○鶴見俊輔『かくれ佛教』 ダイヤモンド社 2010.12
1922年生まれの鶴見さんが、第一線の運動家、評論家として活躍していたのは1960~70年代くらいだろうか。私はその頃の著者をよく知らない。けれど、先だって、著者が80歳から87歳の間に書いたエッセイ『思い出袋』(岩波新書、2010.3)を読んでファンになった。こういう老人に私もなりたい、と思った。本書はさらに、85歳から88歳の間のインタビューをもとに構成したもの。冒頭に、石畳の街頭に杖をついて、しかし背筋を伸ばし、正面を見据えて立つ著者の全身近影が掲げられている。
本書のテーマは宗教である。著者は、自分の立場を「かくれキリシタン」にちなんで「かくれ仏教徒」と表現する。ハーバードの神学校で学んだ著者だが、キリスト教徒にはならなかった。キリスト教は、つねに自分が正しいと思っていて、「あなたは間違っている」という。その点で、マルクス主義もウーマン・リブも、ヨーロッパに学ぼうとした、明治以降の日本政府も同じ一派である。
厳しい母親に育てられた著者は「マゾヒスト」に育った。さらに子どもの頃、張作霖爆殺事件を知って「日本人は悪いやつだ」と思った。「私はもともと人間として悪い奴」である上に「悪い日本人の一部」だ。そこに、結果として、仏教に親近感を持つ下地があったという。笑ってしまった。昨今不評の自虐史観の極みではないか。しかし、自虐史観が日本人を萎縮や卑屈に導いたと考えるのは短絡的にすぎる。「私は悪人である」という自覚の徹底から、どれだけ強靭で、かつ自由で独立不羈な精神が生まれてくるか、著者の一例をもっても分かろうというものだ。
著者は、キリスト教の一部にも仏教に似た立場があることを、イエスはキリスト(救世主)ではなくブッダ(自覚を得た人間)と呼ぶべきではないか、と説いた木下尚江を引いて述べる。しかし著者は、戦時中の僧侶や牧師が、戦争を支持し、人を殺していいと触れまわっていたことに、今も不信感をもっている。「私の葬式のときは、友人の僧侶や牧師に説教などしてもらいたくない。一代の終わりまで」。この執念深さを、私は爽快だと思う。
本書には、古今東西、多種多様な人物が登場する。法然、親鸞、良寛など、歴史上の高僧とともに、著者の精神的遍歴に直接の影響を与えた家族(父、母、姉)、友人、恩師なども登場する。戦前の学習院では、軍人の大官の子どもたちが威張りかえっていて、それを不快に思った少年たちが「白樺」に集まった。軍人批判で教師や生徒父兄を怒らせたのが柳宗悦で、それをかばった教師が西田幾多郎とか、意外な有名人と有名人が、イモヅル式につながっていたりする。河合隼雄とは存命中のつきあいもあったが、没後に著作を読んで受けた影響も大きく、「私は河合隼雄没後の門人」という表現を使っている。牧口常三郎、戸田城聖は、創価学会の前身、創価教育学会の創立者である。著者は創価教育学会の影響を受けた家庭教師との出会いを好意的に語っている。
仏教の教理そのものへの言及は少ないが、私は、ほとんど慣用句として耳になじんでいた「寂滅為楽」という言葉を、あらためて美しい言葉だと感じた。田村芳朗の「しじまをたのしみとなす」という和訳も美しい。それから、仏典に出典をもつ「犀のように一人で歩め」という言葉。参った。脚注には「あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。況んや朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め」とある。優しくて、かつ厳しい言葉だと思う。
1922年生まれの鶴見さんが、第一線の運動家、評論家として活躍していたのは1960~70年代くらいだろうか。私はその頃の著者をよく知らない。けれど、先だって、著者が80歳から87歳の間に書いたエッセイ『思い出袋』(岩波新書、2010.3)を読んでファンになった。こういう老人に私もなりたい、と思った。本書はさらに、85歳から88歳の間のインタビューをもとに構成したもの。冒頭に、石畳の街頭に杖をついて、しかし背筋を伸ばし、正面を見据えて立つ著者の全身近影が掲げられている。
本書のテーマは宗教である。著者は、自分の立場を「かくれキリシタン」にちなんで「かくれ仏教徒」と表現する。ハーバードの神学校で学んだ著者だが、キリスト教徒にはならなかった。キリスト教は、つねに自分が正しいと思っていて、「あなたは間違っている」という。その点で、マルクス主義もウーマン・リブも、ヨーロッパに学ぼうとした、明治以降の日本政府も同じ一派である。
厳しい母親に育てられた著者は「マゾヒスト」に育った。さらに子どもの頃、張作霖爆殺事件を知って「日本人は悪いやつだ」と思った。「私はもともと人間として悪い奴」である上に「悪い日本人の一部」だ。そこに、結果として、仏教に親近感を持つ下地があったという。笑ってしまった。昨今不評の自虐史観の極みではないか。しかし、自虐史観が日本人を萎縮や卑屈に導いたと考えるのは短絡的にすぎる。「私は悪人である」という自覚の徹底から、どれだけ強靭で、かつ自由で独立不羈な精神が生まれてくるか、著者の一例をもっても分かろうというものだ。
著者は、キリスト教の一部にも仏教に似た立場があることを、イエスはキリスト(救世主)ではなくブッダ(自覚を得た人間)と呼ぶべきではないか、と説いた木下尚江を引いて述べる。しかし著者は、戦時中の僧侶や牧師が、戦争を支持し、人を殺していいと触れまわっていたことに、今も不信感をもっている。「私の葬式のときは、友人の僧侶や牧師に説教などしてもらいたくない。一代の終わりまで」。この執念深さを、私は爽快だと思う。
本書には、古今東西、多種多様な人物が登場する。法然、親鸞、良寛など、歴史上の高僧とともに、著者の精神的遍歴に直接の影響を与えた家族(父、母、姉)、友人、恩師なども登場する。戦前の学習院では、軍人の大官の子どもたちが威張りかえっていて、それを不快に思った少年たちが「白樺」に集まった。軍人批判で教師や生徒父兄を怒らせたのが柳宗悦で、それをかばった教師が西田幾多郎とか、意外な有名人と有名人が、イモヅル式につながっていたりする。河合隼雄とは存命中のつきあいもあったが、没後に著作を読んで受けた影響も大きく、「私は河合隼雄没後の門人」という表現を使っている。牧口常三郎、戸田城聖は、創価学会の前身、創価教育学会の創立者である。著者は創価教育学会の影響を受けた家庭教師との出会いを好意的に語っている。
仏教の教理そのものへの言及は少ないが、私は、ほとんど慣用句として耳になじんでいた「寂滅為楽」という言葉を、あらためて美しい言葉だと感じた。田村芳朗の「しじまをたのしみとなす」という和訳も美しい。それから、仏典に出典をもつ「犀のように一人で歩め」という言葉。参った。脚注には「あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。況んや朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め」とある。優しくて、かつ厳しい言葉だと思う。