〇吉見俊哉『知的創造の条件:AI的思考を超えるヒント』(筑摩選書) 筑摩書房 2020.5
知的創造の方法については多くの類書がある中で、本書は、個人の方法論ではなく、大学の教育研究体制や図書館の仕組み、さらには知的所有権や情報公開、文書管理などの社会的体制そのものの革新を含め、知的創造を可能にする制度的条件とは何かを考えるために執筆された。その意味では、若者よりも、社会体制の中核にいる中高年にこそ読んでほしい1冊である。
本編は四つの章で構成される。第1章では、はじめに著者の個人史を素材として、知的創造が「いい人との出会い」によって生まれることを確認する。第2章は教師としての経験から、大学の教室という場で、知的創造はいかに営まれるのかを論ずる。ここは、現役大学生や、これから大学に入る人たちにぜひ読んでもらいたい。研究を成り立たせる八つの要素「問い」「研究対象」「先行研究」「分析枠組」(ここまでが往路≒基礎)「仮設」「実証」「結論」「意義」(復路≒建物)という構造化モデルが非常に面白かった。まず往路の四角形をぐるぐるまわって研究の基礎を固めることが重要で、そこで初めて(外から見える)建物をしっかり建てることができる。
本書は特に「問い」(問題意識)の形成が決定的に重要であることを詳しく論じている。著者のいう「問い」は「リサーチクエスチョン」とは別概念で、より根本的なものだ。そして「問い」を「研究課題」に定式化する際のパターンや失敗例が論じられる。人文社会科学の研究者が、日常的に何をして(何を考えて)いるかが分かったように思ったが、自然科学の研究の枠組みもだいたい同じなのか、誰かに聞いてみたい。
第3章は図書館や出版社、インターネット、エンサイクロペディア、研究会など知的創造の社会的基盤について。知的創造には空間志向の「集合知」と時間志向の「記憶知」の協働が決定的に重要である。インターネットは(一定の条件下で)「集合知」の形成を活性化できるが、「記憶知」との結びつきを失うと、フィルターバブル(狭い関心への閉じこもり)や排他的ポピュリズムの温床になりやすい。
第4章は知的創造の主体である人間のライバル「AI」について。著者は、おそらく永遠に「シンギュラリティ」(AIが人間の知能を超える日)は来ないと予測する。ただし21世紀末までに大規模な産業構造の転換が起こり、「私たちが当たり前の理想として追求してきた民主主義や自由の観念を危ういものとしていく」だろうと述べる。実は、こっちの予測のほうが重大だと思う。その理由として著者は、近代の総力戦体制(戦争及び産業経済)においては、人間全員に価値を認めることが理に適っていた(ライフル銃を持ったり、レバーを引いたりする、一つひとつの手に価値があった)と、ハラリ『ホモ・デウス』を引用して述べる。
しかしAIには弱点がある。AIはデータ解析によって一定の連続的な変化は見通せても、突発的な・未曾有の変化(大災害など)には対処できない。というのだが、これが妥当な評価かどうかはAIの専門家の意見を聞きたい。もうひとつ、AIは「モラル」や「アカウンタビリティ」を持たない以上、未来を構想することはできない。戦争兵器にはなれても平和交渉の担い手にはなれない、という例が分かりやすかった。
社会が「賢さ」を獲得するには巨人の肩に乗らなければならない。ここで再び言及されるのが「記録知」の基盤、すなわち図書館や文書館、ミュージアム、アーカイブである。特にデジタルアーカイブは、従来のアーカイブが、権力によって選ばれた記録の集積だったのに対し、公式知/非公式知、形式知/暗黙知の全てを記録(記憶)できる可能性があるという。
個人的には、著者独自の観点から、図書館やデジタルアーカイブの役割が整理されていて興味深かった。どちらも「記録知」のメディアであるわけだが、もっと積極的に「集合知」と協働していかないと、存在意義はないと思う。百学連環的、あるいは百科全書的なプロジェクトを参考に。あと、東大では2000年代半ばに「知の構造化センター」が設置され、人文社会科学分野の論文データのAI的な解析実験が行われたが、このセンターは学内的な支持を得られず、存続できなかったというのは初めて知ったが、実にもったいない話である。