伊藤ファミリーBLOG

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【COGHCC聖書通読】 2017/06/09

2017-06-09 07:35:23 | 一日一章・聖書通読日記
ヨブ記 29:1-5
『ヨブはまた言葉をついで言った、 「ああ過ぎた年月のようであったらよいのだが、神がわたしを守ってくださった日のようであったらよいのだが。 あの時には、彼のともしびがわたしの頭の上に輝き、彼の光によってわたしは暗やみを歩んだ。 わたしの盛んな時のようであったならよいのだが。あの時には、神の親しみがわたしの天幕の上にあった。 あの時には、全能者がなおわたしと共にいまし、わたしの子供たちもわたしの周囲にいた。」』

神様の知恵の素晴らしさについて語ったヨブは、今度は自分の過去を振り返りました。かつての自分は神様と共に歩み、神様の祝福が豊かに注がれていました。あの日々のようであったならばよいのだがと、ヨブは今の自分が置かれた状況を見て嘆きます。私たちは時折、過去を懐かしむことがありますが、そのとき単に過去の栄光を追い求めるだけに終始してはなりません。なぜなら過去を懐かしんでも今は変わらないからです。私たちが目を留めるべきものは未来であり、その原動力は信仰による希望です。

http://bible.com/81/job.29.1-5.ja1955

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ヨブ記 29:11-12, 14, 18-20
「耳に聞いた者はわたしを祝福された者となし、目に見た者はこれをあかしした。 これは助けを求める貧しい者を救い、また、みなしごおよび助ける人のない者を救ったからである。

わたしは正義を着、正義はわたしをおおった。わたしの公義は上着のごとく、また冠のようであった。

その時、わたしは言った、『わたしは自分の巣の中で死に、わたしの日は砂のように多くなるであろう。 わたしの根は水のほとりにはびこり、露は夜もすがらわたしの枝におくであろう。 わたしの栄えはわたしと共に新しく、わたしの弓はわたしの手にいつも強い』と。」

かつてヨブが自他共に認める祝福された日々を送っていたとき、自分は数々の善行に励んできたと語ります。更に自分は正義を身にまとい、公義を冠としていたと、自らの義を自負しました。ここまで自分は神様の御前に正しく歩んできたと断言できる人は滅多にいません。しかしヨブは、これほどの義を行ってきたから自分の人生は祝福され、長寿を全うするだろうと思っていたと言いました。ここにヨブの思い上がった過ちがあります。

苦しみに遭うのは罪があるからだと主張した友人たちに猛然と反論したヨブでしたが、その裏返しの考え方である、義を行う者は祝福されるはずだという因果応報の考えに自ら陥っていることに、彼は気付かなかったようです。義を行う者が苦しみに遭うのはなぜかという問いかけを通り越して、結局は自分の行いを誇ることになってしまったのは残念です。私たちもそのような思い違いをしないように気を付けなければなりません。

http://bible.com/81/job.29.11-12,14,18-20.ja1955

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ヨブ記 29:21-25
「人々はわたしに聞いて待ち、黙して、わたしの教に従った。 わたしが言った後は彼らは再び言わなかった。わたしの言葉は彼らの上に雨のように降りそそいだ。 彼らは雨を待つように、わたしを待ち望み、春の雨を仰ぐように口を開いて仰いだ。 彼らが希望を失った時にも、わたしは彼らにむかってほほえんだ。彼らはわたしの顔の光を除くことができなかった。 わたしは彼らのために道を選び、そのかしらとして座し、軍中の王のようにしており、嘆く者を慰める人のようであった。」

神様に全く従い義を行ったと自負していたヨブは、人々に知恵の言葉を語り、人々は喜んで耳を傾けヨブに逆らうことがなかったと語りました。更にヨブは希望を失った人に微笑み、嘆く者を慰め、さながら王のように権威ある者として振る舞ったと言いました。

確かにヨブの行いは立派で称賛に値するものです。非の打ち所もありません。しかしこれを自分の口で語ることは、自らを誇る罪になりかねません。善行に励み正義感の強い人であればあるほど、私たちは謙虚な心を保ち続けなければなりません。

http://bible.com/81/job.29.21-25.ja1955
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【今日の聖句】 2017/06/09

2017-06-09 06:40:06 | 今日の聖句
ローマ人への手紙 13:10
「愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである。」

律法とは神様の愛を実行するためのものですから、愛をもって人と接するならば律法を成就することになります。私たちのために十字架で命を捨てられるほどの愛を表された、信仰の導き手であり完成者であるイエス様に倣う者とならせていただきたいと願います。

http://bible.com/81/rom.13.10.ja1955
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