ヨブ記 24:1-4, 12
『なにゆえ、全能者はさばきの時を定めておかれないのか。なにゆえ、彼を知る者がその日を見ないのか。 世には地境を移す者、群れを奪ってそれを飼う者、 みなしごのろばを追いやる者、やもめの牛を質に取る者、 貧しい者を道から押しのける者がある。世の弱い者は皆彼らをさけて身をかくす。
…
町の中から死のうめきが起り、傷ついた者の魂が助けを呼び求める。しかし神は彼らの祈を顧みられない。」』
悪しき者が栄え、義人が虐げられているこの世の現実を見たヨブは、どうして神様は裁きの日を定めておかれないのか、義人が祈っても聞かれず、いつまでも悪人が裁かれずにいるではないか、と嘆きました。
私たちもまたこの世の不条理の中でヨブと同じ気持ちになることが多くあります。しかし再臨の日は私たちには知らされていません。私たちには長く感じられても、世の終わりは突然やってきます。私たちはいつ主の裁きの日が到来しても大丈夫なように、きよい信仰生活を日々励み続けることが必要です。
http://bible.com/81/job.24.1-4,12.ja1955
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ヨブ記 24:13-17
「光にそむく者たちがある。彼らは光の道を知らず、光の道にとどまらない。 人を殺す者は暗いうちに起き出て弱い者と貧しい者を殺し、夜は盗びととなる。 姦淫する者の目はたそがれを待って、『だれもわたしを見ていないだろう』と言い、顔におおう物を当てる。 彼らは暗やみで家をうがち、昼は閉じこもって光を知らない。 彼らには暗黒は朝である。彼らは暗黒の恐れを友とするからだ。」
神をも恐れぬ悪人たちは、義の光の道に歩まず、罪にまみれた闇の世界を愛します。そして神様の目が届かないと思って隠れて悪事を働き、罪の支配する夜を活動の場とし、光を避けて罪の暗黒を友とします。彼らが闇を愛するのは、罪の陰が明るみに出ることを恐れるからです。
神様を知る私たちはこのようであってはなりません。罪の支配する闇を憎み、光を愛して義の道に歩み、心の片隅に潜む罪さえも明るみに照らし出されてきよめていただき、神様の御心に適う日々、光の中を歩むきよい信仰生活を送る者とならせていただきたいと願います。
http://bible.com/81/job.24.13-17.ja1955
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ヨブ記 24:18-20, 22-23, 25
「あなたがたは言う、『彼らは水のおもてにすみやかに流れ去り、その受ける分は地でのろわれ、酒ぶねを踏む者はだれも彼らのぶどう畑の道に行かない。 ひでりと熱さは雪水を奪い去る、陰府が罪を犯した者に対するも、これと同様だ。 町の広場は彼らを忘れ、彼らの名は覚えられることなく、不義は木の折られるように折られる』と。
…
しかし神はその力をもって、強い人々を生きながらえさせられる。彼らは生きる望みのない時にも起きあがる。 神が彼らに安全を与えられるので、彼らは安らかである。神の目は彼らの道の上にある。
…
もし、そうでないなら、だれがわたしにその偽りを証明し、わが言葉のむなしいことを示しうるだろうか」。
ヨブの友人たちは、罪を働く悪人たちは神の裁きを受けて呪われ、必ず滅びると言いましたが、この世の悪人たちは神の裁きを受けるどころか、むしろ神様は彼らに平安と繁栄を与えているではないかとヨブは指摘しました。そしてこの世で苦しみに遭っているのは罪を行ったからではない、因果応報の考え方では説明できない悪人が栄える現実を見ても私に罪があると言えるのか、反論できるかと問いかけました。
悪人が栄え義人が苦しめられているこの世の現実に対するヨブの見解は、私たちにとっても参考になります。この世の幸せ不幸せは私たちの行いの結果ではないと知るとき、試練も迫害をも耐え忍ぶ力が与えられます。現実は現実として受け止め、日常生活の諸々の出来事の中に神様の摂理を尋ね求める私たちでありますように。
http://bible.com/81/job.24.18-20,22-23,25.ja1955
『なにゆえ、全能者はさばきの時を定めておかれないのか。なにゆえ、彼を知る者がその日を見ないのか。 世には地境を移す者、群れを奪ってそれを飼う者、 みなしごのろばを追いやる者、やもめの牛を質に取る者、 貧しい者を道から押しのける者がある。世の弱い者は皆彼らをさけて身をかくす。
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町の中から死のうめきが起り、傷ついた者の魂が助けを呼び求める。しかし神は彼らの祈を顧みられない。」』
悪しき者が栄え、義人が虐げられているこの世の現実を見たヨブは、どうして神様は裁きの日を定めておかれないのか、義人が祈っても聞かれず、いつまでも悪人が裁かれずにいるではないか、と嘆きました。
私たちもまたこの世の不条理の中でヨブと同じ気持ちになることが多くあります。しかし再臨の日は私たちには知らされていません。私たちには長く感じられても、世の終わりは突然やってきます。私たちはいつ主の裁きの日が到来しても大丈夫なように、きよい信仰生活を日々励み続けることが必要です。
http://bible.com/81/job.24.1-4,12.ja1955
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ヨブ記 24:13-17
「光にそむく者たちがある。彼らは光の道を知らず、光の道にとどまらない。 人を殺す者は暗いうちに起き出て弱い者と貧しい者を殺し、夜は盗びととなる。 姦淫する者の目はたそがれを待って、『だれもわたしを見ていないだろう』と言い、顔におおう物を当てる。 彼らは暗やみで家をうがち、昼は閉じこもって光を知らない。 彼らには暗黒は朝である。彼らは暗黒の恐れを友とするからだ。」
神をも恐れぬ悪人たちは、義の光の道に歩まず、罪にまみれた闇の世界を愛します。そして神様の目が届かないと思って隠れて悪事を働き、罪の支配する夜を活動の場とし、光を避けて罪の暗黒を友とします。彼らが闇を愛するのは、罪の陰が明るみに出ることを恐れるからです。
神様を知る私たちはこのようであってはなりません。罪の支配する闇を憎み、光を愛して義の道に歩み、心の片隅に潜む罪さえも明るみに照らし出されてきよめていただき、神様の御心に適う日々、光の中を歩むきよい信仰生活を送る者とならせていただきたいと願います。
http://bible.com/81/job.24.13-17.ja1955
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ヨブ記 24:18-20, 22-23, 25
「あなたがたは言う、『彼らは水のおもてにすみやかに流れ去り、その受ける分は地でのろわれ、酒ぶねを踏む者はだれも彼らのぶどう畑の道に行かない。 ひでりと熱さは雪水を奪い去る、陰府が罪を犯した者に対するも、これと同様だ。 町の広場は彼らを忘れ、彼らの名は覚えられることなく、不義は木の折られるように折られる』と。
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しかし神はその力をもって、強い人々を生きながらえさせられる。彼らは生きる望みのない時にも起きあがる。 神が彼らに安全を与えられるので、彼らは安らかである。神の目は彼らの道の上にある。
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もし、そうでないなら、だれがわたしにその偽りを証明し、わが言葉のむなしいことを示しうるだろうか」。
ヨブの友人たちは、罪を働く悪人たちは神の裁きを受けて呪われ、必ず滅びると言いましたが、この世の悪人たちは神の裁きを受けるどころか、むしろ神様は彼らに平安と繁栄を与えているではないかとヨブは指摘しました。そしてこの世で苦しみに遭っているのは罪を行ったからではない、因果応報の考え方では説明できない悪人が栄える現実を見ても私に罪があると言えるのか、反論できるかと問いかけました。
悪人が栄え義人が苦しめられているこの世の現実に対するヨブの見解は、私たちにとっても参考になります。この世の幸せ不幸せは私たちの行いの結果ではないと知るとき、試練も迫害をも耐え忍ぶ力が与えられます。現実は現実として受け止め、日常生活の諸々の出来事の中に神様の摂理を尋ね求める私たちでありますように。
http://bible.com/81/job.24.18-20,22-23,25.ja1955