伊藤ファミリーBLOG

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【COGHCC聖書通読】 2020/09/22

2020-09-22 23:59:59 | 一日一章・聖書通読日記
ヨブ記 31:1-12

「わたしは、わたしの目と契約を結んだ、どうして、おとめを慕うことができようか。 もしそうすれば上から神の下される分はどんなであろうか。高き所から全能者の与えられる嗣業はどんなであろうか。 不義なる者には災が下らないであろうか。悪をなす者には災難が臨まないであろうか。 彼はわたしの道をみそなわし、わたしの歩みをことごとく数えられぬであろうか。 もし、わたしがうそと共に歩み、わたしの足が偽りにむかって急いだことがあるなら、 (正しいはかりをもってわたしを量れ、そうすれば神はわたしの潔白を知られるであろう。) もしわたしの歩みが、道をはなれ、わたしの心がわたしの目にしたがって歩み、わたしの手に汚れがついていたなら、 わたしのまいたのを他の人が食べ、わたしのために成長するものが、抜き取られてもかまわない。 もし、わたしの心が、女に迷ったことがあるか、またわたしが隣り人の門で待ち伏せしたことがあるなら、 わたしの妻が他の人のためにうすをひき、他の人が彼女の上に寝てもかまわない。 これは重い罪であって、さばきびとに罰せられるべき悪事だからである。 これは滅びに至るまでも焼きつくす火であって、わたしのすべての産業を根こそぎ焼くであろう。」

ヨブは自分の正しさを立証するために、これまでどのように地上の生涯を歩んできたか、自らの人生を振り返り、身の潔白を主張しました。最初に語ったことは女性関係です。若い乙女を見ても欲情せず、偽証したり他人の所有を盗んだりしたこともなく、まして自分の妻以外の女性との不倫など心にも思ったことがないと語り、もしそのような事実があったとしたならば、自分の収穫が他人の所有となり自分の妻が他人に寝取られても構わないと誓いました。ヨブは確かに罪を犯しませんでしたが、自分の義を立証するために自らの行いを誇り、必要のない誓約を立てた点は行き過ぎています。過ぎたるは及ばざるが如しとの諺のように、度を超えた自己主張は避けるべきです。

https://www.bible.com/bible/81/job.31.1-12.ja1955

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ヨブ記 31:13-23

「わたしのしもべ、また、はしためがわたしと言い争ったときに、わたしがもしその言い分を退けたことがあるなら、 神が立ち上がられるとき、わたしはどうしようか、神が尋ねられるとき、なんとお答えしようか。 わたしを胎内に造られた者は、彼をも造られたのではないか。われわれを腹の内に形造られた者は、ただひとりではないか。 わたしがもし貧しい者の願いを退け、やもめの目を衰えさせ、 あるいはわたしひとりで食物を食べて、みなしごに食べさせなかったことがあるなら、 (わたしは彼の幼い時から父のように彼を育て、またその母の胎を出たときから彼を導いた。) もし着物がないために死のうとする者や、身をおおう物のない貧しい人をわたしが見た時に、 その腰がわたしを祝福せず、また彼がわたしの羊の毛で暖まらなかったことがあるなら、 もしわたしを助ける者が門におるのを見て、みなしごにむかってわたしの手を振り上げたことがあるなら、 わたしの肩骨が、肩から落ち、わたしの腕が、つけ根から折れてもかまわない。 わたしは神から出る災を恐れる、その威光の前には何事もなすことはできない。」

次いでヨブは、自分の奴隷たちの訴えを退けたことがなく、貧しい人々に施しを為し、社会的弱者を虐げたことがあったかと、自らの善行を誇りました。確かに慈善事業に励むことはよいことですが、それを自分の正しさとして自己主張するならば、神の目には尊い行いとして見られるでしょうか。右手の行っていること(善行)を左の手に知らせてはならないとの御言葉の如く、良い業は人目に付かないところで行うことが義人の美徳であり、自らの行いを人の前で誇ることよりも、隠れた行いを見ておられる神の目に喜ばれることの方が最も大切なことです。

https://www.bible.com/bible/81/job.31.13-23.ja1955

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ヨブ記 31:24-40

「わたしがもし金をわが望みとし、精金をわが頼みと言ったことがあるなら、 わたしがもしわが富の大いなる事と、わたしの手に多くの物を獲た事とを喜んだことがあるなら、 わたしがもし日の輝くのを見、または月の照りわたって動くのを見た時、 心ひそかに迷って、手に口づけしたことがあるなら、 これもまたさばきびとに罰せらるべき悪事だ。わたしは上なる神を欺いたからである。 わたしがもしわたしを憎む者の滅びるのを喜び、または災が彼に臨んだとき、勝ち誇ったことがあるなら、 (わたしはわが口に罪を犯させず、のろいをもって彼の命を求めたことはなかった。) もし、わたしの天幕の人々で、『だれか彼の肉に飽きなかった者があるか』と、言わなかったことがあるなら、 (他国人はちまたに宿らず、わたしはわが門を旅びとに開いた。) わたしがもし人々の前にわたしのとがをおおい、わたしの悪事を胸の中に隠したことがあるなら、 わたしが大衆を恐れ、宗族の侮りにおじて、口を閉じ、門を出なかったことがあるなら、 ああ、わたしに聞いてくれる者があればよいのだが、(わたしのかきはんがここにある。どうか、全能者がわたしに答えられるように。)ああ、わたしの敵の書いた告訴状があればよいのだが。 わたしは必ずこれを肩に負い、冠のようにこれをわが身に結び、 わが歩みの数を彼に述べ、君たる者のようにして、彼に近づくであろう。 もしわが田畑がわたしに向かって呼ばわり、そのうねみぞが共に泣き叫んだことがあるなら、 もしわたしが金を払わないでその産物を食べ、その持ち主を死なせたことがあるなら、 小麦の代りに、いばらがはえ、大麦の代りに雑草がはえてもかまわない」。ヨブの言葉は終った。

ヨブは自分の頼みとするものについても身の潔白を主張します。自分の金すなわち財産を頼みとしたこともなく、太陽や月すなわちエジプトが最高神とあがめる太陽神やアラブ地方一帯で信奉されている月の神を拝んだこともないと、まことの神だけに仕えてきたと信仰告白しました。更にヨブは、自分に敵対する者の不幸を喜ばず、尋ねてくる者をもてなさなかったこともないと、対人関係についても己の正しさを主張しました。ここまで徹底して義を行ってきた人を、誰が非難し得ましょうか。しかしヨブは、自分の正しさを主張するあまり、神の御前に遜ることを忘れてしまったようです。行いにおいて非の打ち所のない人の犯してしまいやすい過ちは、自らを誇り心に高ぶる高慢の罪です。

https://www.bible.com/bible/81/job.31.24-40.ja1955
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【今日の聖句】 2020/09/22

2020-09-22 06:36:36 | 今日の聖句
マルコによる福音書 11:24 新共同訳

「だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。」

神は義人の祈りを聞き届けてくださるのですから、私たちが祈った時点でもはや叶えてくださったものと同然です。わたしの名によって何でも父なる神に祈り求めなさいと教えてくださった主イエスの御約束に信頼し、祈りは既に答えられたと確信して神の時を待ち望む私たちでありますように。

https://www.bible.com/bible/1819/mrk.11.24.新共同訳
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