伊藤ファミリーBLOG

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【COGHCC聖書通読】 2017/06/11

2017-06-11 06:50:15 | 一日一章・聖書通読日記
ヨブ記 31:3-8
「不義なる者には災が下らないであろうか。悪をなす者には災難が臨まないであろうか。 彼はわたしの道をみそなわし、わたしの歩みをことごとく数えられぬであろうか。 もし、わたしがうそと共に歩み、わたしの足が偽りにむかって急いだことがあるなら、 (正しいはかりをもってわたしを量れ、そうすれば神はわたしの潔白を知られるであろう。) もしわたしの歩みが、道をはなれ、わたしの心がわたしの目にしたがって歩み、わたしの手に汚れがついていたなら、 わたしのまいたのを他の人が食べ、わたしのために成長するものが、抜き取られてもかまわない。」

ヨブは様々な事例を挙げて、もし自分が何か罪を犯したならばその罰を受けても構わないと語り始めました。このようにしてヨブは自分には何の罪もないことを主張したのです。確かにヨブのように正しく歩んだ人はいませんでした。しかし神様の御前に己の義を主張することは、謙遜な主の僕の姿ではありません。私たちも神様に対して、自らの義を主張して譲らないことがないだろうかと考えさせられます。

http://bible.com/81/job.31.3-8.ja1955

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ヨブ記 31:14, 23, 28
「神が立ち上がられるとき、わたしはどうしようか、神が尋ねられるとき、なんとお答えしようか。

わたしは神から出る災を恐れる、その威光の前には何事もなすことはできない。

これもまたさばきびとに罰せらるべき悪事だ。わたしは上なる神を欺いたからである。」

ヨブは人とではなく神様と直接対話することを望み、主の御前に自らの身の潔白を主張しました。人の判断基準に基づく裁きは恐るるに足りませんが、もし神様から下される裁きであるならば、私たちはひとたまりもなく滅ぼされてしまうでしょう。真に恐れるべきは神様の裁きです。私たちは決して神様を欺き、裁きを招くようなことをしてはなりません。

http://bible.com/81/job.31.14,23,28.ja1955

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ヨブ記 31:35-37
「ああ、わたしに聞いてくれる者があればよいのだが、(わたしのかきはんがここにある。どうか、全能者がわたしに答えられるように。)ああ、わたしの敵の書いた告訴状があればよいのだが。 わたしは必ずこれを肩に負い、冠のようにこれをわが身に結び、 わが歩みの数を彼に述べ、君たる者のようにして、彼に近づくであろう。」

ヨブは自分を罪ある者と訴える告訴状があるならば、自分の無実を証明する数々の証拠を揃えて裁判官の前に立つと、自信満々に答えました。それほどヨブは自らの身の潔白を大胆に主張することを望んだのです。しかしこのヨブの態度は、神様に喜ばれるものではありませんでした。いつしかヨブは自分の義に寄り頼み、神様の憐れみと赦しにすがる心を見失っていたのです。人は神様の前に自らの義を主張することなどできない罪ある存在であることを、私たちは決して忘れてはなりません。

http://bible.com/81/job.31.35-37.ja1955
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【今日の聖句】 2017/06/11

2017-06-11 06:05:24 | 今日の聖句
マルコによる福音書 8:34-35
『それから群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。」』

福音のために自分の命を失うとは、人生のすべてをイエス様に捧げることです。イエス様が私たちの罪の購いとして十字架にご自身の命を捧げられたように、滅びに向かっている世の人々のために、自らの人生をイエス様に差し出して従う、まことの主の弟子とならせていただきたいと願います。

http://bible.com/81/mrk.8.34-35.ja1955
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