週末東京旅行2日目(7/28)。朝のうちにひとつ用事を済ませて、さらに午後から別の用事があるので、フリータイムは3時間くらい。それでも東博に1時間半くらいはいられるかなと思い、出かける。
■東京国立博物館 特別展『和様の書』(2013年7月13日~9月8日)
中国の書法の影響を受けながら独自の発展を遂げ、仮名と漢字が融合した「和様の書」を展観。やっぱり書の展覧会って、なじみがないと思われたのだろうか。第1章(第1室)が、光悦の『鹿下絵和歌巻断簡』とか、屏風、蒔絵、小袖など、書にかかわる工芸中心につくられていることに違和感。それは枝葉末節ではないのか。あと信長・秀吉・家康の自筆を並べて、戦国三傑の筆跡を見比べてみよう、みたいな。いやいや、そんなことはどうでもいいから、と舌打ちして、奥へ急ぐ。
寸松庵色紙「あきはきの」(五島美)・継色紙「よしのかは」(文化庁)・升色紙「むはたまの」(五島美)が並んでるあたりまで来て、ほっとする。こういうのを見に来たんだから。三色紙は、8/6から展示替え。図録写真で見ると、寸松庵色紙(三種あり)の料紙がどれもきれいだ。でも図録だと表具を一緒に楽しめないのが惜しい。「よしのかは」の解説に「古様の仮名を使った」というのは、書風のことなのかな。それとも「か」を「可」でなく「閑」、「は」を「波」でなく「者」の変体仮名で書いているとか、そういうこと?と考える。
京博の『藻塩草』は、展示室の長い壁に沿って、ほとんど解説を挟まず、ひたすら広げてあって、無心に眺めた。なぜ冒頭が定信筆「戸隠切」?といぶかしんだが、聖徳太子筆という伝承があるからか。所収の「高野切」は、連綿が強いので「う~ん第二種かな」と素人判断。ネットで答え合わせした限りでは、合っているみたいで嬉しい。第2室も、MOAの『翰墨城』がひたすら開いている。やっぱり冒頭は「戸隠切」。こっちの「高野切」は一種か三種か判断がつかなかった。まだまだです。正解は一種。個人的にイチ押しは『藻塩草』所収の「岡寺切」。きれいだなあ、書も料紙も。
第1室から第2室に移動する壁に、いくつかの書作品が拡大してあしらわれている(確か黒っぽい壁に白文字のデザイン)。あくまで展示室の装飾なので、何の説明もないのが却って素敵で、しばらく足を留めて、うっとり眺めた。そのうち、中央の書の特徴ある文字が、藤原佐理の『国申文帖』であることを思い出した。ということは、両隣は小野道風と藤原行成か。ええと、どっちがどっちだっけ?
第2章(第2室)「仮名の成立と三蹟」を見ながら、壁の装飾に使われていた作品を探す。ああ、円珍に「智証大師」の諡号を贈る勅書(醍醐天皇より)を揮毫しているのは小野道風なのか。男性的で、墨つきの濃いド迫力の書。このひとは柳とカエルの逸話とか、あまりにも多くの作品の「伝承筆者」に祀り上げられてしまったため、実像が見えなくなってしまって、可哀相だ。実質は、中国の普遍的書法を徹底的に学んだ唐様の人だと思う。「屏風土代」の漢詩に見覚えがあって、どこで見たんだろう?と考えていたが、京博の『宸翰(しんかん)』展だった。本展での展示は8/13から。『玉泉帖』はいいものを見せてもらった。好きだわーこの自由闊達さ。中国の連綿草の名手を挙げて比べてみようと思ったけど、そんな比較が無意味なくらい、確固とした独創性と魅力に満ちている。行成は、いちばん謹直で常識人の書だな、と思う。
このへんで正午。すでに1時間経過していることに気づき、焦る。第3章は「信仰と書」。見どころは『平家納経』の「法師品」だろう。あ、でも図録は「書」に集中しているから、笛・鞨鼓・磬・蓋・幡など、飛天の持ちものだけ(飛天の姿なし)を描いた可憐な見返し絵は収録されていないのか。残念。経文は「当代随一の能筆の手になる」という。以上、戎光祥出版のムック本『国宝 平家納経』による。展示替えあり。
その直前の『久能寺経』も同時代の名品。待賢門院璋子の逆修供養(生前供養)のため、鳥羽院および美福門院得子が中心となって院近臣・女房らが結縁したものという説明を読むと、感慨深い。『目無経』は、後白河法皇を中心に制作されていた絵巻が、法皇の崩御によって中止されたため、写経の料紙に転用されたものと伝える。経文の書写者の静遍(じょうへん)は平頼盛の子。晩年の西行の書跡もあったり、いろいろとすごい。大阪の藤田美術館で見たことのある『阿字義』も来ていた。
第4章以下、いよいよ本格的に古筆(かな)の美が展開するところは、あきらめて30分で流し見る。8月にもう1回、東京に来よう。でも『古今和歌集 巻十七(曼殊院本)』が崇徳院の秘蔵本であったことは見逃さなかった。巻末に「新院御本」ナントカという跋文がある。いつまで持っていらしたのだろう。やはり都落ち前までか。
後半には、藤田美術館の『善無畏金粟王塔下感得図』(~7/28)や『平治物語絵詞・六波羅行幸巻』(~8/4)も出ていた。どういうサービスなのかと思ったら、前者は藤原定信筆、後者は藤原教家筆の書跡を示すためであるらしい。
ということでこの日はタイムアップ。八月中に必ず再訪問の予定(ねらいは8/6~登場の藤原忠通書状)。午後は池袋で同窓の友人と会い、夕方、札幌に戻った。この日も東京から友人が訪ねてきていて、遅い時間から駅前で飲む。どこが本拠なんだか、ヘンな生活w
■東京国立博物館 特別展『和様の書』(2013年7月13日~9月8日)
中国の書法の影響を受けながら独自の発展を遂げ、仮名と漢字が融合した「和様の書」を展観。やっぱり書の展覧会って、なじみがないと思われたのだろうか。第1章(第1室)が、光悦の『鹿下絵和歌巻断簡』とか、屏風、蒔絵、小袖など、書にかかわる工芸中心につくられていることに違和感。それは枝葉末節ではないのか。あと信長・秀吉・家康の自筆を並べて、戦国三傑の筆跡を見比べてみよう、みたいな。いやいや、そんなことはどうでもいいから、と舌打ちして、奥へ急ぐ。
寸松庵色紙「あきはきの」(五島美)・継色紙「よしのかは」(文化庁)・升色紙「むはたまの」(五島美)が並んでるあたりまで来て、ほっとする。こういうのを見に来たんだから。三色紙は、8/6から展示替え。図録写真で見ると、寸松庵色紙(三種あり)の料紙がどれもきれいだ。でも図録だと表具を一緒に楽しめないのが惜しい。「よしのかは」の解説に「古様の仮名を使った」というのは、書風のことなのかな。それとも「か」を「可」でなく「閑」、「は」を「波」でなく「者」の変体仮名で書いているとか、そういうこと?と考える。
京博の『藻塩草』は、展示室の長い壁に沿って、ほとんど解説を挟まず、ひたすら広げてあって、無心に眺めた。なぜ冒頭が定信筆「戸隠切」?といぶかしんだが、聖徳太子筆という伝承があるからか。所収の「高野切」は、連綿が強いので「う~ん第二種かな」と素人判断。ネットで答え合わせした限りでは、合っているみたいで嬉しい。第2室も、MOAの『翰墨城』がひたすら開いている。やっぱり冒頭は「戸隠切」。こっちの「高野切」は一種か三種か判断がつかなかった。まだまだです。正解は一種。個人的にイチ押しは『藻塩草』所収の「岡寺切」。きれいだなあ、書も料紙も。
第1室から第2室に移動する壁に、いくつかの書作品が拡大してあしらわれている(確か黒っぽい壁に白文字のデザイン)。あくまで展示室の装飾なので、何の説明もないのが却って素敵で、しばらく足を留めて、うっとり眺めた。そのうち、中央の書の特徴ある文字が、藤原佐理の『国申文帖』であることを思い出した。ということは、両隣は小野道風と藤原行成か。ええと、どっちがどっちだっけ?
第2章(第2室)「仮名の成立と三蹟」を見ながら、壁の装飾に使われていた作品を探す。ああ、円珍に「智証大師」の諡号を贈る勅書(醍醐天皇より)を揮毫しているのは小野道風なのか。男性的で、墨つきの濃いド迫力の書。このひとは柳とカエルの逸話とか、あまりにも多くの作品の「伝承筆者」に祀り上げられてしまったため、実像が見えなくなってしまって、可哀相だ。実質は、中国の普遍的書法を徹底的に学んだ唐様の人だと思う。「屏風土代」の漢詩に見覚えがあって、どこで見たんだろう?と考えていたが、京博の『宸翰(しんかん)』展だった。本展での展示は8/13から。『玉泉帖』はいいものを見せてもらった。好きだわーこの自由闊達さ。中国の連綿草の名手を挙げて比べてみようと思ったけど、そんな比較が無意味なくらい、確固とした独創性と魅力に満ちている。行成は、いちばん謹直で常識人の書だな、と思う。
このへんで正午。すでに1時間経過していることに気づき、焦る。第3章は「信仰と書」。見どころは『平家納経』の「法師品」だろう。あ、でも図録は「書」に集中しているから、笛・鞨鼓・磬・蓋・幡など、飛天の持ちものだけ(飛天の姿なし)を描いた可憐な見返し絵は収録されていないのか。残念。経文は「当代随一の能筆の手になる」という。以上、戎光祥出版のムック本『国宝 平家納経』による。展示替えあり。
その直前の『久能寺経』も同時代の名品。待賢門院璋子の逆修供養(生前供養)のため、鳥羽院および美福門院得子が中心となって院近臣・女房らが結縁したものという説明を読むと、感慨深い。『目無経』は、後白河法皇を中心に制作されていた絵巻が、法皇の崩御によって中止されたため、写経の料紙に転用されたものと伝える。経文の書写者の静遍(じょうへん)は平頼盛の子。晩年の西行の書跡もあったり、いろいろとすごい。大阪の藤田美術館で見たことのある『阿字義』も来ていた。
第4章以下、いよいよ本格的に古筆(かな)の美が展開するところは、あきらめて30分で流し見る。8月にもう1回、東京に来よう。でも『古今和歌集 巻十七(曼殊院本)』が崇徳院の秘蔵本であったことは見逃さなかった。巻末に「新院御本」ナントカという跋文がある。いつまで持っていらしたのだろう。やはり都落ち前までか。
後半には、藤田美術館の『善無畏金粟王塔下感得図』(~7/28)や『平治物語絵詞・六波羅行幸巻』(~8/4)も出ていた。どういうサービスなのかと思ったら、前者は藤原定信筆、後者は藤原教家筆の書跡を示すためであるらしい。
ということでこの日はタイムアップ。八月中に必ず再訪問の予定(ねらいは8/6~登場の藤原忠通書状)。午後は池袋で同窓の友人と会い、夕方、札幌に戻った。この日も東京から友人が訪ねてきていて、遅い時間から駅前で飲む。どこが本拠なんだか、ヘンな生活w