〇倉本一宏『戦争の日本古代史:好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』(講談社現代新書) 講談社 2017.5
近代日本は間断なく戦争をしてきたが、「明治維新」以前の日本は、ほとんど対外戦争の経験がない。古代の日本(および倭国)が海外で実際に戦争を行ったのは、4世紀末から5世紀初頭にかけての対高句麗戦と、7世紀後半の白村江の戦いの2回しかない。その後は16世紀末の秀吉の半島侵攻のみである。ただし、秀吉の「唐入り」も近代日本のアジア侵略も、実は古代の「対朝鮮観」を淵源としていることが、本書では徐々に明らかにされる。
はじめに4~5世紀の高句麗好太王との戦い。朝鮮半島では最初に高句麗が政治的成長を遂げ、次に百済が馬韓(半島西部)を統一する。続いて辰韓(半島南東部)に興った新羅は、高句麗に従属せざるを得なかった。弁韓(半島南部)は統一されないまま小国が乱立しており、倭国の対半島交渉の中継点もここにあった。さて高句麗と抗争を続ける百済は、倭国に軍事援助を求めてきた。このとき倭国に贈られたのが、石上神宮に伝わる七支刀である。本格的に国家間の外交というものを知らなかった倭王権は、百済からの誘いに乗って無謀な戦争に踏み込み、大敗を喫した、というのが著者の評価である。
この結果、実際に戦った高句麗よりも去就に定まらなかった新羅に対して強い敵国意識を抱くようになり、それは8世紀に編纂された『日本書紀』にも反映されているという。これは『日本書記』の記述を読む上で重要な指摘だと思うのだが、4~5世紀の高句麗との戦いって、教科書でどのくらい教えられているのだろう?(むかしの話だが、私は習った記憶がない)
5世紀は倭の五王の時代である。五人の王は、中国の南朝に朝貢を行い、朝鮮半島南部における軍事指揮権(六国諸軍事)を認められた。中国(宋)にとっては遥か遠方の小国の求めであるし、百済に対する軍事指揮権は最後まで認められなかったが、7世紀後半に百済が滅亡し、新羅が朝鮮半島を統一したことで、後世の日本が朝鮮半島全体に支配権を主張する根拠につながった。
7世紀の東アジアは激動の時代で、中国では隋に代わって唐が全土を統一した。新羅は、百済・高句麗による侵攻に対抗して、唐に保護を求める。これに対して倭国では「新羅を懲らしめる」云々という議論がされていた(日本書記)というから、外交感覚の鈍さは国柄なんだと思う。そして百済から救援要請が届くと、白村江に出兵するが、唐の水軍の餌食になってしまう。著者の描写では、「ろくな戦略も戦法も考えずに、やみくもに突撃をくりかえす」という、日本の対外戦争の典型的な悪癖が展開されている。しかし、中大兄と鎌足が戦争に踏み切った真の理由は、対外的な危機感を煽ることで、中央集権的な軍事国家をつくることだったという推測は面白い。もっと端的に、既得権層である豪族の力を削ぐこと(裁兵)だったというのも面白い。
8世紀には渤海と連携した藤原仲麻呂が新羅征討計画を表明するが、仲麻呂の失墜(恵美押勝の乱)によって中止となる。以後、新羅との交渉は交易が中心となるが、新羅を一方では朝貢国と、また一方では敵国と認識する伝統は後世に受け継がれる。9~10世紀には、しばしば新羅の入寇が起こり、11世紀には刀伊(女真族)の入寇があった。このときは大宰権帥が藤原隆家でほんとによかったと思う。京の貴族たちは高麗の関与を疑い、「新羅は元敵国である」「高麗は神功皇后が自ら征伐した国であり、その復讐をしたいと思っている」等々の文言を残している。
以上、日本古代における対外戦争と、外国勢力の侵攻に対する対応を解説したあと、短い最終章は、その後の「戦争の日本史」に触れる。13世紀の蒙古襲来と撃退の成功は、寺社勢力の宣伝によって「神風」思想を人々に蔓延させた。そして異国に対する屈折した心理は、モンゴルそのものよりも日本侵攻の尖兵となった高麗に対して強く及んだ。恐ろしいものを表す民俗語彙に「ムクリコクリ(蒙古・高麗)」というのがあるのか。知らなかった。
16世紀には秀吉の朝鮮侵攻があった。この事件の余波は、いろいろな側面から語ることができるが、近代の挑戦植民地化と大陸侵略に重大な影響を与えたことは看過できないと思う。寺内正毅は「小早川、加藤、小西が世にあれば、今宵の月をいかにみるらむ」なんていう歌を詠んでいるのか。醜悪である。前近代のアジアには、基本的に対等な外交関係が存在せず、どちらが上位の国家であるかをせめぎ合ってきたことは分かる。しかし、前近代の認識を近代に持ち込むことは、もうやめにしたい。
近代日本は間断なく戦争をしてきたが、「明治維新」以前の日本は、ほとんど対外戦争の経験がない。古代の日本(および倭国)が海外で実際に戦争を行ったのは、4世紀末から5世紀初頭にかけての対高句麗戦と、7世紀後半の白村江の戦いの2回しかない。その後は16世紀末の秀吉の半島侵攻のみである。ただし、秀吉の「唐入り」も近代日本のアジア侵略も、実は古代の「対朝鮮観」を淵源としていることが、本書では徐々に明らかにされる。
はじめに4~5世紀の高句麗好太王との戦い。朝鮮半島では最初に高句麗が政治的成長を遂げ、次に百済が馬韓(半島西部)を統一する。続いて辰韓(半島南東部)に興った新羅は、高句麗に従属せざるを得なかった。弁韓(半島南部)は統一されないまま小国が乱立しており、倭国の対半島交渉の中継点もここにあった。さて高句麗と抗争を続ける百済は、倭国に軍事援助を求めてきた。このとき倭国に贈られたのが、石上神宮に伝わる七支刀である。本格的に国家間の外交というものを知らなかった倭王権は、百済からの誘いに乗って無謀な戦争に踏み込み、大敗を喫した、というのが著者の評価である。
この結果、実際に戦った高句麗よりも去就に定まらなかった新羅に対して強い敵国意識を抱くようになり、それは8世紀に編纂された『日本書紀』にも反映されているという。これは『日本書記』の記述を読む上で重要な指摘だと思うのだが、4~5世紀の高句麗との戦いって、教科書でどのくらい教えられているのだろう?(むかしの話だが、私は習った記憶がない)
5世紀は倭の五王の時代である。五人の王は、中国の南朝に朝貢を行い、朝鮮半島南部における軍事指揮権(六国諸軍事)を認められた。中国(宋)にとっては遥か遠方の小国の求めであるし、百済に対する軍事指揮権は最後まで認められなかったが、7世紀後半に百済が滅亡し、新羅が朝鮮半島を統一したことで、後世の日本が朝鮮半島全体に支配権を主張する根拠につながった。
7世紀の東アジアは激動の時代で、中国では隋に代わって唐が全土を統一した。新羅は、百済・高句麗による侵攻に対抗して、唐に保護を求める。これに対して倭国では「新羅を懲らしめる」云々という議論がされていた(日本書記)というから、外交感覚の鈍さは国柄なんだと思う。そして百済から救援要請が届くと、白村江に出兵するが、唐の水軍の餌食になってしまう。著者の描写では、「ろくな戦略も戦法も考えずに、やみくもに突撃をくりかえす」という、日本の対外戦争の典型的な悪癖が展開されている。しかし、中大兄と鎌足が戦争に踏み切った真の理由は、対外的な危機感を煽ることで、中央集権的な軍事国家をつくることだったという推測は面白い。もっと端的に、既得権層である豪族の力を削ぐこと(裁兵)だったというのも面白い。
8世紀には渤海と連携した藤原仲麻呂が新羅征討計画を表明するが、仲麻呂の失墜(恵美押勝の乱)によって中止となる。以後、新羅との交渉は交易が中心となるが、新羅を一方では朝貢国と、また一方では敵国と認識する伝統は後世に受け継がれる。9~10世紀には、しばしば新羅の入寇が起こり、11世紀には刀伊(女真族)の入寇があった。このときは大宰権帥が藤原隆家でほんとによかったと思う。京の貴族たちは高麗の関与を疑い、「新羅は元敵国である」「高麗は神功皇后が自ら征伐した国であり、その復讐をしたいと思っている」等々の文言を残している。
以上、日本古代における対外戦争と、外国勢力の侵攻に対する対応を解説したあと、短い最終章は、その後の「戦争の日本史」に触れる。13世紀の蒙古襲来と撃退の成功は、寺社勢力の宣伝によって「神風」思想を人々に蔓延させた。そして異国に対する屈折した心理は、モンゴルそのものよりも日本侵攻の尖兵となった高麗に対して強く及んだ。恐ろしいものを表す民俗語彙に「ムクリコクリ(蒙古・高麗)」というのがあるのか。知らなかった。
16世紀には秀吉の朝鮮侵攻があった。この事件の余波は、いろいろな側面から語ることができるが、近代の挑戦植民地化と大陸侵略に重大な影響を与えたことは看過できないと思う。寺内正毅は「小早川、加藤、小西が世にあれば、今宵の月をいかにみるらむ」なんていう歌を詠んでいるのか。醜悪である。前近代のアジアには、基本的に対等な外交関係が存在せず、どちらが上位の国家であるかをせめぎ合ってきたことは分かる。しかし、前近代の認識を近代に持ち込むことは、もうやめにしたい。