伊藤ファミリーBLOG

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【COGHCC聖書通読】 2020/09/12

2020-09-12 07:30:30 | 一日一章・聖書通読日記
ヨブ記 21:1-6

そこでヨブは答えて言った、 「あなたがたはとくと、わたしの言葉を聞き、これをもって、あなたがたの慰めとするがよい。 まずわたしをゆるして語らせなさい。わたしが語ったのち、あざけるのもよかろう。 わたしのつぶやきは人に対してであろうか。わたしはどうして、いらだたないでいられようか。 あなたがたはわたしを見て、驚き、手を口にあてるがよい。 わたしはこれを思うと恐ろしくなって、からだがしきりに震えわななく。」

ゾパルの痛烈な批判の言葉を浴びせかけられたヨブは、苦難の中にある自分に対して、どうしてそんな辛辣な言葉を投げかけるのかと嘆きます。3人の友人たちはヨブを慰めようとして訪れたはずなのに、苦難の原因が罪にあるはずだという固定観念にとらわれて、ヨブのあら探しを始めてしまったのです。これは本来の目的を完全に見失っています。ヨブが友人たちに期待したのは苦難の原因探しではなく、自分の苦しみに寄り添い、話を聞いてくれることでした。いわゆる傾聴というカウンセリングです。悲しむ者と共に悲しみ、苦しむ者の心に寄り添うことが、試練の中にある人に対して私たちに求められていることです。

https://www.bible.com/bible/81/job.21.1-6.ja1955

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ヨブ記 21:7-18

「なにゆえ悪しき人が生きながらえ、老齢に達し、かつ力強くなるのか。 その子らは彼らの前に堅く立ち、その子孫もその目の前に堅く立つ。 その家は安らかで、恐れがなく、神のつえは彼らの上に臨むことがない。 その雄牛は種を与えて、誤ることなく、その雌牛は子を産んで、そこなうことがない。 彼らはその小さい者どもを群れのように連れ出し、その子らは舞い踊る。 彼らは手鼓と琴に合わせて歌い、笛の音によって楽しみ、 その日をさいわいに過ごし、安らかに陰府にくだる。 彼らは神に言う、『われわれを離れよ、われわれはあなたの道を知ることを好まない。 全能者は何者なので、われわれはこれに仕えねばならないのか。われわれはこれに祈っても、なんの益があるか』と。 見よ、彼らの繁栄は彼らの手にあるではないか。悪人の計りごとは、わたしの遠く及ぶ所でない。 悪人のともしびの消されること、幾たびあるか。その災の彼らの上に臨むこと、神がその怒りをもって苦しみを与えられること、幾たびあるか。 彼らが風の前のわらのようになること、あらしに吹き去られるもみがらのようになること、幾たびあるか。」

ヨブの主張は一貫して、どうして正しい者が苦難に遇うのか?ということです。しかし3人の友人たちが、因果応報の考え方に固執するあまり、ヨブを罪ありと断定して責め立てたため、ヨブは、それではどうして悪人たちが繁栄するのかと反論します。これは古今東西を問わず、現代に生きている私たちも経験するこの世の不条理、因果応報の考え方では説明のつかない矛盾です。彼らは悪事の限りを尽くしてこの世の繁栄を謳歌し、正しい者を虐げ、搾取し、欲望の赴くままにやりたい放題、それでも裁かれることなく一生を終えるなら、神はどこにいるのか?と問いかけたくなるのが人情です。この世の生涯だけに目を留めるならば、その疑問に対して納得できる回答はありません。しかし私たちには永遠のいのちの希望があります。この世の肉体を滅ぼすだけでなく、魂さえも滅ぼす権威をお持ちであられる神を信じる者には、その答えは見えています。

https://www.bible.com/bible/81/job.21.7-18.ja1955

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ヨブ記 21:19-26

「あなたがたは言う、『神は彼らの罪を積みたくわえて、その子らに報いられるのだ』と。どうかそれを彼ら自身に報いて、彼らにその罪を知らせられるように。 すなわち彼ら自身の目にその滅びを見させ、全能者の怒りを彼らに飲ませられるように。 その月の数のつきるとき、彼らはその後の家になんのかかわる所があろうか。 神は天にある者たちをさえ、さばかれるのに、だれが神に知識を教えることができようか。 ある者は繁栄をきわめ、全く安らかに、かつおだやかに死に、 そのからだには脂肪が満ち、その骨の髄は潤っている。 ある者は心を苦しめて死に、なんの幸をも味わうことがない。 彼らはひとしくちりに伏し、うじにおおわれる。」

悪しき者がどうして繁栄し、その罪に応じて裁かれずにいるのか?というヨブの問いかけに対して、因果応報の考え方に固執する者は、その子孫が罰を受けると反論します。しかし、罪を犯した本人がその行いに応じて罰を受けるのが神の義の基準です。何の罪も犯していないのにその子が親の罪の代償を払わねばならないのなら、どこに神の義があるでしょうか。ヨブは、罪を犯した本人が代償を払うべきだと訴えます。そして、因果応報の考え方を神に教えようのするのかと、友人たちを非難します。これこそ本末転倒で、知恵は神から賜るもの、義の基準も神から教えられるべきものです。

https://www.bible.com/bible/81/job.21.19-26.ja1955

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ヨブ記 21:27-34

「見よ、わたしはあなたがたの思いを知り、わたしを害しようとするたくらみを知る。 あなたがたは言う、『王侯の家はどこにあるか、悪人の住む天幕はどこにあるか』と。 あなたがたは道行く人々に問わなかったか、彼らの証言を受け入れないのか。 すなわち、災の日に悪人は免れ、激しい怒りの日に彼は救い出される。 だれが彼に向かって、その道を告げ知らせる者があるか、だれが彼のした事を彼に報いる者があるか。 彼はかかれて墓に行き、塚の上で見張りされ、 谷の土くれも彼には快く、すべての人はそのあとに従う。彼の前に行った者も数えきれない。 それで、あなたがたはどうしてむなしい事をもって、わたしを慰めようとするのか。あなたがたの答は偽り以外の何ものでもない」。

人が苦しみに遭うのは罪を犯したからだと言ってヨブを批判した3人の友人たちに対し、悪人が繁栄を謳歌するこの世の不条理を突きつけたヨブは、あなたがたこそ偽り者だと反論します。因果応報の考え方では、到底説明のできないものだからです。この世の出来事すべてを人の考え方で正しく理解することは、到底できないものです。人には限界があることを素直に認め、全知全能なるお方、無限の神に真理を求め続ける私たちでありますように。

https://www.bible.com/bible/81/job.21.27-34.ja1955
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【今日の聖句】 2020/09/12

2020-09-12 06:10:50 | 今日の聖句
コリントの信徒への手紙一 10:31 新共同訳‬‬

だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。

キリストの十字架によって罪購われ神の子とされた私たちのいのちは、既に神のものとなっているのです。わが身わがものと思わず、何事をするに付けても神の栄光を現すために自らのいのちを用い、世の人々に神の民たるに相応しい立派な証を立てる私たちでありますように。

https://www.bible.com/bible/1819/1co.10.31.新共同訳
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