〇藤原辰史『給食の歴史』(岩波新書) 岩波書店 2018.11 偏食の激しかった私は給食が嫌いだった。小学校高学年のとき、校舎改修のため給食を中止になったことと、給食のない私立中学に通えたのは幸いだった。もし給食が続いていたら、学校生活の記憶は最悪で、私はかなり歪んだ性格になっていたと思う。それはさておき、本書は世界の給食史を概観したあと、日本の給食史を、萌芽期・占領期・発展期・行革期に分けて記述していく。
萌芽期(19世紀後半から敗戦まで)。日本近代の給食は、就学者を貧困層にも拡大しようとする国家制度が整えられていく中で生まれた。通説では、1889年、山形県鶴岡町で仏教系の私立忠愛小学校の取組みが最初と言われている。地方自治体による本格的な学校給食が始まるのは1919年の東京府で、その最大の功労者は、栄養学の父・佐伯矩(ただす)だった。東京府は栄養素がバランスよく配合されたパンを使った。同じ頃、牛乳の給食を始めようという動きもあった。弁当持参や民間委託に対する批判、災害や飢饉における給食の重要性、貧困児童に与える「スティグマ」の回避などの諸問題が、この時期、すでに出揃っている。
次に占領期(敗戦後から1952年まで)。1945年8月に戦争は終わっても、食糧危機と子どもたちの飢えは続いた。各地の教師たちが、政府の施策を待たず、自発的な給食に取り組んだ。これは初めて聞く話。教師たちが、農家から野菜をもらってきたり、野草や山菜を集めたり、学校でパンを焼いたりしていたなんて。やがてGHQ公衆衛生福祉局のサムス局長と文部省・厚生省の官僚たちの尽力によって、戦後の給食制度が始動する。まずは有名なララ(LARA)物資。「輸入食糧物資感謝の歌」に「学校給食感謝の歌」、「ララ」を詠み込んだ良子皇后の御歌まであるのか。敗戦国・日本の疲弊ぶり、外国(端的にはアメリカ)の好意によって、なんとか生きのびた瀕死の重病人だったことをあらためて知る。
しかしもちろん、アメリカにはアメリカの思惑があった。「白米だけを食し、他の食物はあまり食べないという国民のそれまで食習慣」を変えることで、アメリカの余剰農農作物や余剰乳製品を日本に売り込む地ならしをする戦略である。サムスが「熱狂的なミルク主義者」だったというのが可笑しい。
GHQの置土産は、発展期(占領後から1970年代まで)に効果を発揮する。学校給食は廃止の危機を乗り越え、1954年に学校給食法が成立し、1957年全国学校給食会連合会(全給連)が結成され、制度化が達成された。アメリカは、1952~53年に小麦の記録的な大豊作に見舞われ、余剰農作物を西側陣営への食糧援助に投入することにする。米の不作に悩んでいた日本にとって、安価な食糧が入手できるのは喜ばしいことでもあった。しかしこの結果、日本国内で麦の市場開拓とともに米食批判の勢いが増したというのは、原因と結果が逆立ちしているようで、わけわからないけど面白い。
1960年代以降、国民1人あたりのコメ消費量が大幅に下がり、小麦の消費量は微増している。また1960年の安保条約改定によって貿易の自由化が開始されると、脱脂粉乳の輸入が急増する(ええ!)。占領期以来の給食で小麦や乳製品になじんだ子どもたちが、60年代から本格的に消費行動を始めたのではないかという推理が興味深い。また、この時代でも貧しい農村には欠食児童が存在し、地域の保護者や教師たちの懸命の努力によって給食が実行されていた。都市部では給食の味つけや栄養価が問題になる一方、僻地では完全給食の実施が先決だった。
いよいよ最後の行革期(1970年代から現在)。新自由主義と行革の嵐が吹き荒れる中、給食の民間委託やセンター方式、調理員のパートタイム化が進んだ。これに対して、批判や反発、さまざまな運動が生まれたのもこの時期である。現在では、地域の食材を利用した地産地消給食など、多様で充実した給食が試みられている。同時に子どもの貧困は深刻化しており、「飢えをしのぐ」ための給食の重要性は変わっていない。「満腹」を求めることと「おいしいもの」を求めることは決して矛盾しない。「子どもたちの生存をおいしい食事で確保する」ことこそ給食の使命と言えるだろう。給食を「まずい」「貧しい」としか思ったことのない私には、夢のようで、少し甘酸っぱい結論である。