ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

羽黒山三神合祭殿

2011-07-19 12:19:02 | 矢田だより
鳥海山・獅子ヶ鼻湿原と出羽三山の旅(3)
羽黒山山頂の駐車場でバスを降りると、さすがに羽黒派古修験道の本拠だけあって山伏姿の人に出会い、どこからか法螺貝の音も聞こえて神々しい雰囲気です。



古い石の参道脇にアジサイが美しく咲いています。
ずらりと並んで見える屋根は、百一社とされる三山の山中に散在する末社の一部です。



芭蕉の句碑。三山の句が一つの石に刻まれています。
右「涼しさやほのみか月の羽黒山」
中央「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」
左「雲の峰幾つ崩れて月の山」
なぜか中央の湯殿山の句は「加多羅礼努湯登廼仁奴良須當毛東迦那」と万葉仮名で記されていました。



中央に見えるのは参集殿。地上二階、地下一階建て。社務所と参拝者の受け入れ、儀式などの機能を持つ昭和63年建設の新しい建物です。その右は先祖の霊を祭る霊祭殿。



参集殿の軒に掲げられた「松例祭引綱(しょうれいさいひきつな)」
その下の「松例祭引綱の由来」によると
 
『毎年師走に斉行される松例祭は歳屋祭(としやまつり)とも言われる。出羽三山神社御開祖蜂子皇子命(ハチコオオウジノミコト)がこの地方より病魔を退散せしめた故事により、山麓山伏のうちから位上(いじょう)、先途(せんど)の二名の松聖(まつひじり)が選ばれ、羽黒山頂の斉館で百日間参籠、斎戒沐浴し、天下泰平、国土安穏、五穀豊穣、疫病退散を祈願する。その満願の日が松例祭であり、夜を徹して繰り広げられる諸儀は、百日勤行の両松聖の修行の験力が御神意により、いずれの方に顕われるかを奉仕の若者によって競われる神事である。
 この綱は疫病病魔の形に模した大松明(ツツガムシ)を引いて焼き払う神事に用いられたもので、この綱をおまつりすることによって、災いが近寄らない、所謂(いわゆる)除災招福のご利益があります』

写真家で宗教民俗学者の「修験道の精神宇宙-出羽三山のマンダラ思想」の中に、この松例祭が具体的に詳しく紹介されています。それによると
『大晦日の当日、お昼すぎから雪のなかを近在の人々が続々と羽黒山につめかけ、「綱まき」がはじまる。これは「大松明」を縛った大綱を二尺ほどの長さに切り、これを二つの大松明の上から両松聖がそれぞれ投げ、つめかけた人々がうばいあい、興奮した若者たちのうばいあいの喧嘩があちこちではじまる。この綱は家の戸口にかけておくと、火防や家の守りになるとされている。大松明は高さ約四メートル、長さ十メートルで、後方が細くなった四角錐型をしており、葦を縄であんだ菰をまき、太綱で十文字に縛る。大松明はツツガ虫の姿だともいわれるが、また一説には轟乱鬼(ソランキ)という妖鬼を象ったものという。』



三神合祭殿
羽黒派古修験道独自のもので主に杉材を使用しています。『入母屋造り、高さ九丈三尺、萱屋根厚さ八尺、東西十三間、南北九間、杉の大柱三十六本…』という重厚な建物です。何度も火災にあい、現在の社殿は文政元年(1818)に再建されたものです。当時は赤松脂塗でしたが、昭和45年~47年にかけての開山1,380年記年事業の一環として朱漆塗の現在の姿になりました。(国の重要文化財)



三辺に朱塗りの高欄を巡らせた、茅葺の神社建築では日本最大規模の豪壮な建築です。
出羽三山のうち、月山と湯殿山は山頂や渓谷にあり、雪の深い冬季の参拝や祭典が出来ないので、三山の恒例、臨時の祭典は全てこの合祭殿で行われます。
内陣中央に月読命<月山>、右に伊氏波神(稲倉魂命)<羽黒山>、左に大山祇命,大己貴命,少彦名命<湯殿山>を祀っています。



「花祭り」の献灯
花祭りは毎年7月15日に三神合祭殿で行われる例祭です。この造花の献灯は稲の花をかたどったもので、祭りの当日は三社三基の神輿とともに献灯の渡御が行われます。



鏡池(御手洗池)
合祭殿の前のこの池は、年中、同じ水位を保っている神秘の池として古くから信仰されてきました。この池には平安から江戸時代にかけて多くの銅鏡が奉納されています。
花祭りでは神輿と献灯がが鏡池を一巡したあと、境内を埋め尽くした参拝客が、五穀豊穣・家内安全を祈って献灯の花を授かります。



鏡池を左に合祭殿を右にして正面に赤い山頂鳥居が見えます。ここが表参道から神社への入口。つまり五重塔から一の坂、二の坂、三の坂…と辿ってきたときの表参道石段の終点になります。
左は末社の厳島神社、右は出羽三山神社の開祖・蜂子皇子を祀る蜂子神社です。



鐘楼
鏡池の東にある切妻造り萱葺きでの建物。鐘は建治元年の銘があり、東大寺・金剛峰寺に次いで古いものです。年末の番組「行く年、来る年」などにたびたび登場する有名な鐘でもあります。

まだまだ見残したところも多いのですが、この辺りで境内を出ることにします。