見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

匙を投げる/女性と貧困(ロスジェネ 2009別冊)

2009-10-16 17:42:47 | 読んだもの(書籍)
○『超左翼マガジン ロスジェネ』2009別冊「女性と貧困:生き抜く道は、どこにあるのか?」 かもがわ出版 2009.9

 2008年5月に創刊された本誌は、ビジュアル重視の派手な表紙と硬派(ふう)な特集タイトルのミスマッチが、書店でも気になる存在だった。

 それにしても、半裸の女性が紙幣まみれで微笑む第3号(特集・資本主義に愛はあるのか?)は、ちょっとやり過ぎじゃないか?と思っていたら、近所の書店で、真面目そうなおじさんが「なんだ、この雑誌は!こんなものを公衆の面前に置いたらいかんだろう!」と怒っているのを見てしまった。書店員は「はっ、すぐ撤去します」と平謝りだった。まあ、おじさんの反応は正当だよなあ、と思いながら、あえて「普通の人々」に拒否される外見の雑誌をつくっている人々に興味が湧いて、今度、中を読んでみよう、と思った。

 この最新号は、比較的おとなしいデザインの表紙である。第1部に『ロスジェネ』第2号の刊行記念座談会(2009/2/4)、第2部に同誌第3号を踏まえた、東京大学ジェンダーコロキアム「資本主義とエロスの行方」を収録している。

 結論は、ひとことのみ。全くつまらなかった。税込み840円の薄い冊子だが、内容はさらに薄い。私の感覚では、高校生が放課後の教室で仲間と喋くっている程度の内容である。よくこれを売り物にしようと発想したなあ、と、その大胆さに恐れ入る。ただ、今号は、ほぼ全編座談会記録の特別編集なので、通常号はもう少し面白いのかもしれない。その点は留保をつけておこう。

 後半に登場した上野千鶴子が、本誌の編集人たちに対して、すっかり匙を投げた様子なのが、そのまま収録されているのが、わずかに読みどころである。私は上野千鶴子も決して好きではないのだが、本誌に関しては、上野さんの反応が、非常に「まとも」に感じられた。世代なのか階層なのか、分からないが、この「ロスジェネ論壇」の主張に共感する集団が、一定のボリュームで存在しているとすれば、彼らとつきあうのは、正直、しんどく感じられる。やれやれ。

『ロスジェネ』公式ホームページ
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日本の古い友人/近代ヨーロッパの誕生(玉木俊明)

2009-10-14 23:04:20 | 読んだもの(書籍)
○玉木俊明『近代ヨーロッパの誕生:オランダからイギリスへ』(講談社選書メチエ) 講談社 2009.9

 近代ヨーロッパの成立過程を、オランダからイギリスへというヘゲモニーの移譲プロセスを軸に、主に経済史の立場から論じたもの。「オランダ→イギリス」と聞けば、即座に東インド貿易を連想するのが日本人の性だが、本書の着眼点はこれと異なる。

 16世紀前半、ヨーロッパ経済の中心はヴェネツィアだった。しかし、16世紀後半には、イタリア経済は衰微し始める。都市が発展し、人口(都市住民)が増えすぎた結果、食糧自給の破綻と、周辺の森林資源(=重要な船舶資材であり、燃料だった)の枯渇をもたらしたためである。代わって、バルト海沿岸の穀物・森林資源が注目を浴び、バルト海貿易の商品集積地として、アムステルダムが急激に台頭した。

 一般に近世オランダ経済のバックボーンは東インド貿易だったと考えられているが、アジアは、確実な利益を見込むには、あまりにも遠すぎた。バルト海の穀物貿易こそが、17世紀=オランダ黄金時代の「母なる貿易」だった、と著者は主張する。一攫千金の奢多品よりも、需要の安定した穀物取引。冷静に考えれば、しごく妥当な見解である。

 当時のオランダについて、著者は以下のような特徴を挙げている。

・戦争(スペインからの独立戦争、1568-1648)と同時並行で、経済発展が成し遂げられたこと。戦争遂行のために巨額の借金をし、平時にはそれを返済していくシステムが完成された。
・分裂国家であったこと。オランダは「商人の共和国」であり、国家が主導権を握り、経済を発展させることはなかった。
・宗教的寛容が保たれ、多様な宗派の商人が取引に従事したことで、アムステルダムは、商品だけでなく、商業情報のゲートウェイになった。
・アムステルダム取引所は、印刷メディアによる「価格表」を定期的に発行し、これは国境を超えて、ヨーロッパの経済活動を活発化する力となった。

 18世紀に入ると、ヨーロッパ経済の中核は、オランダからイギリスへと移動していく。この過程で、17世紀にオランダに蓄えられた富がイギリスに投資され、イングランド銀行の設立に使われた。また、オランダの商業ノウハウは、商人ネットワークを通じて、ロンドン(イギリス)とハンブルク(ドイツ)に移植され、両都市の大西洋貿易は大きく躍進した。

 ハンブルクは、コスモポリタン的な商人が集い、「アムステルダムの純粋な後継者」というべき都市だった。一方、イギリスは、中央集権化を推し進め、国家が市場を保護することによって、先進国オランダに打ち勝ち、さらに、アジア、アフリカ、アメリカ大陸など、他地域を圧倒する経済力を手に入れた。最終的には「帝国」システムの勝利と言えよう。

 私は、途中で「バルト海ってどこ?」と音を上げたくなるくらい、ヨーロッパ史には不案内なのだが、「イギリス経済」や「オランダ経済」が、つねに周辺諸国・諸地域とのかかわりの中で発展・衰退しており、ヨーロッパの地域的一体性が、アジアとは比べ物にならないくらい強かったことは、よく分かった。また、江戸時代の日本が、のんびり付き合ったオランダが、どういう国家であったかも。まあ、徳川政権は、いい友人を選んだというべきかもしれない。19世紀、情容赦もなく中国に食い入った「帝国」イギリスに比べれば。 
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首都圏の歴女、注目/伊達政宗とみちのく文華(金沢文庫)

2009-10-13 00:11:39 | 行ったもの(美術館・見仏)
神奈川県立金沢文庫 仙台市博物館・神奈川県立金沢文庫交流特別展『伊達政宗とみちのく文華』(2009年10月9日~12月6日)

 仙台市博物館が所蔵する伊達家伝来品を借り受け、中世から近世に至る「みちのく文華」を紹介する展覧会。金沢文庫のHPを見たら、おお~伝上杉謙信所用の『三宝荒神形兜』も来るし、慶長遣欧使節関係資料(国宝)の『支倉常長像』も来るというので、これはすごい!と色めきたった。ただ「会期中展示替えがございます」というわりに詳しい情報が載らないなあ、と思っていたら、ようやく一覧表がUPされた。主要な展示品は、わりと、いつ行っても見られそうである。

 会場に入ると、目の前には『黒漆五枚胴具足』(桃山時代、伊達政宗所用)。兜には、例の細い月形の前立。以前、仙台市博物館に行ったとき、あっ政宗の甲冑、と喜んだら、同型の別物だったが、これはホンモノである。その隣りには、3メートルを越す『勝色金日の丸旗』。「勝ち色」は伊達家で重視された濃紺のことで、紺地に金色の日輪は、むしろ月輪に見える。旗の乳(竿を通す輪)の部分も金色。紺紙金字経みたいだ。朝鮮に向けて京都を出陣したときの軍装として、これと同じ旗が記録されているという。う~む、やっぱり(ふだん金沢文庫が扱う中世と比べて)戦国武将は格段にカッコいいなあ~。

 展示リストでは分かりにくいが、重要な歴史事件にかかわる文書が多数出ている。小田原攻めの陣立書は、秀吉が、なかなか上洛しない政宗に圧力をかけるために送ったもの。小田原で北条攻めをしていた豊臣秀吉のもとに参陣した政宗が、会見の様子を家臣に書き送った書状、織田信長が上杉謙信の討伐を政宗に命じた書状など。俗に「百万石のお墨付き」と呼ばれる、家康から貰った領知覚書も。なお、『上杉景勝書状』(リスト32、図録31)は、政宗から景勝に宛てた返書である。朝鮮出兵中の政宗が母の来信に感謝した返書も興味深かった(母は小遣い三両を同封したって、遠足かw)

 慶長遣欧使節関係資料も多数。ああ、嬉しいなあ。支倉常長の『ローマ市公民権証書』は、仙台でも見られなかったホンモノが見られた(11/8まで)。政宗からローマ教皇に宛てた書状(和文とラテン語訳)は、全期間複製か~と思うかも知れないけど、この原本はバチカン図書館が所蔵しているのである。

 伊達家といえば、どうしても政宗に注目しがちだが、今回の展覧会には、中世にさかのぼる文書・資料も出品されている。執権北条貞時による関東下知状とか、後醍醐天皇の綸旨とか。中尊寺金色堂には、貞時名の棟札(国宝)が残されている。また、政宗以後の伊達藩の人々に関する資料も面白かった。三代藩主綱宗の側室三沢初子が使用した帯の数々は、近世初期の遊楽図などに描かれた、華麗な女性ファッションを髣髴とさせて楽しい。

 いずれも、関東ではなかなか見られないものばかり。図録(1,500円)もお得だと思う。県立・市立博物館どうしの交流って、いろいろ困難はあるのだろうが、ぜひ活発にやってほしい。
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眩しいお色直し/国宝那智瀧図と自然の造形(根津美術館)

2009-10-12 18:02:40 | 行ったもの(美術館・見仏)
根津美術館 新創記念特別展 第1部『新・根津美術館展~国宝那智瀧図と自然の造形』(2009年10月7日~11月8日)

 新装開店、いや新創開館した根津美術館に行ってきた。休館前の最後の展覧会、2006年春の『燕子花図と藤花図』展の記事を読み返し、3年半は長かったなあ、としみじみ感じている。

 以前の建物も嫌いではなかった。表参道の駅から、ゆるやかな坂を下っていくと、交差点の向かい側に現れるのは古風な瓦の載った白塀(その上に覗く蔵の姿)で、美術館の入口は、少し右寄りの視界の外れにあった。新しい美術館では、ちょうど横断歩道の正面に入口がつくられた。公道と美術館の敷地を仕切るのは、塀ではなくて、細い竹の生垣。なんだか、とってもオープンになった感じがする。

 一歩入ると、大きな庇に覆われたアプローチが、建物まで続く。右には風にそよぐ生垣の竹の列、左には建材として壁を覆う竹の列(現在の公式サイトTOPの写真)。おお、なるほどね。この感じも、とてもいい。美術館本体は、壁面にガラスを多用し、明るい雰囲気。でも展示室は、ずいぶん暗くなったなあ。文化財保存の観点からは、このほうがいいんでしょうけど…。

 第1室で、国宝『那智瀧図』に向き合う。崖の上に姿を現しかけた日輪とか、多様な色彩で塗り分けられた紅葉は、高精彩の画像で見るほうがはっきりする。現物から、描かれた当時の美しさを想像することは、なかなか難しい。しかし、白々した瀧の姿を見ていると、那智大社に参詣したとき、山の中に響きわたっていた瀧の音が、耳によみがえるように思った。このほか、『吉野龍田図』のように、なつかしいものもあれば、鎌倉時代の『弁財天図』や伝狩野元信筆『四季花鳥図』など、全く記憶にない作品もあった。

 第2室は書跡。根津美術館の古筆切コレクションの素晴らしさは周知のこと。この新創開館展でも、平安時代(一部鎌倉)の名品をずらり掛け並べており、実は、第1室より、こっちのほうが圧巻という気がした。加えて、どの軸も表具が素晴らしくて、はっとするような斬新な感覚のものが多い。もしかして、一部は休館中に表装しなおした?と疑って、古い図録で確認しようと思ったが、表具込みで写っている写真がほとんどないので、確かめようがなかった。

 ホールと第3室は仏像、第4室は古代中国の青銅器。以前の美術館では2階の常設コーナーにあって、忘れられたような存在だったが、この日は多くのお客さんが訪れていた。特に、殷代の青銅器『双羊尊』は、各種グッズもつくられて、これからスターに育てていくつもりらしい。果たして世間に受け入れられるかな。私は気に入ったので、暖かく見守りたいけど。

 第5室は明清の漆工と陶磁。2階ホールには装飾時計。また、第6室は「青山荘」と名づけた三畳の茶室をしつらえ、根津嘉一郎がおこなった「初陣茶会」を再現している。若い頃から古美術品に関心を寄せていた嘉一郎だが、「満を持して」初の茶会を開催したのは59歳のときだという。ちょっとカッコいいな~。茶道具の展示ケースには畳が敷かれていたが、これは、以前の根津美術館でもよくやっていた展示方法。青畳だったのは、新調のあかし。これから、少しずつ古色が加わっていくだろう。

 最後に中庭に出てみると、不思議なもので、旧館の記憶がよみがえってきた。ああ、あの位置が玄関だった、ここに長い回廊が伸びていた、など。いま、ネットで検索してみると、新・根津美術館の写真は多数出てくるが、旧館に関するものはほとんどない。旧館の写真やデータを持っている人は、ぜひ、どこかに保存しておいてほしいと思う。

※参考:world-architects.blogspot.com(2009/10/5)「新・根津美術館」プレス内覧会」
設計者、隈研吾さんの写真も。
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東博の平常展・特集陳列『世界と日本』ほか

2009-10-11 23:22:16 | 行ったもの(美術館・見仏)
○本館16室 シリーズ「歴史を伝える」特集陳列『世界と日本』(2009年8月18日~10月12日)

 『皇室の名宝』のあとは、本館の平常展に流れる。16室(歴史資料)では、江戸時代を中心とした国際交流に関する資料が紹介されている。今回は文献資料が多くて、書誌好きには嬉しかった。注目は、嶺田楓江著『海外新話』。アヘン戦争の顛末を庶民向けに記したもの。挿絵多数。今も中国の民族英雄と称えられる陳化成が、イギリス軍の砲撃を浴びて討死する図とか、屈辱にも「逆賊義律」を饗応する図とか。義律は、調べたら、ジョージ(?)・エリオットのことらしい。この本、幕府によって刊行停止を命じられている。

 仮名垣魯文の『万国航海西洋道中膝栗毛』の挿絵は歌川(落合)芳幾だったのか。北八・弥次郎兵衛は、当たり前だが海路でヨーロッパに向かうので、シンガポールやスエズにも立ち寄っているんだなあ。『韓客人相筆話』は明和年間、日本を訪れた朝鮮通信使との筆談集だという。刊本で出版されたということは、これを読みたいという一定の需要が、日本の知識人の間にあったのだろう。

 『尊海渡海日記屏風』は、高麗版大蔵経を求めて朝鮮に渡った(その目的は果たせず)尊海が、瀟湘八景図屏風のウラに記した紀行文。その歴史的価値ゆえに「重文」指定を受けているのだが、私は、以前、大和文華館の『崇高なる山水』で、オモテの瀟湘八景図を拝見している。今回も展示ケースの横から覗き込むと、オモテの水墨画がちょっとだけ見える。

 気になったのは、湯島聖堂旧蔵の天体儀。孔子を祭る釈奠(せきてん)の儀器として伝わったそうだ。ええ? 儒教と道教の区別も怪しいものだなあ。

 このほかのお奨めは、特別1・2室で開催中の特集陳列『中国書画精華』(前期:2009年9月15日~10月12日)。久しぶりに梁楷の『出山釈迦図』ほか三幅対が見られる。詳細はこちら(2006年公開時の記事)で。

 3室(仏教の美術)の『文覚上人像』(京都・神護寺蔵)は、たぶん神護寺三像と同じくらいの大きさ。この春、私は神護寺の「虫払い」で見てるのかなあ。記憶にない。ちょうどその正面に、文覚自筆の『書状案断簡』も展示されている。11室(彫刻)には、島根・赤穴八幡宮蔵の八幡三神坐像。初めてかと思ったら、2003年、2006年、2008年と、東博で展示されているらしい。単に私の神像に対する関心が、これまで薄かったということか。衣冠束帯の男神像がよかった。

 また、3室(宮廷の美術)では、来週から東京都美術館で始まる『王朝の和歌守(うたもり)』展にあわせて(?)俊成・定家・為家・為氏ら、冷泉家の歌人たちの書跡を展示。この時期は、平常展示も多面的に見ごたえがある。
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魅力全開/皇室の名宝(東京国立博物館)

2009-10-10 23:55:23 | 行ったもの(美術館・見仏)
東京国立博物館 特別展『皇室の名宝―日本美の華』(1期:2009年10月6日~11月3日)

 3連休の初日。たまたま、平日と同じ時間に目が覚めたので、これ幸い、布団を出て、上野に向かった。9時40分くらいに東博に到着。入口に行列はできていない。よかった。本展は、天皇即位20年を記念して、宮内庁所蔵の名品を紹介する展覧会。第1期の目玉は何と言っても伊藤若冲の『動植綵絵』30幅だろう。

 さて、その『動植綵絵』は、第1会場の2番目の展示ホールにあることを確認。開館から10分後とは思えない人の入りだが、30幅いずれも素晴らしくて、阿修羅展のように観客の注目が一点集中にならないので、なんとか見られそうだ。

 そこで、冒頭に戻って、ゆっくり見始める。伝狩野永徳筆『四季草花図屏風』は、極端な近接描写が面白い。遠近感が霍乱されて、庭の石組みが、遠くの山の尾根のように見える。伝狩野永徳筆『源氏物語図屏風』は、源氏と思しき人物に口髭が描き添えられているのに驚く。晩年はともかく、若紫の場面(源氏18歳)なのに…。近世初期の風俗の反映かな。あ、狩野永徳の『唐獅子図屏風』!と思ったら、左隻は曾孫の常信の筆だという。永徳描く2頭の獅子が王者の風格を漂わせるのに対して、常信の獅子は、どこかひょうきん(ウナギイヌに似ていないか?!)。

 『萬国絵図屏風』一双は、右隻に8人の騎馬王侯と28の都市の図、左隻に世界地図と様々な国の男女を描く。8人の騎馬王侯図は、記憶力テストみたいなところがあって、家に戻って確かめたところでは、右端から(1)番目と(2)番目は、サントリー美術館蔵『泰西王侯騎馬図屏風』(1)(2)と一致。(3)(4)は神戸市立博物館蔵の屏風(1)(2)とほぼ一致。(5)はサントリー(3)と一致。(6)を措いて、(7)は神戸(3)。(8)は不明、馬だけ神戸(4)に似ていなくもない。「皇室の名宝」には、明治期に献納されたものが少なくない。この屏風は、元来、誰が制作(を依頼)し、どこに伝来したものなのだろう? 図録を買えば分かるかと思ったが、「伝承は不詳であるが、明治天皇の御座所に常に置かれていたと伝えられている」とあっただけ。
 
 『動植綵絵』は何度見てもいい。妖しさ全開の『旭日鳳凰図』もお忘れなく! 若冲ブームを言われて久しいが、まだまだ幅広い世代に新しいファンが増えているようで、若冲さん、よかったね、としみじみ思う。しかし、この『動植綵絵』は、最近、公開しすぎではないのか? 劣化の心配はないのか?と、ちょっと気になる。

 これでもう、見るべきものは見尽くした、あとはサラリと行こう、と思ったのだが、次の部屋に、すごい人だかりの展示ケースが。岩佐又兵衛筆『小栗判官絵巻』である。これは並んでも、最前列で見たい。巨大な閻魔大王が、嬰児のように小さくはかなげな小栗の手を取って、再生に導こうとする場面、息を呑むような迫力だった。この絵巻は全15巻。今回は、巻1、11、13の公開。家に帰って、2004年の岩佐又兵衛展(千葉市美術館)の図録を見たら、巻1、2、8、10、15が公開されている。そうそう、巻2の龍が迫力だった。なんとか、全巻・全場面、公開してくれないかなあ。こういうときこそ、デジタルアーカイブだろう!

 あと、第1会場では、全く知らなかった長澤蘆雪の『唐子睡眠図』を、私のお気に入りに加えた。蘆雪は、こういう巧まざる小品が抜群にいいなあ。第2会場は、近代工芸中心なので、今度こそサラリと行くだろうと思ったが、足を止めてしまうものが多かった。並河靖之の『七宝四季花鳥図花瓶』は、彼にはめずらしい大作。濤川惣助の『七宝月夜深林図額』は、観客が「七宝?」と驚いていく(これ、三の丸尚蔵館でなく”用度課”所管なんだ)。川島甚兵衛の川島織物(壁掛け)とか、大連窯業(ガラス花瓶)とか、青磁会社、七宝会社など、共同体(企業)が保持していた技術力の高さも印象的である。

※公式サイト
http://www.bihana.jp/
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若い世代と考える/それでも、日本人は「戦争」を選んだ(加藤陽子)

2009-10-09 00:05:05 | 読んだもの(書籍)
○加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』 朝日出版社 2009.7

 加藤陽子さんの本は、難しくて最後まで読めたことがない、という読者(私もそのひとりである)にお薦め。本書は、東大で日本近代史を講ずる著者が、神奈川県の私立栄光学園(男子校)で、歴史研究部を中心とする、中学一年生から高校二年生までの17名の生徒を相手に行った講義がもとになっている。(1)日清戦争、(2)日露戦争、(3)第一次世界大戦、(4)満州事変と日中戦争、(5)太平洋戦争という章立ては、たぶん5日間の講義の順序を反映しているのだろう。平易な口語、時々挟まれる生徒の素直な反応は、なごやかな緊張に満ちた、教室の雰囲気を髣髴とさせる。

 生徒諸君は、心せわしい年末年始に、こんな重いテーマを考えさせられて、大変だったろうなあ。でも、きっと楽しかったに違いない。著者の講義は具体的で、個性的な人物が次々に登場し、印象的な名言を残す。それも、巷間に広まっているステレオタイプな名言でなくて、著者が史料や先行研究から見つけ出したものだ。山県有朋が、意外や日露開戦に消極的で、「戦争開始の論は老生は承知いたさず」と桂首相に書き送っていたり、松岡洋右が「日本人の通弊は潔癖にあり」なんて、案外まともなことを言っていたりする。

 何といっても衝撃的なのは、中国の学者、外交官でもある胡適の「日本切腹、中国介錯」論だろう。アメリカとソ連を日本に敵対させるには、まず中国が日本との戦争を引き受け、二、三年間、負け続けなければならない。国土の過半を占領され、長江を封鎖され、中国が膨大な犠牲を出してはじめて、米ソは介入せざるを得なくなり、日本に壊滅的な打撃を与える(切腹を迫る)ことができる、というのだ。実に凄まじい「暗澹たる覚悟」である。ちなみに中国語版GoogleのBook検索で「日本切腹、中国介錯」を検索すると、原文を読むことができる(胡適日記全集、第245頁)。

 能天気な連想で申し訳ないが、私は、金庸の『鹿鼎記』で、呉三桂討伐を決意した若き康煕帝が「最初の五、六年は負けてもいい」と語るのを思い出した。まさか金庸は、胡適の言を踏まえてはいないだろうが、この態度は、どこか中国人的心性に発するところがあるのではないかと思う。奇襲・先制に活路を見出そうとする日本人の覚悟と対照的である。

 以上のような小説的なエピソードだけが、本書の読みどころではない。実証的なデータ、史料に残された多様な立場の人々の声、偏見に捉われない視点から、「戦争」の真の姿が現われてくるところは、とてもスリリングだ。また、平時の外交が、実は「戦争」以上に厳しい闘争の場であることも、あらためて感じた。

 太平洋戦争の「責任」を問う最後の段は、静かな迫力に満ちている。数々の悲劇を生んだ満州の開拓移民を徴集するに際して、助成金のばらまき政策(今と同じだ)が取られたこと。けれども見識ある地域の長はそれに乗らなかったこと。開拓団の中でも、賢明な団長に率いられたグループは、中国農民と良好な関係を築き、最も低い死亡率で日本に引き上げることができたこと。これらは飯田市歴史研究所編『満州移民』という本に載っているそうだ。

 軍の指導者にだけ、戦争責任があるのではない。もしも、自分がその場にあったら、助成金ほしさに隣人を満州に送り出そうとする村民の側にあったのではないか、と冷静に想像してみる姿勢の大切さを説いて、本書は結ばれている。
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秋の関西旅行(3):熊野三山の至宝(和歌山県立博物館)

2009-10-08 00:32:18 | 行ったもの(美術館・見仏)
和歌山県立博物館『熊野三山の至宝-熊野信仰の祈りのかたち-』(2009年9月8日~10月18日)

 和歌山県立博物館には、初訪問。会場に入って、最初に私の心を捉えたのは、文化財ではなくて、大きな写真パネルだった。熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の現地を、はるか上空から俯瞰的に撮影したもの。ええ~これ、どこから撮ったのだろう、と驚いた。那智大社は、今年3月、青岸渡寺のご開帳のときに行ったばかりで記憶に新しいが、本宮と速玉大社に行ったのは、かれこれ15年くらい前のこと。まだ大斎原に大鳥居(平成12年竣工)なんかなかったはずで、びっくりした。

 最初の展示室の見どころは、もちろん熊野熊野速玉大社の神像4体。熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)、夫須美大神(ふすみのおおかみ)、家津美御子大神(けつみみこのおおかみ)(以上が熊野三所権現)、そして国常立命(くにのとこたちのみこと)である。背景は黒。照明は、暗すぎず、明るすぎず、落ち着いて見られた。東京で見たときよりも、神像の表情が生き生きしているように感じた。国常立命坐像は、いいなあ。頭頂部と、体部の前面が無残にえぐり取られ、彫刻としては、わずかに顔面を残すだけなのだが、荒々しい野性を感じさせる自然の木肌と、顔面の人工美の対比が、まるで計算しつくされた現代彫刻みたいだと思った。

 室中央のガラスケースには、三所権現の本地仏とされた、阿弥陀・薬師・千手の小ぶりな掛け仏が並んでいて、ケースの正面に立つと、背後に3体の神像が重なって、”本地垂迹”の思想を実感できる構成になっている。これは楽しい会場デザインの妙。

 青岸渡寺の、愛らしい銅造観音菩薩像2体は、あ、奈良博の『西国三十三所展』で見たものだ、とすぐに分かった。「埋められた仏像」だったんですね、彼らは。「沙門行誉埋納の曼荼羅壇」も面白かった。像高15センチくらいの仏像(光背・蓮華座つき)による立体曼荼羅セットなのである。仏像以外に、剣や鈷杵や法輪が載った蓮華座もある。実際にこれらを並べてみた曼荼羅壇の復元写真に私は興味津々!

 この展覧会、実物の文化財だけではなくて、写真パネルやバナー(幕)や映写映像が、豊富に取り入れられていた。檀王法林寺の『熊野権現影向図』は、参考の写真展示だけだったが、強烈なインパクトだった(コメント「熊野権現があらわれた!」ってw)。京都のお寺さんなのか。ホンモノ見たいなあ。

 それから、熊野古神宝類がたっぷり見られたのは全くの想定外。えっ、これも出てたの!?という感じ。ポスターや博物館のHPでは、あまり押していなかったように思う。特に挿頭華(かざしのはな)は、私の長年の憧れだったので、とても嬉しかった(2005年の世田谷美術館でも見られなかったのである)。

 牛馬童子像(複製)も懐かしかった。かつて、乏しい道標だけをたよりに、湯の峯王子から牛馬童子まで歩いたことがあって(観光客の少ない冬の日で、すれ違ったハイカーは1組だけ)最後に、木立の陰に愛らしい石像を見つけたときの、驚きと喜びがよみがえるように思った。熊野には、そんなに何度も来たことがあるわけではないのだが、「土地の記憶」はとても鮮明である。
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秋の関西旅行(2):道教の美術(大阪市立美術館)

2009-10-06 22:57:08 | 行ったもの(美術館・見仏)
大阪市立美術館 『道教の美術 TAOISM ART』(2009年9月15日~10月25日)

 東京で2回も行った『道教の美術』を見るために、性懲りもなく、大阪まで出かけてしまった。行ってよかったと思う。ほとんど別の展覧会を見たような気分である。

 最初の展示室で、仙台藩の藩校である養賢堂の障壁画『河図図』『洛書図』(東東洋筆)を見て、おお~やっぱり来てよかった、と思った。黄河から現れた龍馬の背中の文様、洛水から現れた亀の甲羅の文様から、八卦の図が生まれたことを視覚化したもの。あ、八卦だから道教なのか。孔子の「鳳鳥、至らず。河は図を出さず」を思い浮べると、儒教の美術のような気がする。『金立神社縁起図』は徐福の日本渡来伝説に基づく最古の絵画作品。と言っても、桃山~江戸だから、比較的新しいのだな。佐賀県に徐福を祀る神社があることには、びっくり。

 こんな感じで、東京では見られなかった作品がずらずら並ぶ。まとまったコレクションとしては、淑徳大学書学文化センター所蔵の拓本が目立った。淑徳って、私の地元・埼玉なのに…。中でも『瘞鶴銘(えいかくめい)』の拓本には興奮!! 書の名品として名高い、中国六朝時代の碑文である。江蘇省鎮江市の焦山を訪ねたとき、展示室が閉まっていて見せてもらえなかったという、悲しい思い出があるのだ。

 書画では、三たび『北斗九星図』に巡り会う。解説に、垂髪に白衣の7人は女性だと書いてあったけど、そうなのかなあ。東京では見られなかった『鎮宅霊符神像(玄天上帝)』が複数見られて、とっても満足。このおじさん、好きだ。1件は東京の静嘉堂文庫所蔵だったりする。雪村の『呂洞賓図』と『琴高・群仙図』が並ぶ贅沢に喝采。残念ながら、東京でも大阪でも縁がなかったのは、関帝(関羽)の図。6件くらい出品されているはずなのに。

 彫刻は、露出展示が多くて面白かった。童形の妙見菩薩(読売新聞社蔵)は、ひときわ高い位置に据えられていて、照明のせいか、いたずらっ子みたいに見えた。宇治の万福寺の華光菩薩は、大きいが、整った威容である。関連イベントで、二階堂善弘先生は、この彫刻についてもお話をなさるだろうか(→二階堂先生のサイト)。

 初見ではないけど「やっぱり好き」なのは、岡山県立博物館の「鼻毛の老子」。近代ものでは山本芳翠の油彩『浦島図』。細部に見どころがたくさんある。徳川美術館の黄金の『伏羲像』は、海洋堂、作ってくれないかな。地味な文献類も、じっくり鑑賞させてもらった。

 東京と大阪では、どことなく客層が異なるのも面白かった。東京は、日本橋という場所柄、おめかししたおばさまや、いかにもアート好きの若者が多かったように思うが、大阪は、商店街にいるような普段着のおじさん・おばさんが、ずいぶん熱心に見入っていた。

 ショップには、一見、2種類の展示図録が並んでいた。内容は同じだが、表紙に東京共通版と大阪限定版(黒表紙)があるということだ。さて、どっちが売れているんだろう? それから、大阪会場でもらった展示替えリストを、東京で買った図録の巻末リストと照らし合わせてみたら、図録では大阪「非出品」なのに出品されているものや、逆に大阪「出品」とあるのに出ていないものもある(辟邪絵)。予定が変わったのかな。

 東京・大阪・長崎の3会場を比較すると、大阪がいちばん規模が大きくて「大阪のみ出品」が100点以上ある。しかも展示替えは少なくて、前後期の2回行けば、ほぼ見尽くせる。やっぱり、こういうとき、大きいハコはいいなあと思う。

※公式サイト『道教の美術』
http://taoism-art.main.jp/
○(窓)と□(扉)のTOPページが斬新でカッコいい。

※関西大学・文学部・二階堂研究室:中国の民間信仰と道教
http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~nikaido/
二階堂先生、「新つぶやきコーナー」によれば、今日(10/6)は大阪市立美術館にいらしたようである。
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秋の関西旅行(1):善峯寺、穴太寺、園城寺

2009-10-04 11:55:38 | 行ったもの(美術館・見仏)
 秋は忙しい。しかも今年は特別だ。天皇御在位20周年を記念して大規模な特別展が目白押しに加えて、西国三十三所のご開帳もある。この週末は関西に出かけ、昨日(土曜日)は和歌山県立博物館と大阪の『道教の美術』を見て、今日は札所めぐりに専念した。

■西国第二十番 西山宮門跡 善峯寺(京都市西京区)

 前日は大阪泊。大阪~京都間に位置する善峯寺には、絶好のアクセスと思われた。ところが、JR向日町駅から出ている善峯寺行きの阪急バスは、9:14が始発(日曜ダイヤ)。これだと善峯寺に着くのが10時近くになってしまう。拝観は8時からOKなのに…。そこで、往路のみ、JR向日町駅からタクシーを利用(20分、約1800円)。

 まだ参拝客の少ない朝のお堂をゆっくり参拝。中央のお厨子におさめられたご本尊は、全身が淡い金色に輝く千手観音。丸みを帯びたお顔に優しい微笑を浮かべている。腰から下は物陰に隠れていたが、上半身はよく見えて、まあ満足。ふと見ると、左右の鴨居の上に風神・雷神の姿が。ということは、お厨子のまわりを囲んでいるのは二十八部衆か。脇侍は毘沙門天と不動明王。

 やや手前の左右にも、2つのお厨子が据えられており、左は未敷蓮華を手にした細身の聖観音。右は本尊と同じ千手観音立像で、開山の源算上人自刻と伝える。ご本尊が華やかで親しみやすいお顔立ちなのに比べて、こちらはスマートで静謐な印象。黒い木目のご本体と金色の宝冠・光背の対比が美しい。

 寺宝館(文殊堂、9:00~)では、期待していた『大元帥明王図』は見られなかったが、富岡鉄斎の金地彩色屏風や、京焼(古清水)が楽しめた。始発バスで到着した参拝客の集団と入れ替わりに、次の札所へ。

■西国第二十一番 菩提山穴太寺(あなおじ=あのうじ)(京都府亀岡市)

 向日町駅→京都経由→亀岡駅。バスで穴太寺へ(アクセス詳細)。ここは、慶雲年間、大伴古麻呂創建と伝える古刹である。大伴古麻呂といえば、唐の朝廷において、日本の席次が「西の二番」だったものを「東の一番」に変えさせたエピソードで知られる(続日本紀)。

 本堂には、中央の鏡(!)を挟んで、左にご本尊、右に御前立ち(どちらも聖観音)のお厨子。しかし、正面は垂れ幕でガードされていて、ほとんど何も見えない。信仰は信仰として、これで特別拝観料500円(庭園込み)を取るかなあ。逆U字型の切れ込みから垣間見た限りでは、ご本尊も御前立ちも、比較的新しそうだった。Wikiで調べたら、鎌倉時代の木造聖観音立像(重要文化財)は「1968年11月に盗難に遭い、未発見である」とのこと。これがもとのご本尊だったのだろうか。

 本堂右手奥の薄暗い一角には、布団をかけてもらって、気持ちよさそうな寝釈迦(釈迦涅槃像)がいらっしゃる。参拝者が近づくと自動的に明かりが点るのだが、リアルにお休みのところを邪魔したようで、ハッとする。病気平癒を願う者は、わざわざ布団をめくって、釈迦像のお体に触れるというのも可笑しい。

■西国第十四番 長等山園城寺(三井寺)(滋賀県大津市)

 穴太寺のご開帳が今ひとつ納得できなかったので、このまま帰るのも惜しいと思い、もう1ヵ所、寄っていくことにした。亀岡→二条→地下鉄東西線~京阪乗入れを利用して大津へ。京都も便利になったものだ。

 特別拝観の入口には、ご本尊・如意輪観音の等身大(?)写真が貼られていた。ええ~、これはまた大胆…アイドル扱いだなあ。200円払って奥に進むと、まさにその如意輪観音にお会いすることができる。垂れ幕で適度に隠されているが、お顔はきちんと見えるので満足。膝を立てた足の先が、ちょうど幕の間から見えるのが、妙に色っぽかったりする。このご本尊には、サントリー美術館の『国宝 三井寺展』でお会いしているはずなのだが、本当に同じものか、自信がもてなくて、お寺の方にお聞きしてみた。「そうです、出陳されてます」という答えをいただいて、やっと安心した。あのときは、美術品として前後左右からじっくり鑑賞させていただいたが、こうやって「仏」と「参拝者」として向き合うと、また違った趣きがある。

 3つ目となる浄土の鳥「鸚鵡」をGET。近江の札所はあと3ヵ所。

↓左:鸚鵡(三井寺)、孔雀(石山寺)、舎利(竹生島)。


※おまけ:『観音霊験記:三国三十三所』(国際日本文化研究センター)
http://www.nichibun.ac.jp/graphicversion/dbase/reikenki/saigoku/
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