仲間から借りていた「管球王国」(No76:2015 SPRING)を読んでいたら次のような記事があった。
141頁に「オーディオは生まれたときが完成形で、それ以降は経済性を上げるための技術だ」。オーディオという言葉をを真空管に置き換えれば合点がいく。こう述べているのは真空管の泰山北斗として有名な「新(あたらし)」氏である。
ついては、前々回のブログ「寒い国からやってきた古典管」の中でこういう記事を書かせてもらった。
「なぜ真空管の初期版がいいかというと、開発者の情熱が集約されていることはもちろんだが、デモンストレーション用の使命として、関係機関にアピールする必要があるので材料などを厳選して製作するものの、いったん採用されると、後は材料などや製作過程を省略してコストダウンし開発費用を回収するのだそうだ。」
「一介の市井の徒」の発言とは違って、なにしろ「新」氏の言だから説得力に大きな違いがある(笑)。初期の真空管をこよなく愛する者にとって百万の味方を得た思いがしている。
それにしても本書の内容を見ると、いかにも近代管が古典管と伍して立派な音を出せるかのように書かれているので驚く。こう言っては何だが、いろんなことが商売として成り立つように仕組まれていることが推し量られるのである。
そもそも、今どき質のいい真空管を作るというのはとても無理な相談なのである。
たとえばガラス管の内側に飛んでいるゲッターは、管内に残留する酸素、窒素、二酸化炭素、一酸化炭素、水素などを吸着する大切な役目を担っているが、このゲッターというのが大変な曲者で今や適した材料が手に入らないとのことで、製造過程での最後のネックになっているとのこと。
自分も恥ずかしながら近代管をいろいろ利用してきたが、古典管に比べるといずれも音の重心がやや腰高だったし、3年以内のうち2本に1本の割合で故障するという憂き目にあってきた。
そういうことをきちんと分かったうえで近代管を利用するならいいのだが、まるで古典管以上に性能がいいみたいな書き方をしているのを見ると、これは「罪つくりだなあ」と思うのである。
しかし、オーディオは聴感上、気分が占める割合も無視できない。「イワシの頭も信心から」「あばたもえくぼ」で、「近代管は素晴らしい音がする」と思い込めば、それはそれでいいのかもしれない。
ま、これも要らん世話か!(笑)