「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

村上春樹さんの「バイロイト日記」を読む

2019年09月26日 | 音楽談義

いつも新聞のセンセーショナルな見出し広告に釣られて読むものの、期待を裏切られてもう買わないぞと誓うのだが、ほとぼりが冷めるとつい手が出てしまう月刊誌「文藝春秋」。

   

ただし、今回の10月号はそれなりの意義があった。なぜなら作家の村上春樹さんが特別寄稿されていたからで、そのタイトルは次のとおり。

バイロイト日記「至るところにある妄想」~この夏、ドイツでワーグナーと向き合って考えたこと~

ワーグナーにはモーツァルトほどの興味はないが、それかといって絶対に無視できない存在だし、何せ村上さんの文章なのでこれは買わざるを得ない(笑)。

ワクワクしながら70頁ほどを一気に読ませていただいたが、期待に違わぬ内容だった。

おそらく生涯のうちにもはや行くこともないであろう「バイロイト音楽祭」の雰囲気にチョッピリ浸れた気分になっただけでもとてもありがたい。

読まれた方も多いと思うが、自分のために概要(抜粋)を記録しておくとしよう。

村上氏のご訪問時期は2019年7月下旬の暑い盛りのことで日記風に綴られている。

 ドイツの新聞社の依頼により、「実際にワーグナーのオペラを観劇して原稿を書いてくれ」という依頼がこの春に飛び込んできた。スケジュールの都合により一度は断ったものの、指揮者が「ティーレマン」と聞いて段々と心変わりしてしまった。

 劇場に着いてみると全体に漂っているのは間違いなくコンサヴァティブな雰囲気である。要するに見るからに裕福そうな身なりのドイツ人たちが国中からこの南ドイツの標高500mほどの山あいにある小都市に参集してくるわけだ。

おおかたは中高年ばかりで若い人たちには切符も高いし、敷居も高いのだろう。劇場には冷房装置が付いておらず(なにしろ基本的に140年前に建てられたままだから)扇子でもないとたまらない。

 劇場の客席は2000ほどだがぎっしり満員で、すし詰め状態。何しろ席が狭くて一度腰を下ろしたらもう外には出られない。

 大きな蓋を上から被せられたようなかっこうで客席からは見えなくなっているオーケストラ・ピット。その音がいったん板張りの壁にぶつかって跳ね返り、客席に響き戻ってくる。

 まるで地の底から音がわき上がってくるような、特別な響きがそこに生まれる。その音響を地上で受け止め、混然一体として混じり込む強力な歌唱と合唱。

 その混じり合いが、現実の世界とは成り立ちの異なるもう一つの新たな空間を、我々の眼前に鮮やかに浮かび上がらせる~世界の呪術的移動。

 個々の歌手の歌唱ももちろん素晴らしいのだが、聴衆の心にもっとも強く迫ってくるのは、何といってもこの得も言われぬ一体感だろう。

 音楽とドラマを対等に組み合わせようとしたワーグナーの世界観が、そこには見事に具現されている。

 あたかも音楽が意識下の世界にあり、ドラマが意識上の世界にあるかのように僕には感じられる。あるいはそう聴きとれる。そう、それこそがバイロイトの響きであり、バイロイトの音楽なのだ。

 僕は思うのだが、優れた芸術とは多くの奥深い疑問を我々に突き付けるテキストのことだ。そしてたいていの場合、そこには解答は用意されていない。解答は我々一人ひとりが自分の力で見つけていくしかない。

 おまけにそのテキストは~もしそれが優れたテキストであればだが~休みなく動き続け、形を変え続ける。そこには無限の可能性がある。時には間違った解答も出てくることもあるかもしれない。そこにはそんな危険性もある、しかし可能性とは危険性の同義語でもあるのだ。

 僕はそのような多くの奥深い疑問と、いくつかの僕なりの解答と、そして深く純粋な音楽的感動を手に、バイロイト駅からミュンヘン空港へ向かった。そしてまた日本へと。

以上のとおりだが、興味のある方はぜひ全文を読まれることをお薦めします。いつもの「村上ワールド」を堪能できますよ。

最後に、読後の取り留めのない感想を3点ほど挙げておくと、

 ドイツにはクラシック音楽が広く深く根付いている。それが民族の矜持となり一つの思想的な潮流となって、いろんな施策やモノづくりの根底にある哲学や姿勢に色濃く反映されている気がする。ちなみに今回のバイロイト音楽祭もメルケル首相が出席していたそうだ。

翻って日本にはそういうバックボーンがあるのだろうか。

    

(ローマ教皇に「フルトヴェングラー全集」を進呈するメルケル首相)

 バイロイト音楽祭に比べたら、ワーグナーの楽劇の再生を家庭のオーディオ・システムでいかに図ろうと、所詮は「五十歩百歩」ですかね(笑)。

 音楽とドラマで成り立つオペラだが、モーツァルトは音楽こそが主導権を握ってドラマを引っ張っていくべきだと主張している。その一方、ワーグナーの楽劇では両者を対等の世界として構築している。

いったいどちらがより「人の心」を打つのかと考えた時に、モーツァルト・ファンとワーグナー・ファンの分岐点がそこにあるような気がする。

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