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見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

仏画と仏像/十二神将(金沢文庫)+仏像入門(鎌倉国宝館)

2018-04-13 21:15:05 | 行ったもの(美術館・見仏)
神奈川県立金沢文庫 特別展『十二神将~修理完成記念特別公開~』(2018年3月16日~5月6日)

 平成23年(2011)より5年間にわたって行われた十二神将像(絵画)の修理完成を記念し、修理後初めて公開する。12幅揃いでの展示は14年ぶりだという。過去のブログをたどってみたら、私は2010年の特別展『金沢文庫の絵画』で亥神と辰神を見ている。そのときも「記憶にない」と驚いているが、今回も、ほぼ初見のような新鮮な気落ちで見入った。称名寺に伝わる十二神将像は鎌倉時代の作。一神ずつ12幅に分けて描いた作品としては、現存最古かつ孤立した例になるそうだ。

 背景をはじめ、衣服にも寒色が多用されており、鎧・兜や宝冠をあらわす金泥との対比が豪華である。中央に神将を大きく描き、周囲に小さく眷属(?)などを描く。寅神の場合だと、真っ赤な体の武闘派の童子が2人、みずら頭の大人しげな童子が1人、髭の文官が1人、女性が1人。合計5人はどの画像でも変わらないが、辰神は女性が2人だったり、巳神は成人男性が2人だったり、組み合わせが少しずつ異なる。また十二神将は十二支に対応しており、頭部にシンボルを載せているほか、足元にも動物が描かれている。大きさはさまざまなので、龍や馬はすぐ分かったが、サルやイノシシはけっこう探した。ネズミはイタチみたいにデカかった。画幅の最上部の左右には2つの円輪が配され、本地仏と七曜星(重なるものあり)が描かれている。

 展示室には、春・東・木・緑に対応する寅神から展示が始まり、丑神で終わる流れになっていた。五行思想に基づき、寅・卯が春・東で、辰が土用・中央、巳・午が夏・南で、未が土用・中央というように、2神おいて1神を土用に対応させている。個人的に好きなのは、「静」の寅神、「動」の辰神と戌神。真っ赤な顔の午神は、なぜか人差指で下唇を押さえていて(ものを欲しがる子どもみたい)ちょっとかわいい。

 十二神将像は称名寺の灌頂堂(称名寺絵図に描かれた両界堂)に伝わった。かなり特殊な動機で制作されたと考えらえることから、おそらく蒙古の再来襲に備え、国家護持のためにつくられたが、次第に当初の用途を離れ、修行者を悩ませる「時媚鬼」などを払うものとして、灌頂堂に備えられるようになったのではないか、という推理が非常に面白かった。

 あわせて、神奈川県下の仏教絵画の名品をいろいろ見ることができた。『焔摩天曼荼羅』(鎌倉時代)は、どこか寸足らずな閻魔王と冥官たちがゲームのキャラみたいでかわいい。白象に乗る焔摩天は美形。また、龍華寺から室町時代のものと江戸時代のものと、2種の両界曼荼羅が出ていた。江戸時代のものは、実際に灌頂の儀式で敷曼荼羅として使われたものということだが、やや単純化された色と図像がきれいだった。

鎌倉国宝館 特別展『仏像入門-のぞいてみよう!ウラとワザ-』(2018年3月10日~4月15日)

 仏像の基礎知識とともに、仏像の背面や底面、納入品、造像背景など仏像の「ウラ」と、材質やつくり方、彩色技法など仏像づくりの「ワザ」を紹介する特別展。平常展示の十二神将立像の一部をキャラクター化した「ねずみ隊長(片目を閉じて注目)」「とら隊員(何でも前のめり)」「うさぎ隊員(額に手をかざして見物)」が見どころを紹介する。せっかくなので、あとの9躯も順番にキャラ化してほしい。

 平常展示はいつもの顔ぶれで、特別展エリアには、円覚寺の阿弥陀如来及び両脇侍像(善光寺式)とか、建長寺山門の小さな五百羅漢像の一部とか、巨福呂坂町内会の歓喜天立像とか、けっこう珍しいものも出ていた。市場公会堂の十一面観音菩薩立像(江戸時代)はあまり記憶にない仏像だが、なかなかよかった。仁王像玉眼木型(江戸時代)は、水晶を玉眼に削り出すための木型。パソコンのマウスみたいなかたちをしている。日向薬師の仁王像に関係するものとの解説あり。個人蔵。

 仏像だけかと思っていたら、参考展示の絵画類も楽しめる展覧会だった。建長寺の『釈迦三尊図』1幅(南宋時代)は絢爛、美麗。中央の釈迦如来は大きな宝冠を被り、光背を囲む大きな瑞雲。頭上には天蓋が浮かぶ。普賢と文殊は、白象と獅子に乗っているのだが、背中に脚つきの椅子を載せたような、不思議な台座に乗っている。ただ、意外と象に乗る輿のかたちとしては、あれが正しいのかもしれない。国宝館の『出山釈迦図』(明代)もよかった。光明寺の『阿弥陀聖衆来迎図』はピンクや水色など、パステルカラーの光背をつけた聖衆が音曲を演奏していて、楽しそうでかわいい。神武寺の『大威徳明王像』は江戸時代の模写だが、色鮮やかで迫力があった。
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古くて、新しい/立憲君主制の現在(君塚直隆)

2018-04-12 20:38:51 | 読んだもの(書籍)
〇君塚直隆『立憲君主制の現在:日本人は「象徴天皇制」を維持できるか』(新潮選書) 新潮社 2018.2

 21世紀にいまさら立憲君主制?と思われるかもしれないが、読んでみたら面白かった。私は小中学生の頃に、戦後日本の象徴天皇制は立憲君主制と別種の制度であり(天皇=君主じゃないから)、世界史的に見て、非常に例外的な制度であるように習った記憶があるのだが、なんのことはない、これを「立憲君主制」の一亜種と考えれば、特別ユニークではないことに合点がいった。はじめに、君主制には「絶対君主制」「立憲君主制」「議会主義的君主制」があるという古典的分類が示される。この分類では「立憲君主制」は専制主義に立憲的な見せかけを施したもので、20世紀の後半に次々に君主制を捨て、共和制に転じた(エジプト、イラク、イランなど)。21世紀の今日、君主制を採る多くの国では、議会制民主主義のもとで統治が行われている。したがって本書は「議会主義的君主制」を含めて、広く「立憲君主制」と称していくことが確認される。

 次に、立憲君主制の母国であるイギリスにおいて、どのようにこの体制が形成されていったかを検討する。いきなり話が10世紀(!)にさかのぼることにびっくりした。中世のイングランド王国を統治したアゼルスタン王は、地理的・社会的に多様な有力者を集めて「賢人会議」を定期的に開催した。多いときは100名程度の有力者(聖職者・世俗の諸侯)が集められ、立法、単一通貨、王位継承などの問題を話し合うことで、政治的安定性が維持された。その後の国王もこれを継承し、12世紀にはフランス語で「パルルマン」という名称が定着し、13世紀には「パーラメント=議会」と呼ばれるようになる。14世紀には、のちに「貴族院」「庶民院」と呼ばれる二院制が成立する。

 16世紀、エリザベス1世は議会との協力の下、弱小国イングランドを大陸の強大国の侵略から守ることができた。しかし次代の国王たちは議会と対立し、内乱、混乱ののち、17世紀末に名誉革命が成立する。「名誉革命」はフランス大革命などと比較すると、世界史全体を揺るがすような大事件ではなかったが、「議会を通じて表明される国民の意思が政治を動かしていく」議会君主制への移行を可能にしたという点できわめて重要、という著者の指摘にとても納得した。私の高校時代の世界史の先生は(フランス革命もだけど)名誉革命の経緯を詳しく講義してくれたので、40年近く経った今も、習ったことを鮮明に思い出すことができる。一生の財産となる授業をしてもらったと思っている。そして、イギリスに名誉革命があり得たのは、10世紀までさかのぼる、国王と国民(の代表者)の話し合いの歴史があったから、ということを初めて理解した。

 イギリス王室については、さらに20世紀から21世紀にかけて、二度の大戦をどのように乗り切り、大衆民主政治の時代にどう対応したかが紹介されている。1997年のダイアナ事件の背景として、サッチャー保守党政権時代に奨励された「自由競争」により、国民の間で王室や上流階級に対する「恭順」の感覚が急激に衰弱し、経済的に取り残された人々の間ではダイアナに対する「自己投影」(ダイアナも自分も弱者である)が強まったという指摘はとても興味深い。いまの日本との類似も感じられる。エリザベス女王はこの危機に敢然と立ち向かい、広報活動につとめ、歳費を透明化し、2013年には王位継承法を「絶対的長子相続制(男女を問わない)」に変更し、カトリックの排除も改めた。こうした改革は国民に好意的に受け入れられているという。素晴らしい。

 続いて、北欧(ノルウェー、スウェーデン、デンマーク)、ベネルクス(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)の君主制の近現代のありかたを紹介する。非常に興味深かったのは、ナチス・ドイツの侵略に対する抵抗の象徴となった国王、女王たちの存在である。ナチスに占領されたコペンハーゲンに留まり、毎朝、護衛もつけずに愛馬で散歩したというデンマークのクリスチャン10世。亡命先のロンドンで奮闘したノルウェーのホーコン7世、オランダのウィルヘルミナ女王。この、君主と国民が一体となってファシズムに勝利した体験があってこそ、ヨーロッパ諸国の「立憲君主制」は20世紀を永らえたのだと思う。

 大戦の記憶が薄れるにつれ、君主制の基盤が揺らがなかったわけではない。しかし、ここに紹介されているヨーロッパ諸国の君主は、社会(国民)の変化にあわせて、その存在意義をきちんとアップデートしていると感じた。本書は、イギリス国王の役割のうち「国民の首長(Head of Nation)」としての役割を(1)国民統合の象徴、(2)連続と安定性の象徴、(3)国民の功績の顕彰、(4)社会奉仕への援助、に分けて説明している。(3)(4)は別の組織でも代替できるが、(1)(2)は君主制だけが持つ機能で、民主主義の弱点を補完する面があると思う。

 ここまで読むと、日本の象徴天皇制を本書の「立憲君主制」の一部に含めることに違和感はなくなる。そして、各国の君主制のありかたを参考にしながら、象徴天皇の責務や生前退位、女性への継承権などの問題を考えていく必要があると感じた。
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2018極楽寺と忍性塔特別公開

2018-04-10 23:14:43 | 行ったもの(美術館・見仏)
〇極楽寺(神奈川県鎌倉市)釈迦如来特別御開扉と忍性塔公開

 東京に戻って1年、カレンダーを見たら、4月8日が日曜日に当たっていることに気づいた。久しぶりに鎌倉・極楽寺の清涼寺式釈迦如来の開扉と忍性上人の墓(忍性塔)を拝みに行ってみることにした。極楽寺の参道は、例年なら桜の花盛りの時期だが、今年は若葉のトンネルになっていた。

 宝物館は非常に混雑していて、係員のおじさんが「少しずつお進みください」と、時々声をかけていた。秘仏の釈迦如来像は、相変わらず若々しくて、弓形の眉、切れ長の目元がイケメンである。本家(?)清凉寺の釈迦如来より人間味のあるお顔をしていると思う。瑞雲が湧き上がるような光背にちょうど光が当たり、きらきら金色に光って美しかった。転法輪印(説法印)の釈迦如来坐像も好きな仏様である。前回は、奈良博の『忍性』展でお会いしている。双子のようによく似た仏様(の阿弥陀如来坐像)が九州から来ていらしたことを思い出した。小さな十大弟子立像(鎌倉時代)も面白い。歯をむき出した口元をしっかり作っている。

 本堂の前には、花まつりの花御堂が置かれていた。列に並んで、小さな誕生釈迦に甘茶をかける。極楽寺の境内は全面的に撮影禁止のため、写真は自粛。

 本堂の脇を通り抜けて裏道に出る。ここから左へ向かうと忍性塔なのだが、その案内板が新しくなっていた。と言っても、私が前回来たのは2012年だから、いつ変わったのか分からないが…。境内も忍性塔も撮影ができないので、いつもこの案内板の写真だけ撮って、記念にしているのである。



 しばらく住宅街を歩き、グラウンド(軟式野球をしていた)脇のだらだら坂を登っていくと、開け放たれた門扉が現れる。おじさんが「どうぞ」と招き入れてくれる。ちなみに門扉に取り付けられた案内板は、昔のスタイルだった。



 さらに坂を登ると、杉木立に囲まれた平地に出る。緑の垣根で仕切られた一角に忍性塔が建てられている。忍性塔は357センチメートルの石造五輪塔で、とにかくデカい。大きいと分かっていても、あらためて呆れてしまう。私が着いたのは午後1時過ぎで、石塔の前で法会が行われていた。前回来たときも、同じ状況だったことを思い出す。ひとまず参拝者の列に並んで折り目正しくお焼香する。しばらく読経の声を聞きながら待っていたら、やがて法会が終わって、石塔のまわりに入れてくれた。警備の方が先に入って、お坊さんたちが撒いていた散華を拾い集め、参拝客に分けてくれた。「財布や箪笥に入れておくとお守りになりますよ」とのこと。石塔の裏側では、シャガの花が盛りだった。

 忍性さんは、むかしから好きなお坊さんだったが、奈良博の展覧会で、詳しく生涯を(筑波山のふもとに滞在したことがあるとか)知って以来、一層、親しみを感じるようになった。極楽寺の裏手まで戻ってきたとき、鎌倉在住の友人とばったり会ってしまったのは奇遇。

 このあと、鎌倉国宝館に寄ったことは別稿で。さらに海蔵寺にも寄ったのだけど、海棠の古木は、すっかり樹勢が衰えた感じだった。いつまで花をつけてくれるかなあ。最後に海蔵寺の新しげな花御堂を。


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統計で読む・統計を読む/日本の公教育(中澤渉)

2018-04-09 23:30:38 | 読んだもの(書籍)
〇中澤渉『日本の公教育:学力・コスト・民主主義』(中公新書) 中央公論新社 2018.3

 公教育とは、一部もしくは全体は公費によって運営され、広く一般国民が受けることのできる学校教育を指す。幼稚園から大学及び高等専門学校まで。短期大学、大学院、専修学校・各種学校、それに特別支援学校も含まれる。厚生労働省の管轄である保育所も、文脈によって本書では公教育の対象に含めることがあらかじめ示されている。

 序章は、本書のテーマである「教育の公共的価値とは何か」が表題になっている。教育システムを維持することは政府にとって一時的なコストになる。しかし、教育は社会全体の富を増やし、国家の税収を増やす。道徳意識が高まることで、治安維持や医療のコストを減らし、文化的で民主主義的な社会をもたらすと言われている。日本人は教育熱心だと言われるが、それは自分の子どもに対してである。教育(特に就学前教育、高等教育)は社会がサポートすべき問題であるという視点が希薄で、教育を担う側も、教育の重要性を説得力のある形で社会に訴える姿勢が欠けていたのではないか、と著者は指摘する、同意できるところが多い。

 第1章では、近代学校制度の発達と、それに伴う家族や地域社会、労働市場との関係性の変容について考察する。いろいろ関連書は読んできたが、あらためて高等教育機関(大学)の歴史を興味深く読んだ。1970年代に「マス化」を遂げた日本の大学は、2000年代に至って「ユニバーサル段階」に突入したという。ここまで進学率が上昇すれば、大学の組織や社会的役割が変わらないと考えるほうがおかしい、というのはそのとおりだ。70年代どころか、90年代の大学のイメージで今の大学を考えてはいけないのだと思う。

 第2章では格差・不平等を考える。アメリカの歴史社会学者は、学校教育の掲げるべき目標として「民主的平等」「社会的効率性」「社会移動」を挙げる。これら全てを同時に達成することは困難だが、近年の教育改革は「社会的効率性」と「社会移動」を強調しすぎた結果、教育の公共財的側面を見失わせているという。これも非常に同意。一方、格差解消のため、公教育(たとえばその一部である高等教育)を無償化したらどうなるか、という思考実験も論じられている。学校運営のコストに対して、十分なリソースが調達されないまま、無償化を先行すると「著しい教育の質の悪化をもたらす可能性がある」(教員の過重労働、教員の非正規化)という冷静な指摘には、考えさせられるものがある。何でも、うまい話はないものだ。

 そして第3章。教育政策はムードではなく、科学的で客観的なエビデンスに基づく必要がある。アメリカの教育界で「エビデンス・ベースド」の流れを決定づけた、1966年のコールマン・レポートとその検証の記述は非常に面白かった。この章は、ほかにも各種の統計分析や実験が紹介されているが、よく分かったのは「エビデンス」を正しく読み解くは、専門的な修練が要るということだ。見せかけのエビデンスに騙されてはならないし、素人が適当に集めたデータをエビデンスと称する行為は、教育政策に限らず、あらゆる局面でもう止めたほうがいいと思う。

 しかしまた、小中高の児童・生徒を対象とした全国学力テストが、日教組を中心とする反対運動のため、1960年代から実施されてこなかったというのもくだらない話だ。現状把握がなければ、改善も改革もできないだろう。統計的エビデンスは全体の傾向を見るものに過ぎないという限界はわきまえるべきだが、積極的な活用を否定すべきではない。

 第4章では、学校教育の経済的な意義(収益率)を考える。これはまた身も蓋もない議論だと思いながら、面白かった。OECD諸国との比較では、日本は私的収益率は低い(私的に支払うコストが高いから)が、財政的収益率は高い(高等教育修了者の納める税金が多い)。これを見ると、日本の高等教育の公的負担をもう少し引き上げてもいいのではないか、という主張に納得がいく。また「国立大学選択のプロヒビット・モデル」によって、地方国立大学の存在が大学進学機会の均等に果たしてきた役割を検証する分析も、鮮やかで興味深かった。プロがデータを扱うと、こんなふうに説得力のある物言いができるのだなあ。羨ましい。
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醍醐寺の桜・三宝院・霊宝館

2018-04-05 23:16:41 | 行ったもの(美術館・見仏)
醍醐寺三宝院 特別拝観(2018年3月24日~5月6日)

 週末関西旅行、2日目もどこか桜の名所にしようと思い、久しぶりに山科の醍醐寺に行ってみることにした。地下鉄醍醐駅からのコミュニティバスが、どんどんお客さんを運んでくれる。拝観は、三宝院・霊宝館・伽藍の3点セットで1500円。はじめに三宝院に入った。快慶作の弥勒菩薩坐像にお会いしたいと思ったのだ。昨年の『快慶』展、私は会期の早いうちに参観したので、こちらの弥勒菩薩にはお会いできなかったのである。

 門をくぐって玄関までのアプローチに、枝垂れ桜が何本も咲き誇っていて、目を奪われる。建物に上がると、美しい襖絵の座敷が続く。庭園はふかふかした苔に覆われ、緑が濃い。奥へ奥へと進んでいくと「ここから非公開」(追加料金500円)の関所に突き当たる。「この先、何があるの?」とためらうお客さんも多かったが、渡り廊下の先のお堂には、弥勒菩薩がいらっしゃると知っているので、私はここで引き返すわけにはいかない。いい商売だなあと思う一方、高い拝観料金のおかげで混雑が減るのはありがたい面もある、と思った。

 本堂の正面の濡れ縁から、座敷の奥にいらっしゃる弥勒菩薩を遠目に拝む。意外と小さく、なで肩が優しげだった。以前はもう少しよく見えたと思うのだが、外が明るすぎて、採光の加減がよくなかったかもしれない。

■醍醐寺霊宝館 春期特別展『醍醐の春~弘法大師空海と桜~』(2018年3月20日~5月15日)

 続いて霊宝館へ。映画『空海(妖猫伝)』を見たばかりで期待してしまったが、空海に関係する展示品はそんなに多くなかった。『弘法大師二十五箇条遺告』は、大師が入定の6日前に書き残したものだというが、黒々と四角い筆跡が若い頃の『聾瞽指帰』に似ていて不思議だった。調べたら原本は伝来していないみたい。空海の信奉者が、わざわざその筆跡も真似て書写したのかもしれない。

 本館には五大明王像が2組出ていた。大きいほうは上醍醐の五大堂のものだと思う。大威徳明王像だけが平安時代の作で、あとの4躯は江戸ものだが、大威徳明王がいちばんエキセントリックな顔をしている。背景に四天王や火天・風天(?)など諸尊を墨線だけで描いた3幅が掛かっていた。五大堂の壁画を模写したもののようだ。小さいほうは、不動明王踏み下げ像だけが鎌倉時代で、あとは江戸もの。また、別棟の仏像館にも五大明王像が1組あった。きわめて個性的な風貌で、全て平安時代って信じられない。特に大威徳が…まんまるい目の牛の背中に、いや正確には牛の背中にお盆のような平らな板を置いて、その上に跨っている。このとぼけた表情の牛、グッズ化したら絶対売れると思う。ぬいぐるみになったら欲しい。

 霊宝館は、武骨で巨大な薬師・日光・月光三尊と帝釈天騎象像・閻魔天騎牛像も印象的だった。それにしても不思議な組み合わせだ。仏像館の如意輪観音踏み下げ像(平安時代)は丸顔で手足が長く、躍動感がある。腕の木目がタトゥーみたいで色っぽい。千手観音像(平安時代)は全身黒く、腕が前に向かって揃っているのが特徴で、迫力がある。やっぱり密教仏はいい。



 そして霊宝館は、土塀に囲まれた有料エリアに入ったあと、展示館のまわりを一周すると、桜がすごい。前庭に大きな枝垂れ桜があるのは知っていたが、これほど多種多様な顔を見せる桜の木に囲まれているとは知らなかった。有料エリアなので、人が少なめなのもよい。たくさん撮った写真は、のちほどフォトチャンネルに上げるつもり。

 お寺の境内には珍しく、洋風カフェもある。café sous le cerisier(カフェ・スゥ・ル・スリジエ)といって、フランス語で「桜の下で」という店名なのものおしゃれ。※「京都・醍醐寺に、イケアの花見カフェ」(2017/4/1)。私は抹茶ソイラテでひとやすみ。



 最後に醍醐寺下伽藍を拝観した。仁王門をくぐると、しばらくは鬱蒼とした緑の木立(紅葉)で、やがて桜の点在する、開放的な境内に出るという空間演出がすごくよい。金堂では薬師三尊と四天王像を拝観。むかし、中に入ったことがあるが、ふだんは上がれないのだな。西国札所でもある観音堂には、御朱印を待つ人の列が長く伸びていた。久しぶりなのでいただいていくことにしたが、1時間近く並んでしまい、上醍醐に行く時間がなくなってしまった。

 おまけ:三宝院で見かけた「関係者以外立入禁止」の案内。お寺さん専用なのだろうか?



東寺(教王護国寺)宝物館 千手観音菩薩立像修理完成50周年記念『東寺の菩薩像-慈悲と祈りのかたち-』(2018年3月20日~5月25日)

 洛中に戻り、春季特別公開中の東寺の、宝物館だけでも寄っていくことにする。昭和5年(1930)「終い弘法」の日の出火で焼損大破してしまった千手観音菩薩立像と四天王像。千手観音は、昭和43年(1966)に修理を終え、宝物館に安置されたのだという。展示の見どころのひとつは、千手観音の右大脇手の内部から確認された檜扇。収まっていた状況の写真を見ると、ほぼ腕の太さ・長さに等しいくらいの檜扇である。墨書された文字や絵は、ほとんど読めなかったが「元慶元年(877)」の年紀があるそうだ。

 如意宝珠を手にした地蔵菩薩立像、痩せさらばえた聖僧文殊菩薩像は旧食堂の仏像である。妙に平たく縦長の地蔵菩薩立像(安富行長銘)は初めて見たが、近代彫刻みたいで面白かった。西院御影堂伝来。それから、旧食堂の千手観音と四天王の焼損前の貴重な写真も出ていた。
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初訪問・開館記念展(中之島香雪美術館)

2018-04-02 23:19:15 | 行ったもの(美術館・見仏)
中之島香雪美術館 開館記念展『珠玉の村山コレクション~愛し、守り、伝えた~ I. 美術を愛して』(2018年3月21日~4月22日)

 土曜日は河内長野の金剛寺を拝観したあと、速攻で大阪市内に戻り、同館を訪ねた。「香雪美術館」は、朝日新聞社の創業者である村山龍平(1850-1933)のコレクションを所蔵する美術館で、神戸市東灘区御影にある。村山の邸宅を利用した美術館で、庭と建物は素晴らしいが、展示室自体はそんなに広くない。私は2回行ったことがあるはず(うち1回は休館だった)だが、ブログには記録を残しそびれてしまったみたい。すぐそばに、羽生結弦くんの名前に似た結弦羽神社を偶然、見つけたことも懐かしい。

 さて、公益財団法人香雪美術館は、このたび開館45周年を記念し、2館目の美術館「中之島香雪美術館」を大阪の中之島フェスティバルタワー・ウエストにオープンした。なかなか凄い作品が出ているという噂なので、さっそく見てきた。

 オフィスビルの中に設けられた美術館は、天井が高く、通路も広くて、圧迫感のない贅沢な空間。冒頭には桃山時代の志野茶碗「銘:朝日影」。くしゃくしゃした笑顔の『布袋図』は梁楷筆。すでにかなりテンションが上がり始めたところ、次に『病草紙』の「の幻覚を見る男」が来た。これは…ほとんど見た記憶がない作品。床に裸の男が仰向けに寝そべっていて、布団(掻巻)のまわりに乳飲み子を抱いた妻と年長の娘が付き添っている。男の枕元には、ネズミほどの「(こぼし)」が30人くらい、裾の短い白い着物を着て、身長ほどの長い棒を持ち、踊ったり跳ねたり、棒を振り回して騒いでいる。あれだ、武侠ドラマでいう丐幇(かいばん)の人々みたいだ。男は床に刀を横たえ、戸口には扇と数珠を掛けて魔除けにしてるが、あまり効き目はないようだ。現代でいう精神疾患、あるいは幻覚症状だろうが、これも「病」として意識されていたことが興味深い。

 隣りの『ニ河白道図』(鎌倉時代)もよかった。荒波渦巻く赤い河と青い(ほぼ黒い)河。赤い河にはまさに人殺しのため弓に矢をつがえる武士が描かれていて、怒りと憎しみの表象であることが分かる。青い河には反物や行李、米俵などに囲まれて微笑む男女の姿があり、幸せそうなのだが、贅沢と愛欲の煩悩に捉われた状態を表すのだそうだ。

 ほか、いろいろあるが、狩野元信の墨画『撃竹悟道図』がよかった。秋の野山の彩色が美しい、曽我蕭白の『鷹図』は「明大祖皇帝十四世玄孫蛇足軒 曽我左近次郎暉雄 入道蕭白画」という墨書があって、なんだろうこれは?と思ったら、この款記で有名な作品らしい(Wiki:曽我蕭白を参照)。明太祖(朱元璋)の末裔を名乗る大法螺である。

 『群鯉図』の黒田稲皐(とうこう)は江戸後期の画家で、鯉の絵にすぐれ「鯉の稲皐」と呼ばれた。かなり奇想派の画風である。鯉の正面顔が怖い。雪舟の『山水図』は、中央に高い山を描くのは周文ふうだが、近景、中景、遠景と重ねていくところが雪舟、という解説に納得した。全体に解説が詳しく、拡大写真など使った見どころ案内も分かりやすくてありがたかった。絵画以外に刀剣や茶道具もあり。陶器は、武骨で男っぽいものが多い印象だった。

 また、途中に「村山龍平記念室」があるのも面白かった。岡倉天心たちが主宰した美術雑誌『國華』の経営を引き継いだ人物でもあるのだな。なお、私が村山龍平と聞いて思い出すのは、第1回全国中等学校優勝野球大会で、着物に袴姿で始球式を行う写真である。最後に旧村山家住宅の茶室「玄庵」の原寸大再現もある。

 大阪・中之島に新しい楽しみが増えて、とても嬉しい。これからもちょくちょく寄らせてもらおうと思う。なお、豪華で内容のある図録を発売しているが、開館記念展の展示作品全ては収録されていないもよう。例えば、雪舟の『山水図』は未収録で、ちょっと残念
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天野山金剛寺落慶法要と「新国宝三尊」特別拝観

2018-04-02 00:26:33 | 行ったもの(美術館・見仏)
天野山金剛寺(大阪府河内長野市) 金堂落慶記念「新国宝三尊」特別拝観(2018年3月27日~4月18日)

 平成21年(2009)に始まった平成大修理の完了、金堂の落慶を記念し、平成29年(2017)に国宝に指定された大日如来・不動明王・降三世明王の「新国宝三尊」の特別拝観があるというので行ってきた。



 金剛寺には、むかし一度だけ来たことがある。ずいぶん前のことで、もう曖昧な記憶しか残っていないが、検索したらブログに記事が出てきた。2005年4月のことだ。そうそう、ゆっくり見て歩いていたら閉門時間になっていまい、最も見るべき多宝塔と大日如来を見逃したのである。「また来る」なんて宣言しながら、13年も経ってしまった。

 その間、金剛寺では平成大修理が始まった。金剛寺の「平成大修理」記録サイトによれば、金堂三尊のうち、大日如来坐像と不動明王坐像が京都へ、降三世明王坐像が奈良へ搬出されたのは2010年春のことらしい。私が先に見たのは奈良国立博物館に安置された降三世明王坐像で、2011年秋の正倉院展に行ったときが初対面だった。日本の仏像の常識をくつがえすような大きさと迫力に圧倒された。京都国立博物館では、2014年秋に平成知新館がオープンして以来、彫刻室の中央を占める大日如来と不動明王のお姿を何度も拝見してきた。もはや京博の風景の一部のように思っていたのに、昨年秋、ふるさとにお帰りになってしまって、寂しくて仕方ないので、会いにきたのである。

 朝、東京を出発して、新幹線・地下鉄・南海線を乗り継ぎ、お昼前に河内長野駅についた。全く記憶はなかったが、想像していたよりも繁華だった。駅から30分ほどバスに乗る。山道ではあるが住宅は多く、山の中という感じはしない。「天野山」のバス停で下りると、門前には露店(落慶市)が並び、桜の下で大道芸を楽しむ人たちもいて、賑やかである。前日3/30(金)の夜には「みうらじゅん×いとうせいこう見仏記ライブ」も開催されたそうで、聴きたかったなあ。



 五色の幔幕のひるがえる金堂。ドキドキしながら中に入ると、見覚えのある三尊のお姿。しかし、一瞬、え?と思うくらい小さく見えた。距離があるせいか、あるいは建物お屋根が高いせいか、博物館で間近に見上げたときと比べると、半分くらいの印象だった。中尊の大日如来は、京博では台座なしだったが、ここではかなりボリュームのある蓮華座にお座りになっている。縦に燃え上がるような光背の先には、天蓋が吊るされている。天空を表すような青色の円の内側に金色の八葉蓮華、そしてたぶん金色の飛天が装飾されており、金の瓔珞が下がっている。堂内はほぼ自然光だが、大日如来のお顔のあたりに照明がかすかな当たっていて、濡れたような金の輝きがひときわ美しい。

 この特別拝観の案内に「金堂の落慶を記念して、特別に間近で拝観いただける機会を設けました」という一文があったので、実は、もう少し近づけるのかと期待していたが、内陣の縁の畳までしか許されなかった。まあ博物館みたいなわけにはいかないのだな…。視点がほぼ正面に限られると、胸の前の印相に自然と意識が集中するように思った。

 二躯の明王を見比べるのは初めてで、面白かった。火焔光背が、それぞれ外側に流れている。右の不動明王の火焔のほうが太く雄々しく、左の降三世明王の火焔のほうが細くて、チリチリ激しく燃え盛っている感じがする。不動明王は正面向きだが、降三世明王は首を傾げ、視線を右(中央)に向けている。カッコよくて痺れる。

 内陣の左右には、独立した障壁があって、内側には金剛界・胎蔵界の曼荼羅図、外側には四天王が二人ずつ描かれている。曼荼羅図の上には屋根?のように突き出た板があったり、内陣の中央を横切る太い梁に龍が描かれていたり、金堂内部の装飾はいろいろ興味深い。金剛寺の「平成大修理」記録サイトにたくさん写真が載っている。



 金堂の向かいの多宝塔。私は初めて見たので特に違和感はなかったが、修理前は全く彩色が落ちて、漆喰の白と木材の茶色だけの多宝塔だった。このたびの平成大修理で面目を一新し、創建当時の姿に復元されたようである。

いったん楼門を出ると、細い川(ほとんど涸れていた)に沿って塔頭らしい建物が並んでいる。前回、来たときも思ったが、韓国の寺院に似ている気がした。


 
 すぐ隣に「本日公開」の札を出している寺院(摩尼院書院)があって、桜がきれいなので入ってみた。ガランとして、特に見るべきものもなさそうな建物だったが、きれいにしつらえた一室があって、ボランティアのおじさんが「ここは南朝の行在所でした」と説明してくれた。金剛寺は一度も火事に遭っていないとか、あの多宝塔は日本最古級のものだが、慶長の大修理のとき、豊臣秀頼公ががんばりすぎて、新しい部材をたくさん入れてしまったので国宝になっていないとか、いろいろ面白い話を聞かせてくれた。多宝塔ではないが、金堂の裏の観月亭という建物を見ていたら、欄干の擬宝珠に「慶長」「秀頼」の文字が彫ってあった。何の説明もなく、露天にさらされていることに感心した。

 さっき自分のブログを読み直したら、前回、おばあちゃんから歴史講話を聞いたのは、この摩尼院書院だった。これほど荒れ寺然としてはいなかったと思うのだけど、月日が経ってしまったからなあ。それから北朝行在所だった奥殿がある本坊・庭園・小さな宝物庫も拝観した。お客さんはけっこういたけど、受付に若い女性がいた以外、お寺の方は見かけなかった。みんな落慶法要の手伝いで忙しかったのではないかと思う。

 こういう晴れのイベントに来合わせたのも嬉しいが、次回は何もないときに来てみたい。摩尼院のボランティアのおじさんは、ここは本来、学問のお寺だから、ああいう騒がしい催しは似合わない、と少し批判的だった。 

※参考:泉北ぐるりんウォーキング:天野山金剛寺コース(地図が詳しい)
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