○NHK大河ドラマ『平清盛』第6回「西海の海賊王」(2012年2月12日放送)
今年の大河ドラマは楽しく見ている。皇室を「王家」と呼んだとかでイロイロ言われ、画面が汚いとか、扱う人物がメジャーでないとか、視聴率は苦戦しているが、私はここまで、ほぼ満足だ。ちょっと微妙だったのは第2回くらい。これはもう、年末まで完走コースに乗ったな、と思っている。
私は、この時代(平安末期)が好きで、さらに平家びいきなので、清盛が大河ドラマになると聞いたときから嬉しかった。何年か前の『義経』も時代的にはストライクで見始めたのだが、確か初回だけで脱落した。画面の空々しい清潔感が受け入れられなかったためである。今年の大河批判の中に「平安時代が舞台なんだから、もっとキレイな画面が見たい」という声があるのを見ると、感じ方は人それぞれだなあ、と思う。私にとっての「平安時代」は、まず闇。鬼神、怨霊、魑魅魍魎の跋扈する闇に始まり、短い光芒のような昼の時代(摂関期)を過ぎて、再び闇の時代に突入して行く。
私の平安時代は「源氏物語」よりも、「今昔」「宇治拾遺」などの説話文学の中にある。あるいは、軍記物語と絵巻・絵詞の中に。そうやって形づくってきた平安末期のイメージと、今年の大河ドラマの間に、大きな違和感はない。むしろ輪郭のボンヤリしていたイメージを、はっきり視覚化してくれるのが、とても楽しい。
もちろん嘘(フィクション)も混じっているのだが、小さな嘘・ごまかしにはイライラするのに、なぜか大きな嘘は許せてしまう(笑)。こういうタイプの歴史好きは、多いんじゃないかと思っている。ある種の主義主張に凝り固まった人々は別として。
このドラマには、強烈な個性をもったキャラクターが、これでもかというほど多数登場する。実際、そういう時代だったのだから仕方ないが、それぞれ絶妙の配役で描き分けられているのが見事である。しかも彼らの多くが(ある者は主人公とともに生き、ある者は退場後に何らかの影響を残しつつ)始まったばかりの長い物語を織りなしていくと思うと、とても楽しみだ。
これまでのところ、いちばん意外な造形は信西(藤原/高階通憲)である。むかし読んだ学習マンガでは、いけすかない禿の爺さんに描かれていたので、阿部サダヲ演じる若き信西には、イメージの修正を迫られているが、新鮮で面白い。これからの変貌が見もの。また、上川隆也演ずる鱸丸は、落ち着き払った風情が「漁師に見えない」と話題になっているが、やがて平盛国になると知り、調べてみたら、清盛は盛国の屋敷で息を引きとったとか、壇ノ浦の戦いの後、捕虜となって鎌倉に送られ、飲食を絶って自害した等のエピソードを知り、唸った。そこまで描いてくれたら大拍手である。
最新の第6回は、宋船(の模造船)を瀬戸内海に浮かべての海戦ロケが見どころだった。個人的には、通憲が李白の「春夜宴桃李園序」(浮生は夢の若し/歓を為すこと幾何ぞ)を詠じ、「短い人生なのだから、精一杯楽しめという意味だ」という解説に「梁塵秘抄」の「遊びをせんとや生まれけん」の歌声が重なるところ、唐土の大詩人の作品と、日本の無名作者の歌謡の主題が響き合うシーンに、ぐっときたのだが、誰もそんなところ注目してなかったみたいで、残念だった。宋船に乗っていた幼女の桃李ちゃん、通憲の中国語の師匠にならないかな、と妄想してみる。
清盛の「俺は海賊王になるぞー!」は、本当にそんなマンガ的なセリフを言わせるのかと思って、さすがの私も放送前からハラハラしていたら、最後にさらっと言わせた上、捕縛された兎丸に「お前ちゃうやろ」と突っ込ませていて、ただのギャグパートだったので、笑ってしまった。小船で宋に向かおうとしたときも「そこは気力で」とか、油断していると、耳を疑うような脱力系のセリフが入る。あれは脚本どおりなのか、アドリブなのか。こういう「茶化し」も、嫌いな視聴者は駄目らしいが、私は、シリアスな筋にチャリ場が入るのは、伝統芸能で馴染みの手法なので全く無問題、大歓迎である。
それにしても、何が面白いと言って「時代考証その2」こと本郷和人先生の「つぶやき」が面白すぎる。この1年、本郷先生をフォローするために、私もTwitterのアカウントを取り直そうかと真面目に考えている。
今年の大河ドラマは楽しく見ている。皇室を「王家」と呼んだとかでイロイロ言われ、画面が汚いとか、扱う人物がメジャーでないとか、視聴率は苦戦しているが、私はここまで、ほぼ満足だ。ちょっと微妙だったのは第2回くらい。これはもう、年末まで完走コースに乗ったな、と思っている。
私は、この時代(平安末期)が好きで、さらに平家びいきなので、清盛が大河ドラマになると聞いたときから嬉しかった。何年か前の『義経』も時代的にはストライクで見始めたのだが、確か初回だけで脱落した。画面の空々しい清潔感が受け入れられなかったためである。今年の大河批判の中に「平安時代が舞台なんだから、もっとキレイな画面が見たい」という声があるのを見ると、感じ方は人それぞれだなあ、と思う。私にとっての「平安時代」は、まず闇。鬼神、怨霊、魑魅魍魎の跋扈する闇に始まり、短い光芒のような昼の時代(摂関期)を過ぎて、再び闇の時代に突入して行く。
私の平安時代は「源氏物語」よりも、「今昔」「宇治拾遺」などの説話文学の中にある。あるいは、軍記物語と絵巻・絵詞の中に。そうやって形づくってきた平安末期のイメージと、今年の大河ドラマの間に、大きな違和感はない。むしろ輪郭のボンヤリしていたイメージを、はっきり視覚化してくれるのが、とても楽しい。
もちろん嘘(フィクション)も混じっているのだが、小さな嘘・ごまかしにはイライラするのに、なぜか大きな嘘は許せてしまう(笑)。こういうタイプの歴史好きは、多いんじゃないかと思っている。ある種の主義主張に凝り固まった人々は別として。
このドラマには、強烈な個性をもったキャラクターが、これでもかというほど多数登場する。実際、そういう時代だったのだから仕方ないが、それぞれ絶妙の配役で描き分けられているのが見事である。しかも彼らの多くが(ある者は主人公とともに生き、ある者は退場後に何らかの影響を残しつつ)始まったばかりの長い物語を織りなしていくと思うと、とても楽しみだ。
これまでのところ、いちばん意外な造形は信西(藤原/高階通憲)である。むかし読んだ学習マンガでは、いけすかない禿の爺さんに描かれていたので、阿部サダヲ演じる若き信西には、イメージの修正を迫られているが、新鮮で面白い。これからの変貌が見もの。また、上川隆也演ずる鱸丸は、落ち着き払った風情が「漁師に見えない」と話題になっているが、やがて平盛国になると知り、調べてみたら、清盛は盛国の屋敷で息を引きとったとか、壇ノ浦の戦いの後、捕虜となって鎌倉に送られ、飲食を絶って自害した等のエピソードを知り、唸った。そこまで描いてくれたら大拍手である。
最新の第6回は、宋船(の模造船)を瀬戸内海に浮かべての海戦ロケが見どころだった。個人的には、通憲が李白の「春夜宴桃李園序」(浮生は夢の若し/歓を為すこと幾何ぞ)を詠じ、「短い人生なのだから、精一杯楽しめという意味だ」という解説に「梁塵秘抄」の「遊びをせんとや生まれけん」の歌声が重なるところ、唐土の大詩人の作品と、日本の無名作者の歌謡の主題が響き合うシーンに、ぐっときたのだが、誰もそんなところ注目してなかったみたいで、残念だった。宋船に乗っていた幼女の桃李ちゃん、通憲の中国語の師匠にならないかな、と妄想してみる。
清盛の「俺は海賊王になるぞー!」は、本当にそんなマンガ的なセリフを言わせるのかと思って、さすがの私も放送前からハラハラしていたら、最後にさらっと言わせた上、捕縛された兎丸に「お前ちゃうやろ」と突っ込ませていて、ただのギャグパートだったので、笑ってしまった。小船で宋に向かおうとしたときも「そこは気力で」とか、油断していると、耳を疑うような脱力系のセリフが入る。あれは脚本どおりなのか、アドリブなのか。こういう「茶化し」も、嫌いな視聴者は駄目らしいが、私は、シリアスな筋にチャリ場が入るのは、伝統芸能で馴染みの手法なので全く無問題、大歓迎である。
それにしても、何が面白いと言って「時代考証その2」こと本郷和人先生の「つぶやき」が面白すぎる。この1年、本郷先生をフォローするために、私もTwitterのアカウントを取り直そうかと真面目に考えている。