「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

ブログを作りながらの音楽鑑賞

2014年04月22日 | 音楽談義

去る3月29日付けのブログ「文学は音楽に敵わない」の中で、「永遠のゼロ」「海賊とよばれた男」などのベストセラー作家「百田尚樹」さんが大のクラシック・ファンで執筆中にも音楽をかけ流していることを記しておいた。

実は、それ以降、自分も百田さんにならってこの3週間あまりブログを作っている時間(早朝)にクラシックをずっとかけ流している。これまではテレビを聞きながらだったが、つい興味を引かれるニュースがあったりして集中できないことがあったが、クラシックだとどうやら思考が中断しなくて済むようだ。

そのかけ流したクラシックだが、それは3年ほど前に購入しておいたボックスタイプの「バロック・マスターピース」。

               

何せ60枚セットのものなのでその量に気圧されてずっと聴く機会がないままに放置していたものだが、この際とばかりBGM風に鳴らしてみた。

平均するとブログの作成時間は2時間前後(長すぎるかな?)なのでおよそ1件あたり2~3枚は消化できる計算になるが、そのとおりこの3週間あまりですべてを聴き終えた。

「バロック音楽」とは、音楽様式・時代様式だけでなく、むしろ音楽史上の年代を指すものとしても広く受け入れられているとネットにあった。

鑑賞後の個人的な感想だが「総じて聞き流すのにはいいが、己の士気を鼓舞してくれてずっとあとに残る音楽ではない」というのが印象だった。この60枚の中ではバッハの曲が22枚もあったが、やはり相変わらずでバッハの音楽そのものからして「?」。

クラシック音楽は煎じ詰めるとバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの3人に尽きると言われているが、昔からバッハだけは苦手で、実に不幸なことだがこればかりはもう相性が悪いとしか言いようがない。

だが、待てよ~。

開き直るわけではないが、そういえばバッハとモーツァルトを両方愛好している人ってどれくらいいるんだろう?素人考えだが両者の音楽は曲風がまるっきり違うように思う。

こんなことを書くと「俺はバッハもモーツァルトも好きだぞ~」という方が大勢いるかもしれない。だがしかし、バッハはともかく問題は「モーツァルトが好き」のその中身である。

稀代の天才モーツァルトの作品にもいろいろあって、35年という短い生涯(1791年没)にもかかわらずその作品数は実に600曲以上にも上る。それこそ名曲の宝庫といってもいいくらいだが、30年以上もひたすらモーツァルトを聴き込んできた結果から言わせてもらうと、彼の真価は間違いなくオペラにある。

それも「ドン・ジョバンニ」、「フィガロの結婚」でもいいのだが、やはり「魔笛」が一頭地を抜いている。「魔笛」にはモーツァルトの音楽のすべてが込められているといっても過言ではない。

そこで、実はここ20年ほど、音楽評論家をはじめモーツァルトファンと称する方々の「ホンモノ度」を図る目安として、秘かに用いているのが「魔笛への傾倒度」。

たとえば、モーツァルトに関して偉そうなことを言ったり書いたりしている音楽評論家が「魔笛」にお熱を上げていないときは「この人は分かっていないのでアウト」といった具合(笑)。


というわけで、いささか我田引水気味だが、改めてバッハの音楽とモーツァルトの「魔笛」を両方こよなく愛好している方々はいったい世間にどのくらいおられるんだろう?

自分が知っている範囲ですぐに思い浮かぶのは作家の五味康祐さん、そして前述した百田尚樹さんぐらいで、極めて少ない。

ここで、まことに畏れ多いがかのご高名な音楽評論家の「吉田秀和」さん(故人)を引き合いに出してみよう。実は以前から疑問に思っていたことがある。

はたして吉田秀和さんはモーツァルトの評論に関して「ホンモノ」だったのだろうか。どうもいろんな著作を拝見しても巧妙に「魔笛」の論評を避けておられるように思えて仕方がなかったからである。

そこで、念のためこの20日(日)にわざわざ県立図書館まで調べに行ってみた。いくらブログとはいえ、不特定多数の目に触れるのであまり無責任なことは書けない。まあ、性格的に結構“しつこいタチ”なのも影響している(笑)。

書庫にズラリと並んだ「吉田秀和全集」を1冊づつ手に取って目次を確認していったところ、第5巻にようやく「魔笛」の項目があった。

                        

さっそく借りてきて該当の387~396頁を熟読した。要約してみると、

「レコードでオペラの全曲をきき通すのは楽ではない。だから私はこれまでそういう仕事をやったことがなかった。ところが必要があって、三組の魔笛のレコードをきく羽目になった。その聴後感を書くことにする。」

から始まって、ショルティ指揮、ズイトナー指揮、ベーム指揮の「魔笛」について詳しい解説が為されている。いずれも手元にある盤なのでそれぞれの演奏内容は熟知しているが、さすがに当方が気が付かないことを指摘されていた。

たとえばショルティの「ことさらに白黒をはっきりつけたがり、大見得を切るクセがある」、ズイトナーの「ドイツの伝統を踏まえた緻密な演奏スタイル」、ベームの「ひたすら楽譜に忠実になるあまりの味気なさ」など、成る程と思えることばかり。

そして肝心の「魔笛」についての論評は次のとおり。

「何たる音楽だろう!!この音楽をきいて胸を打たれない人は音楽を必要としない人だ。こんなに美しくて、 しかも冷たい水が歯にしみるように胸にしみてくる音楽はほかにない。~中略~。すべての一つ一つが何の作為もなしに透明な矢のように私たちの胸に真っすぐに走ってくる。

この音楽は私にはほとんど涙なしにはきき終えられないものだが、さてその涙は悲しみから生まれたのか、それとも喜びからのものかときかれてもわかったためしがない。こういう芸術が、こういう世界があるのを知るのが、私にとってうれしいからか、それがあるからこそ悲しいのか。とにかく魔笛の浄らかな響き、金色に映える歌のかずかずの美しさというものは、数あるモーツァルトの傑作の中でも、また無類のものである。」

脱帽です!吉田秀和さん、素養を疑ってたいへん申し訳ありませんでした(笑)。

それにしても、こうやって書き写してみて分かったのだが、吉田さんはあえて漢字をできるだけ使わないように配慮してあることが分かった。たとえば音楽・オーディオ関係の記述には欠かせない「聴く」は「きく」、「胸に沁みる」は「しみる」といった具合。音楽評論には柔らかい雰囲気が必要とのことからだろうと思料する。

自分もこれから「聴く」は「きく」にしようかなあ(笑)。

さて、標題からずいぶんハズレてしまったので戻ろう。

バロック全集の“ながらきき”が済んだので、現在は「ドビュッシー・ラヴェル」(ジョン・マルチノン指揮)全集の8枚組に挑戦中。このブログをかき終えた時点で早くも2枚完了で~す(笑)。

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