詩篇 7:1-5
「わが神、主よ、わたしはあなたに寄り頼みます。どうかすべての追い迫る者からわたしを救い、わたしをお助けください。 さもないと彼らは、ししのように、わたしをかき裂き、助ける者の来ないうちに、引いて行くでしょう。 わが神、主よ、もしわたしがこの事を行ったならば、もしわたしの手によこしまな事があるならば、 もしわたしの友に悪をもって報いたことがあり、ゆえなく、敵のものを略奪したことがあるならば、 敵にわたしを追い捕えさせ、わたしの命を地に踏みにじらせ、わたしの魂をちりにゆだねさせてください。[セラ」
義なる神様に向かって、もし自分に非があるならば敵の手に陥らせてくださいと祈ったダビデの姿は、先に学んだヨブの災難と状況が似ています。今の私たちもまた、自分は何一つ悪事を働いた覚えもないのに、突然災いが降りかかるときがあります。そのとき、自らの身の潔白を訴えることができる人はさいわいです。
しかし私は、自分がそんな聖人君子ではないことを自覚します。それでも神様の御前に立つことができるのは、十字架に掛かられて私たちの罪をすべてその身に負ってくださったイエス様の愛の購いの故です。この主イエスの救いの御業に心から感謝し、神様の御前に大胆に近付かせていただく私たちでありますように。
http://bible.com/81/psa.7.1-5.ja1955
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詩篇 7:8-11
「主はもろもろの民をさばかれます。主よ、わたしの義と、わたしにある誠実とに従って、わたしをさばいてください。 どうか悪しき者の悪を断ち、正しき者を堅く立たせてください。義なる神よ、あなたは人の心と思いとを調べられます。 わたしを守る盾は神である。神は心の直き者を救われる。 神は義なるさばきびと、日ごとに憤りを起される神である。」
聖書が教える義とは、非の打ち所のない完璧な人間になることではありません。神様は、私たちの行いではなく、その心と思いとを見られます。どれほど善行を積もうとも、その思いが自己満足や自己実現であるならば、神様の目には義とは認められません。私たちの思いが真っ直ぐに、誠実に神様の御心に従っているとき、はじめて義と認められます。神様に喜ばれる心の直き者となり、義なる者と判決される恵みに与る私たちでありますように。
http://bible.com/81/psa.7.8-11.ja1955
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詩篇 7:12-17
「もし人が悔い改めないならば、神はそのつるぎをとぎ、その弓を張って構え、 また死に至らせる武器を備え、その矢を火矢とされる。 見よ、悪しき者は邪悪をはらみ、害毒をやどし、偽りを生む。 彼は穴を掘って、それを深くし、みずから作った穴に陥る。 その害毒は自分のかしらに帰り、その強暴は自分のこうべに下る。 わたしは主にむかって、その義にふさわしい感謝をささげ、いと高き者なる主の名をほめ歌うであろう。」
自分の罪を認めず、悔い改めない者の末路は悲惨です。なぜなら全能の神、主が自ら、剣を研ぎ澄まし、弓を張り、永遠の死に至らしめる火矢を放って、全力で罪人を滅ぼされるからです。悔い改めのない心は、自ら掘った罠に陥るようなもの、犯した罪科を一身に受けて自滅するようなもので、情け容赦ない裁きが待ち受けています。しかし罪を認めて悔い改め、主に義と認められた者は、その義に相応しい感謝を捧げ、ほめ歌を歌いつつ主の御前に立つことのできるさいわいに与ることができます。どちらが賢い選択かは、自明のことでしょう。心を頑なにして永遠の滅びに向かうことなく、主に立ち帰って永遠のいのちに至る人生を選択する私たちでありますように。
http://bible.com/81/psa.7.12-17.ja1955
「わが神、主よ、わたしはあなたに寄り頼みます。どうかすべての追い迫る者からわたしを救い、わたしをお助けください。 さもないと彼らは、ししのように、わたしをかき裂き、助ける者の来ないうちに、引いて行くでしょう。 わが神、主よ、もしわたしがこの事を行ったならば、もしわたしの手によこしまな事があるならば、 もしわたしの友に悪をもって報いたことがあり、ゆえなく、敵のものを略奪したことがあるならば、 敵にわたしを追い捕えさせ、わたしの命を地に踏みにじらせ、わたしの魂をちりにゆだねさせてください。[セラ」
義なる神様に向かって、もし自分に非があるならば敵の手に陥らせてくださいと祈ったダビデの姿は、先に学んだヨブの災難と状況が似ています。今の私たちもまた、自分は何一つ悪事を働いた覚えもないのに、突然災いが降りかかるときがあります。そのとき、自らの身の潔白を訴えることができる人はさいわいです。
しかし私は、自分がそんな聖人君子ではないことを自覚します。それでも神様の御前に立つことができるのは、十字架に掛かられて私たちの罪をすべてその身に負ってくださったイエス様の愛の購いの故です。この主イエスの救いの御業に心から感謝し、神様の御前に大胆に近付かせていただく私たちでありますように。
http://bible.com/81/psa.7.1-5.ja1955
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詩篇 7:8-11
「主はもろもろの民をさばかれます。主よ、わたしの義と、わたしにある誠実とに従って、わたしをさばいてください。 どうか悪しき者の悪を断ち、正しき者を堅く立たせてください。義なる神よ、あなたは人の心と思いとを調べられます。 わたしを守る盾は神である。神は心の直き者を救われる。 神は義なるさばきびと、日ごとに憤りを起される神である。」
聖書が教える義とは、非の打ち所のない完璧な人間になることではありません。神様は、私たちの行いではなく、その心と思いとを見られます。どれほど善行を積もうとも、その思いが自己満足や自己実現であるならば、神様の目には義とは認められません。私たちの思いが真っ直ぐに、誠実に神様の御心に従っているとき、はじめて義と認められます。神様に喜ばれる心の直き者となり、義なる者と判決される恵みに与る私たちでありますように。
http://bible.com/81/psa.7.8-11.ja1955
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詩篇 7:12-17
「もし人が悔い改めないならば、神はそのつるぎをとぎ、その弓を張って構え、 また死に至らせる武器を備え、その矢を火矢とされる。 見よ、悪しき者は邪悪をはらみ、害毒をやどし、偽りを生む。 彼は穴を掘って、それを深くし、みずから作った穴に陥る。 その害毒は自分のかしらに帰り、その強暴は自分のこうべに下る。 わたしは主にむかって、その義にふさわしい感謝をささげ、いと高き者なる主の名をほめ歌うであろう。」
自分の罪を認めず、悔い改めない者の末路は悲惨です。なぜなら全能の神、主が自ら、剣を研ぎ澄まし、弓を張り、永遠の死に至らしめる火矢を放って、全力で罪人を滅ぼされるからです。悔い改めのない心は、自ら掘った罠に陥るようなもの、犯した罪科を一身に受けて自滅するようなもので、情け容赦ない裁きが待ち受けています。しかし罪を認めて悔い改め、主に義と認められた者は、その義に相応しい感謝を捧げ、ほめ歌を歌いつつ主の御前に立つことのできるさいわいに与ることができます。どちらが賢い選択かは、自明のことでしょう。心を頑なにして永遠の滅びに向かうことなく、主に立ち帰って永遠のいのちに至る人生を選択する私たちでありますように。
http://bible.com/81/psa.7.12-17.ja1955