人間は社会的な生き物なのでそれぞれが役割分担して協調していかないと生きてはいけない・・、その辺が人間と他の動物の違いだそう。
そこでの話だが、人間が相手に対して自分の意思を反映させようとしたらどういう方法があるんだろう。
思いつくのはまず「しゃべる」、そして「表情と身振り」、さらには「書く」ぐらいかな。
通常「表情と身振り」は「しゃべる」と併用されるケースが多いので結局「しゃべる」と「書く」の二つに大きく収斂されるといっても間違いでは無かろう。
どちらも大切だが日常生活や仕事においては「しゃべる」方が圧倒的に優位で、「書く」は比較的必要とされないのは周知のとおり。
「女性は耳で恋をする、男性は目で恋をする」と、何かの本に書いてあったが、「女性は口説き文句に弱い、男性は見た目の美しさに弱い」という意味だそうで、やっぱり「しゃべる=口説く」のがうまい男性は「もて方」も違うような気がする。
たとえば、司馬遼太郎さんの著作「街道をゆく」によると、江戸幕府を開いた徳川家のルーツをたどると岡崎で「遊行僧」だった「徳阿弥」が庄屋の一人娘とねんごろになって婿養子に入ったことだという。
「遊行僧」といえば聞こえはいいが、まあ「風来坊」みたいなもので「おそらく口説くのがうまかったのだろう」と書いてある。
日本史における極めて重要な家系も元を辿れば「口説くのがうまかった」に行き着くというのが面白い(笑)。
したがって長~い人間の進化の過程では「しゃべる」能力の優勢な遺伝子の数が増えるのは自明の理だから、総体的にみて全人口の中で該当する比率が増しているのは疑いないところかな。
ただし、これまでの人生を振り返ってみると「しゃべる能力」と「書く能力」の両方に長けた人に出会うことはめったになかったような記憶がある。
つまり「しゃべる」のが巧い人は、「書く」のが苦手で、逆に「書く」のが巧い人は「しゃべる」のが下手といった具合。もちろん、両方とも冴えない人もいることはいるが・・(笑)。
具体的な例を挙げると、ずっと以前のこと、作家の「城山三郎」さん(故人)の講演を実際に拝聴したことがあるが、小さな抑揚のないボソボソといった話し方で、内容の方もさっぱり記憶に残らなかった。
これほどの大作家でもこの程度の「しゃべり」かと、驚いたと同時に「天は二物を与えない」ものだと、妙に安心感を覚えたことを記憶している。
エッ、安心感って・・?
実は、かくいう自分も「書く」のはあまり苦にならないが「しゃべり」は苦手なタイプであり、ましてや口説く能力となると皆無である(笑)。
いずれにしても、来し方「しゃべり」のうまい人が「うらやましくて」仕方がなかったが、こうして今のような身分になってみると「しゃべり」の機会はほとんど家族内に限られてきており、「書く」ことの比重の方が圧倒的に増してきている。
たとえば始めてからおよそ20年になろうかというブログ。
「文章が巧い」なんて誰からも言われたこともないが(笑)、「書く」ことが苦にならないことはたしかである。
極めてマイナーともいえる「音楽&オーディオ」分野のブログでも20年も続くとかなりの読者がアクセスしてくれるし、興味を持って読んでもらえるのであれば、ささやかながらも社会に役立っているかもしれず、日常生活に張りを与えてくれるのはとてもありがたいこと。
そういうわけで、晩年になると「しゃべる能力」よりも「書く能力」の方がむしろ「得」かもしれないなんて、勝手に思い直している次第。
したがって、タイトルに対する答えとなると「幼少から壮年時代は喋る能力」が大切だし、「老年時代は書く能力」が大切だというのが自分なりの答え。
とはいえ、これも基本的には「ネット時代の到来」のおかげだろう。
誰もが簡単に情報発信できるのだから「書く人間」にとってはまったく夢のような時代がやって来たものだ。
最後に、文中に登場した城山三郎さんのことだが、著書「落日燃ゆ」(福岡出身の宰相「広田弘毅」の生涯を描いた作品)は当時の愛読書だったので、一緒になったエレベーターの中でちゃっかりご本人からサインをもらったのは職業的な余得としていまだにしっかり記憶に残っている(笑)。
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