上川本流では「ひらた舟」が、支流や船着き場間の小輸送には「小鵜飼舟」という名の舟が使われました。



復元された「小鵜飼舟」
説明版によると、長さ12~15m、幅2mほど。前方に帆を掛け、風を利用しました。流線型でスピードが出そうです。50俵ほどの積載量だったそうです。



横手から裏へ回ってみます。
屋根は二重構造で風通しを良くして内部の湿気を防ぐ構造になっています。



ずらりと植えられたケヤキの大木は日除け、風よけの役目を果たしています。どこかで見た風景だと思っていましたが、ここは NHKの連続テレビ小説「おしん」のロケ地でもありました。



早朝で資料館などは閉まっていましたが、特産のベニバナが美しく咲いていました。

月山・弥陀ヶ原

2011-07-20 09:02:38 | 旅日記
鳥海山・獅子ヶ原湿原と出羽三山の旅(4)

『八日、月山にのぼる。木綿(ゆう)しめ身に引きかけ、宝冠に頭を包(つつみ)、強力と云ものに道びかれて、雲霧山気の中に氷雪を踏てのぼること八里、更に日月行道の雲関に入かとあやしまれ、息絶(たえ)身こごえて頂上にいたれば、日没して月顕(あらわ)る。笠を舗(しき)、篠を枕として明るを待。日出て雲消ゆれば湯殿に下る。』
 松尾芭蕉の「奥の細道」でも特に好きな個所です。江戸時代には月山の登拝口は八方七口といわれ、羽黒山の羽黒口をはじめ、庄内側に三か所、内陸側に四か所の登山口がありました。
奥の細道には『六月三日、羽黒山に登る。…四日、本坊にをいて俳諧興行。…五日、権現に詣(もうず)。』とありますが、羽黒山に参詣したあとの六日、七日の記述がありません。芭蕉はどの道を登ったのでしょう?



今は深田百名山の一つにあげられる月山。殆どの登山者はこの八合目からスタートします。
 自動車道路の終点でバスを降りるとすでに標高1,400m。この標識の後ろに月山の大きな山容が横たわっている筈なのですが、残念ながら濃いガスに覆われて、山頂部はおろか、ほんの少し先までしか見通せませんでした。



八合目は湿原地帯で、「いろは四十八沼」といわれる大小の池沼が散在し、ワタスゲなどの植物が生えています。なかでもホンモンジスゲは水田の稲穂に似た実をつけるので「御田ヶ原」の名が生まれました。
 現在では「弥陀ヶ原」の方が通りがよく、高山植物の宝庫として知られています。ここで1時間半、自由散策をします。



湿原の中を一周する木道の遊歩道が設けられていて全部回っても3kmほどですが、バスの時間があるので途中の中之宮から半月形にショートカットするように言われています。
 ここが「中之宮」御田原神社。参籠所として宿泊もできるそうです。ここで神札の代わりに神印を押した手拭を授かりました。

月山神・月読命(つくよみのみことが)が姿を現したのは欣明八年(547年)丁卯の年と伝えられ、以後、卯の年は「卯歳御縁年」として、この年に参拝すると特にご利益があるとされています。



月と関係が深い「ウサギ」は豊穣の象徴であり、また月読命は農耕と漁猟の神とされています。



この鳥居をくぐって10分ほどで頂上への道と分かれます。「頂上まで登りたいなあ」





一面のガスの中にニッコウキスゲが浮かんでいます。



弥陀ヶ原で見た高嶺の花たち。ミヤマホツツジ



イワイチョウ



ウラジロヨウラク



ゴゼンタチバナ



トキソウ。他にキンコウカ、コバギボウシ、ハクサンチドリ、イワカガミ、チングルマ、ヨツバシオガマなど。ミズバショウは花が終わり、葉がお化けのように大きくなっていました。



名残を惜しみながらバスに帰りました。

羽黒山三神合祭殿

2011-07-19 12:19:02 | 矢田だより
鳥海山・獅子ヶ鼻湿原と出羽三山の旅(3)
羽黒山山頂の駐車場でバスを降りると、さすがに羽黒派古修験道の本拠だけあって山伏姿の人に出会い、どこからか法螺貝の音も聞こえて神々しい雰囲気です。



古い石の参道脇にアジサイが美しく咲いています。
ずらりと並んで見える屋根は、百一社とされる三山の山中に散在する末社の一部です。



芭蕉の句碑。三山の句が一つの石に刻まれています。
右「涼しさやほのみか月の羽黒山」
中央「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」
左「雲の峰幾つ崩れて月の山」
なぜか中央の湯殿山の句は「加多羅礼努湯登廼仁奴良須當毛東迦那」と万葉仮名で記されていました。



中央に見えるのは参集殿。地上二階、地下一階建て。社務所と参拝者の受け入れ、儀式などの機能を持つ昭和63年建設の新しい建物です。その右は先祖の霊を祭る霊祭殿。



参集殿の軒に掲げられた「松例祭引綱(しょうれいさいひきつな)」
その下の「松例祭引綱の由来」によると
 
『毎年師走に斉行される松例祭は歳屋祭(としやまつり)とも言われる。出羽三山神社御開祖蜂子皇子命(ハチコオオウジノミコト)がこの地方より病魔を退散せしめた故事により、山麓山伏のうちから位上(いじょう)、先途(せんど)の二名の松聖(まつひじり)が選ばれ、羽黒山頂の斉館で百日間参籠、斎戒沐浴し、天下泰平、国土安穏、五穀豊穣、疫病退散を祈願する。その満願の日が松例祭であり、夜を徹して繰り広げられる諸儀は、百日勤行の両松聖の修行の験力が御神意により、いずれの方に顕われるかを奉仕の若者によって競われる神事である。
 この綱は疫病病魔の形に模した大松明(ツツガムシ)を引いて焼き払う神事に用いられたもので、この綱をおまつりすることによって、災いが近寄らない、所謂(いわゆる)除災招福のご利益があります』

写真家で宗教民俗学者の「修験道の精神宇宙-出羽三山のマンダラ思想」の中に、この松例祭が具体的に詳しく紹介されています。それによると
『大晦日の当日、お昼すぎから雪のなかを近在の人々が続々と羽黒山につめかけ、「綱まき」がはじまる。これは「大松明」を縛った大綱を二尺ほどの長さに切り、これを二つの大松明の上から両松聖がそれぞれ投げ、つめかけた人々がうばいあい、興奮した若者たちのうばいあいの喧嘩があちこちではじまる。この綱は家の戸口にかけておくと、火防や家の守りになるとされている。大松明は高さ約四メートル、長さ十メートルで、後方が細くなった四角錐型をしており、葦を縄であんだ菰をまき、太綱で十文字に縛る。大松明はツツガ虫の姿だともいわれるが、また一説には轟乱鬼(ソランキ)という妖鬼を象ったものという。』



三神合祭殿
羽黒派古修験道独自のもので主に杉材を使用しています。『入母屋造り、高さ九丈三尺、萱屋根厚さ八尺、東西十三間、南北九間、杉の大柱三十六本…』という重厚な建物です。何度も火災にあい、現在の社殿は文政元年(1818)に再建されたものです。当時は赤松脂塗でしたが、昭和45年~47年にかけての開山1,380年記年事業の一環として朱漆塗の現在の姿になりました。(国の重要文化財)



三辺に朱塗りの高欄を巡らせた、茅葺の神社建築では日本最大規模の豪壮な建築です。
出羽三山のうち、月山と湯殿山は山頂や渓谷にあり、雪の深い冬季の参拝や祭典が出来ないので、三山の恒例、臨時の祭典は全てこの合祭殿で行われます。
内陣中央に月読命<月山>、右に伊氏波神(稲倉魂命)<羽黒山>、左に大山祇命,大己貴命,少彦名命<湯殿山>を祀っています。



「花祭り」の献灯
花祭りは毎年7月15日に三神合祭殿で行われる例祭です。この造花の献灯は稲の花をかたどったもので、祭りの当日は三社三基の神輿とともに献灯の渡御が行われます。



鏡池(御手洗池)
合祭殿の前のこの池は、年中、同じ水位を保っている神秘の池として古くから信仰されてきました。この池には平安から江戸時代にかけて多くの銅鏡が奉納されています。
花祭りでは神輿と献灯がが鏡池を一巡したあと、境内を埋め尽くした参拝客が、五穀豊穣・家内安全を祈って献灯の花を授かります。



鏡池を左に合祭殿を右にして正面に赤い山頂鳥居が見えます。ここが表参道から神社への入口。つまり五重塔から一の坂、二の坂、三の坂…と辿ってきたときの表参道石段の終点になります。
左は末社の厳島神社、右は出羽三山神社の開祖・蜂子皇子を祀る蜂子神社です。



鐘楼
鏡池の東にある切妻造り萱葺きでの建物。鐘は建治元年の銘があり、東大寺・金剛峰寺に次いで古いものです。年末の番組「行く年、来る年」などにたびたび登場する有名な鐘でもあります。

まだまだ見残したところも多いのですが、この辺りで境内を出ることにします。

羽黒山五重塔

2011-07-18 10:23:49 | 旅日記
鳥海山・獅子ヶ原湿原と出羽三山の旅(2)
羽黒山は出羽三山のうち一番標高が低く、414mの山というより丘陵です。
特に豪雪地帯でもある他の二山に比べ参拝が楽なので、羽黒山頂の出羽神社を月山、湯殿山の里宮として三山の神々を合祀しています。



7月14日午後、バスで参道の大鳥居をくぐります。



手向の集落に入ります。ここには「御師」といわれる参詣者を案内し、参拝・宿泊などの世話をする人の家が今もたくさん残っています。
その家の軒の下には、妙な形をした注連縄が吊るされています。
これは出羽神社の神事「松例祭」に使われたツツガムシといわれる引綱で、無病息災のお守りだそうです。(写真はのちに真打が登場します)
白い注連縄が張られた上に見えるピンク色のものは「花」と呼ばれます。ちょうど翌15日に花祭りが行われる宵宮の日でした。



鳥居の奥に見えるのが「随身門」
もとは仁王門でしたが、明治の廃仏毀釈の際に名前が改められました。この先が月山、湯殿山を含めた出羽三山の神域になります。



随身門横の天拝石



ここから継子坂の急坂を下ります。



坂を下りきると祓川にかかる朱塗りの神橋。ここで水垢離をとり身の汚れを落として三山参拝に向かったところです。



祓川に落ちる須賀ノ滝



樹齢1000年という爺杉。この表参道の両側には山頂まで2kmの間、樹齢300~600年の大杉が生い茂っています。



こけら葺き、三間五層素木(しらき)造りの国宝・五重塔。平将門の創建と伝えられています。



参道の石段はここから「一の坂」の登りとなり、さらに「二の坂」「三の坂」を経て全部で2,446段。登りきると山頂の赤い鳥居に出ます。
斉藤茂吉の「三山参拝の歌」の中に
『しずかなる羽黒の山や杉のまの石の階(きざはし)を匍ひ(はい)つつのぼる』があります。



てっきりこの順路を登るものと覚悟していましたが、実はこの図のように、右手から山頂に通じる自動車道路が出来ているのです。
もとの継子坂を引き返しました。涼しい杉木立の中でも、急な石段の登りに全身から汗が吹き出します。



随身門前には神輿を載せた車が着き…



子供たちが楽しそうに明日のお祭りの準備をしていました。
ここから月山高原ラインで月山八合目まで登り、その帰りに三神合祭殿に参拝しました。
(BLOG構成の都合で、次は合祭殿をレポートします)

笹川流れ

2011-07-17 15:35:00 | 旅日記
鳥海山・獅子ヶ原湿原と出羽三山の旅(1)
前々から訪ねたいと思っていた出羽三山。
今年こそ月山に登りたいと思っていたのですが、まずは安直にJTBのツァーに参加しました。
月山・弥陀ヶ原と鳥海山麓の獅子ヶ原の、二つの湿原のハイキングも楽しみです。



7月14日朝、7時40分伊丹空港発のプロペラ機で新潟空港へ。



9時前からバスに揺られて「日本海パークライン」を走り、最初の目的地「笹川流れ」へ。



トイレ休憩をかねて下車した道の駅は、JR桑川駅に併設された珍しい構造です。
右が道の駅で、レストラン、特産品コーナー、ビデオコーナー、観光案内センターがあります。



海岸へ下りてみました。





ハマナスの実がつややかに光っています。





この辺りは「越後山北(さんぽく)」と言われたところですが、2008年に村上市と合併しました。
笹川集落を中心に約11kmの間「笹川流れ」と呼ばれる、美しい海岸美が続きます。



「松島にこの美麗ありて此の奇抜なし 男鹿にこの奇抜ありて此の美麗なし」
幕末の志士・頼三樹三郎(頼山陽の三男)が「海府遊記」に記した賛辞です。



大小の岩の間を流れる潮流は、集落の名前に因んで「笹川流れ」と呼ばれています。



眼鏡岩、屏風岩、恐竜岩…様々な岩が次々に顔を出しますが、次々と連続する隧道に遮られ、バスの車窓からはあっという間に姿を消してしまいます。
遊覧船に乗って海からゆっくり見てみたいところです。



寒川(かんがわ)まで来ると笹川流れは終わりますが、美しい景色はまだ続きます。
ここは勝木駅近くの「寝屋」。「夕映えの港町」の標識が見えます。
そろそろ海岸美とはお別れ。午後は羽黒山へ向かいます。

梅雨空に咲く…矢田寺のアジサイ(1)

2011-07-09 10:20:13 | 矢田之花暦(やたのはなごよみ)
梅雨空に咲く…矢田寺のアジサイ


古くから「矢田の地蔵さん」として親しまれてきた金剛山寺。
天武天皇の勅願寺でかっては多くの堂塔伽藍がありました。今はアジサイ寺として
有名で、花の季節には訪れる人が後を絶ちません。

地形を利用して小さい谷間に遊歩道が設けられていますが、参道を挟んで反対側に
「見本園」があります。そこで見ることのできる花をご紹介します。