ヨブ記 10:1-7
「わたしは自分の命をいとう。わたしは自分の嘆きを包まず言いあらわし、わが魂の苦しみによって語ろう。 わたしは神に申そう、わたしを罪ある者とされないように。なぜわたしと争われるかを知らせてほしい。 あなたはしえたげをなし、み手のわざを捨て、悪人の計画を照すことを良しとされるのか。 あなたの持っておられるのは肉の目か、あなたは人が見るように見られるのか。 あなたの日は人の日のごとく、あなたの年は人の年のようであるのか。 あなたはなにゆえわたしのとがを尋ね、わたしの罪を調べられるのか。 あなたはわたしの罪のないことを知っておられる。またあなたの手から救い出しうる者はない。」
ヨブは自分のいのちあることを呪うことを罪ありとしないでくださいと弁明した上で、どうして神様が私に罪がないことを知っておられながら、罪ある者であるかのように扱われるのですかと問いかけています。エリパズやビルダデは人間だから、ヨブに罪があるかないか見誤ることはあったとしても、どうして神様が間違った判断をされるのですか?と問いかけているのです。私たちも時折、試練の意味が分からなくて神様に訴えかけることがあります。そのとき神に向かって罪を犯すことがないよう、言葉に注意する必要があります。
https://www.bible.com/bible/81/job.10.1-7.ja1955
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ヨブ記 10:8-13
「あなたの手はわたしをかたどり、わたしを作った。ところが今あなたはかえって、わたしを滅ぼされる。 どうぞ覚えてください、あなたは土くれをもってわたしを作られた事を。ところが、わたしをちりに返そうとされるのか。 あなたはわたしを乳のように注ぎ、乾酪のように凝り固まらせたではないか。 あなたは肉と皮とをわたしに着せ、骨と筋とをもってわたしを編み、 命といつくしみとをわたしに授け、わたしを顧みてわが霊を守られた。 しかしあなたはこれらの事をみ心に秘めおかれた。この事があなたの心のうちにあった事をわたしは知っている。」
ヨブはいのちの誕生は神の御業であることを比喩的に描写して、神がせっかく与え給うたいのちを、なぜ奪い取ろうとするのですか?と問いかけています。この疑問は突然の苦難に遭ったヨブの素直な心情を物語っています。果たして人間の一生とは無駄なものなのでしょうか? 否、そんなことはありません。神は私たち一人一人を顧みていてくださっています。人生の悲哀を経験するときも、永遠に変わることのない神の揺るぎない愛を確信することができるかどうか、私たちの信仰が試されます。
https://www.bible.com/bible/81/job.10.8-13.ja1955
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ヨブ記 10:14-22
「わたしがもし罪を犯せば、あなたはわたしに目をつけて、わたしを罪から解き放されない。 わたしがもし悪ければわたしはわざわいだ。たといわたしが正しくても、わたしは頭を上げることができない。わたしは恥に満ち、悩みを見ているからだ。 もし頭をあげれば、あなたは、ししのようにわたしを追い、わたしにむかって再びくすしき力をあらわされる。 あなたは証人を入れ替えてわたしを攻め、わたしにむかってあなたの怒りを増し、新たに軍勢を出してわたしを攻められる。 なにゆえあなたはわたしを胎から出されたか、わたしは息絶えて目に見られることなく、 胎から墓に運ばれて、初めからなかった者のようであったなら、よかったのに。 わたしの命の日はいくばくもないではないか。どうぞ、しばしわたしを離れて、少しく慰めを得させられるように。 わたしが行って、帰ることのないその前に、これを得させられるように。わたしは暗き地、暗黒の地へ行く。 これは暗き地で、やみにひとしく、暗黒で秩序なく、光もやみのようだ」。
もし自分に罪を犯したならば、神の裁きを受けるのは当然です。しかし何も罪を犯したこともないのに、どうして神は自分を責められるのだろうか、次々と自分を罪ありと責め立てる人を送られるとはどうしてなのでしょうかと、ヨブは嘆きます。それならばいっそ死んでしまった方がましだとヨブが考えたのも、致し方ありません。せめて生きている束の間の間に、暗黒の陰府に降る前に、魂の安息と慰めを得たいとヨブは訴えます。私たちの人生は悲しみの連続ですが、そのまま陰府に落とされるならば、こんな虚しいことはありません。しかし私たちには主イエス・キリストにより天の御国に導き入れられる希望が約束されていますからさいわいです。
https://www.bible.com/bible/81/job.10.14-22.ja1955
「わたしは自分の命をいとう。わたしは自分の嘆きを包まず言いあらわし、わが魂の苦しみによって語ろう。 わたしは神に申そう、わたしを罪ある者とされないように。なぜわたしと争われるかを知らせてほしい。 あなたはしえたげをなし、み手のわざを捨て、悪人の計画を照すことを良しとされるのか。 あなたの持っておられるのは肉の目か、あなたは人が見るように見られるのか。 あなたの日は人の日のごとく、あなたの年は人の年のようであるのか。 あなたはなにゆえわたしのとがを尋ね、わたしの罪を調べられるのか。 あなたはわたしの罪のないことを知っておられる。またあなたの手から救い出しうる者はない。」
ヨブは自分のいのちあることを呪うことを罪ありとしないでくださいと弁明した上で、どうして神様が私に罪がないことを知っておられながら、罪ある者であるかのように扱われるのですかと問いかけています。エリパズやビルダデは人間だから、ヨブに罪があるかないか見誤ることはあったとしても、どうして神様が間違った判断をされるのですか?と問いかけているのです。私たちも時折、試練の意味が分からなくて神様に訴えかけることがあります。そのとき神に向かって罪を犯すことがないよう、言葉に注意する必要があります。
https://www.bible.com/bible/81/job.10.1-7.ja1955
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ヨブ記 10:8-13
「あなたの手はわたしをかたどり、わたしを作った。ところが今あなたはかえって、わたしを滅ぼされる。 どうぞ覚えてください、あなたは土くれをもってわたしを作られた事を。ところが、わたしをちりに返そうとされるのか。 あなたはわたしを乳のように注ぎ、乾酪のように凝り固まらせたではないか。 あなたは肉と皮とをわたしに着せ、骨と筋とをもってわたしを編み、 命といつくしみとをわたしに授け、わたしを顧みてわが霊を守られた。 しかしあなたはこれらの事をみ心に秘めおかれた。この事があなたの心のうちにあった事をわたしは知っている。」
ヨブはいのちの誕生は神の御業であることを比喩的に描写して、神がせっかく与え給うたいのちを、なぜ奪い取ろうとするのですか?と問いかけています。この疑問は突然の苦難に遭ったヨブの素直な心情を物語っています。果たして人間の一生とは無駄なものなのでしょうか? 否、そんなことはありません。神は私たち一人一人を顧みていてくださっています。人生の悲哀を経験するときも、永遠に変わることのない神の揺るぎない愛を確信することができるかどうか、私たちの信仰が試されます。
https://www.bible.com/bible/81/job.10.8-13.ja1955
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ヨブ記 10:14-22
「わたしがもし罪を犯せば、あなたはわたしに目をつけて、わたしを罪から解き放されない。 わたしがもし悪ければわたしはわざわいだ。たといわたしが正しくても、わたしは頭を上げることができない。わたしは恥に満ち、悩みを見ているからだ。 もし頭をあげれば、あなたは、ししのようにわたしを追い、わたしにむかって再びくすしき力をあらわされる。 あなたは証人を入れ替えてわたしを攻め、わたしにむかってあなたの怒りを増し、新たに軍勢を出してわたしを攻められる。 なにゆえあなたはわたしを胎から出されたか、わたしは息絶えて目に見られることなく、 胎から墓に運ばれて、初めからなかった者のようであったなら、よかったのに。 わたしの命の日はいくばくもないではないか。どうぞ、しばしわたしを離れて、少しく慰めを得させられるように。 わたしが行って、帰ることのないその前に、これを得させられるように。わたしは暗き地、暗黒の地へ行く。 これは暗き地で、やみにひとしく、暗黒で秩序なく、光もやみのようだ」。
もし自分に罪を犯したならば、神の裁きを受けるのは当然です。しかし何も罪を犯したこともないのに、どうして神は自分を責められるのだろうか、次々と自分を罪ありと責め立てる人を送られるとはどうしてなのでしょうかと、ヨブは嘆きます。それならばいっそ死んでしまった方がましだとヨブが考えたのも、致し方ありません。せめて生きている束の間の間に、暗黒の陰府に降る前に、魂の安息と慰めを得たいとヨブは訴えます。私たちの人生は悲しみの連続ですが、そのまま陰府に落とされるならば、こんな虚しいことはありません。しかし私たちには主イエス・キリストにより天の御国に導き入れられる希望が約束されていますからさいわいです。
https://www.bible.com/bible/81/job.10.14-22.ja1955