ヨブ記 29:1-13
ヨブはまた言葉をついで言った、 「ああ過ぎた年月のようであったらよいのだが、神がわたしを守ってくださった日のようであったらよいのだが。 あの時には、彼のともしびがわたしの頭の上に輝き、彼の光によってわたしは暗やみを歩んだ。 わたしの盛んな時のようであったならよいのだが。あの時には、神の親しみがわたしの天幕の上にあった。 あの時には、全能者がなおわたしと共にいまし、わたしの子供たちもわたしの周囲にいた。 あの時、わたしの足跡は乳で洗われ、岩もわたしのために油の流れを注ぎだした。 あの時には、わたしは町の門に出て行き、わたしの座を広場に設けた。 若い者はわたしを見てしりぞき、老いた者は身をおこして立ち、 君たる者も物言うことをやめて、その口に手を当て、 尊い者も声をおさめて、その舌を上あごにつけた。 耳に聞いた者はわたしを祝福された者となし、目に見た者はこれをあかしした。 これは助けを求める貧しい者を救い、また、みなしごおよび助ける人のない者を救ったからである。 今にも滅びようとした者の祝福がわたしに来た。わたしはまたやもめの心をして喜び歌わせた。」
ヨブは過去を振り返り、神と共に歩んだ日々を回顧します。このときヨブは過去の栄光にすがりついたり誇るために昔話を思い起こしたのではなく、いかに自分が神の御前に正しく歩み、神に用いられていたか、弱い者を助け、人々から称賛を受けていたか、今は友人たちに犯してもいない罪の嫌疑を着せられている現状がいかに不当なことか、自らの正しさを証するために過去を振り返ったのです。私たちが自分の歩んできた道を振り返るとき、神の御前に正々堂々と立つことができるでしょうか。
https://www.bible.com/bible/81/job.29.1-13.ja1955
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ヨブ記 29:14-25
「わたしは正義を着、正義はわたしをおおった。わたしの公義は上着のごとく、また冠のようであった。 わたしは目しいの目となり、足なえの足となり、 貧しい者の父となり、知らない人の訴えの理由を調べてやった。 わたしはまた悪しき者のきばを折り、その歯の間から獲物を引き出した。 その時、わたしは言った、『わたしは自分の巣の中で死に、わたしの日は砂のように多くなるであろう。 わたしの根は水のほとりにはびこり、露は夜もすがらわたしの枝におくであろう。 わたしの栄えはわたしと共に新しく、わたしの弓はわたしの手にいつも強い』と。 人々はわたしに聞いて待ち、黙して、わたしの教に従った。 わたしが言った後は彼らは再び言わなかった。わたしの言葉は彼らの上に雨のように降りそそいだ。 彼らは雨を待つように、わたしを待ち望み、春の雨を仰ぐように口を開いて仰いだ。 彼らが希望を失った時にも、わたしは彼らにむかってほほえんだ。彼らはわたしの顔の光を除くことができなかった。 わたしは彼らのために道を選び、そのかしらとして座し、軍中の王のようにしており、嘆く者を慰める人のようであった。」
ヨブの人生は正義を身にまとったような神と人との前に正しい歩みをしていました。人のために尽くし、希望を見失った人に憐れみ深く接し、その言葉には説得力があり、誰一人として異論を唱えることのできないような、完璧な生き様でした。たといヨブの友人たちが罪を探し出そうとしても、何ら咎められることのない、そのような人がこの世に存在するのだろうかと思えるような模範的な日々を送っていました。だからこそヨブは自らの身の潔白を訴え続けてきたのです。しかし私たちは、自身の正しさを主張することはできても、自らの行いによって神に義と認められるものではありません。大切なことは、神の目にどのように映っているか、神が私たちをどのように評価してくださるかなのです。
https://www.bible.com/bible/81/job.29.14-25.ja1955
ヨブはまた言葉をついで言った、 「ああ過ぎた年月のようであったらよいのだが、神がわたしを守ってくださった日のようであったらよいのだが。 あの時には、彼のともしびがわたしの頭の上に輝き、彼の光によってわたしは暗やみを歩んだ。 わたしの盛んな時のようであったならよいのだが。あの時には、神の親しみがわたしの天幕の上にあった。 あの時には、全能者がなおわたしと共にいまし、わたしの子供たちもわたしの周囲にいた。 あの時、わたしの足跡は乳で洗われ、岩もわたしのために油の流れを注ぎだした。 あの時には、わたしは町の門に出て行き、わたしの座を広場に設けた。 若い者はわたしを見てしりぞき、老いた者は身をおこして立ち、 君たる者も物言うことをやめて、その口に手を当て、 尊い者も声をおさめて、その舌を上あごにつけた。 耳に聞いた者はわたしを祝福された者となし、目に見た者はこれをあかしした。 これは助けを求める貧しい者を救い、また、みなしごおよび助ける人のない者を救ったからである。 今にも滅びようとした者の祝福がわたしに来た。わたしはまたやもめの心をして喜び歌わせた。」
ヨブは過去を振り返り、神と共に歩んだ日々を回顧します。このときヨブは過去の栄光にすがりついたり誇るために昔話を思い起こしたのではなく、いかに自分が神の御前に正しく歩み、神に用いられていたか、弱い者を助け、人々から称賛を受けていたか、今は友人たちに犯してもいない罪の嫌疑を着せられている現状がいかに不当なことか、自らの正しさを証するために過去を振り返ったのです。私たちが自分の歩んできた道を振り返るとき、神の御前に正々堂々と立つことができるでしょうか。
https://www.bible.com/bible/81/job.29.1-13.ja1955
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ヨブ記 29:14-25
「わたしは正義を着、正義はわたしをおおった。わたしの公義は上着のごとく、また冠のようであった。 わたしは目しいの目となり、足なえの足となり、 貧しい者の父となり、知らない人の訴えの理由を調べてやった。 わたしはまた悪しき者のきばを折り、その歯の間から獲物を引き出した。 その時、わたしは言った、『わたしは自分の巣の中で死に、わたしの日は砂のように多くなるであろう。 わたしの根は水のほとりにはびこり、露は夜もすがらわたしの枝におくであろう。 わたしの栄えはわたしと共に新しく、わたしの弓はわたしの手にいつも強い』と。 人々はわたしに聞いて待ち、黙して、わたしの教に従った。 わたしが言った後は彼らは再び言わなかった。わたしの言葉は彼らの上に雨のように降りそそいだ。 彼らは雨を待つように、わたしを待ち望み、春の雨を仰ぐように口を開いて仰いだ。 彼らが希望を失った時にも、わたしは彼らにむかってほほえんだ。彼らはわたしの顔の光を除くことができなかった。 わたしは彼らのために道を選び、そのかしらとして座し、軍中の王のようにしており、嘆く者を慰める人のようであった。」
ヨブの人生は正義を身にまとったような神と人との前に正しい歩みをしていました。人のために尽くし、希望を見失った人に憐れみ深く接し、その言葉には説得力があり、誰一人として異論を唱えることのできないような、完璧な生き様でした。たといヨブの友人たちが罪を探し出そうとしても、何ら咎められることのない、そのような人がこの世に存在するのだろうかと思えるような模範的な日々を送っていました。だからこそヨブは自らの身の潔白を訴え続けてきたのです。しかし私たちは、自身の正しさを主張することはできても、自らの行いによって神に義と認められるものではありません。大切なことは、神の目にどのように映っているか、神が私たちをどのように評価してくださるかなのです。
https://www.bible.com/bible/81/job.29.14-25.ja1955