ヨブ記 27:1-6
『ヨブはまた言葉をついで言った、 「神は生きておられる。彼はわたしの義を奪い去られた。全能者はわたしの魂を悩まされた。 わたしの息がわたしのうちにあり、神の息がわたしの鼻にある間、 わたしのくちびるは不義を言わない、わたしの舌は偽りを語らない。 わたしは断じて、あなたがたを正しいとは認めない。わたしは死ぬまで、潔白を主張してやめない。 わたしは堅くわが義を保って捨てない。わたしは今まで一日も心に責められた事がない。」』
ヨブは3人の友人たちの言葉に反論することをやめ、いのちの限り不義を語らず偽りを言わないと誓い、自らの身の潔白を主張しました。更にヨブは今まで一日たりとも心に責められるようなやましいことをしたことがなく、そして死ぬまで神の義を保って捨てないと宣言しました。口に出した言葉には力があります。義を守ると宣言することは、私たちの信仰を守ります。ヨブのように大胆に義を宣言させていただく私たちでありますように。
http://bible.com/81/job.27.1-6.ja1955
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ヨブ記 27:8-10
「神が彼を断ち、その魂を抜きとられるとき、神を信じない者になんの望みがあろう。 災が彼に臨むとき、神はその叫びを聞かれるであろうか。 彼は全能者を喜ぶであろうか、常に神を呼ぶであろうか。」
私たちがこの世で生きているのは、自分の自由意志でいのちを得ているのではなく、神様が肉体に魂を宿してくださっているからです。にもかかわらず人は神様から離れ、自分の好き勝手に人生を送ろうとします。そのような者がやがて死を迎え神様から魂を抜き取られるとき、もはや彼に何の希望があるだろうか、神様はその叫びを聞かれるであろうか、彼は神様を喜ぶことができるだろうか、とヨブは問います。この問いかけは、ヨブの友人たちだけでなく私たちにも向けられています。この世の生涯はたかが100年と少し、永遠の歴史から見たら誤差範囲でしかありません。束の間の今を自分の好き勝手に過ごして永遠に苦しむことと、御言葉に従って永遠の喜びを得ることと、どちらが益でしょうか。その答は自明のことと思います。
http://bible.com/81/job.27.8-10.ja1955
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ヨブ記 27:11-12
「わたしは神のみ手についてあなたがたに教え、全能者と共にあるものを隠すことをしない。 見よ、あなたがたは皆みずからこれを見た、それなのに、どうしてむなしい者となったのか。」
ヨブの友人たちは、以前ヨブが主の御前に誠実な生き方をしていたかを知っており、またヨブの語る信仰の言葉も聞いていました。にもかかわらずヨブが苦しみに遭うと、罪を犯したからだと一方的に決めつけて断罪し、無実の罪を着せてヨブに悔い改めを迫りました。表面的なものの見方しかできない者は、このような虚しい結論しか導き出すことができません。上辺だけしか見ることのできない人の知恵や経験に頼らず、神様の御心を尋ね求める信仰によってこの世の諸々の出来事の中に秘められた神様の摂理を見出す目を養い、真理に気付かせていただく私たちでありますように。
http://bible.com/81/job.27.11-12.ja1955
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ヨブ記 27:13, 20-23
「これは悪人の神から受ける分、圧制者の全能者から受ける嗣業である。
…
恐ろしい事が大水のように彼を襲い、夜はつむじ風が彼を奪い去る。 東風が彼を揚げると、彼は去り、彼をその所から吹き払う。 それは彼を投げつけて、あわれむことなく、彼はその力からのがれようと、もがく。 それは彼に向かって手を鳴らし、あざけり笑って、その所から出て行かせる。」
ヨブが語った悪人に対する神の裁きは、言葉の上ではヨブの友人たちと同じことを言っています。しかしヨブの友人たちは神様の裁きを他人事として語っていたのに対し、ヨブはもし自分が罪を犯しているならばこれらの裁きが自分の身に降りかかっても仕方ないのだと、自分のこととして受け止めて語りました。ヨブの言葉に重みがあるのは、信仰を単なる知識や他人事として受け止めていたのではなく、自分の身をもって証していたからです。どれほど聖書を読み、また礼拝で素晴らしい説教を聞いても、自分のこととして受け止めなければ何の意味もありません。神様の御言葉を自分の身に起こることと確信する、生きた信仰を持つ私たちでありますように。
http://bible.com/81/job.27.13,20-23.ja1955
『ヨブはまた言葉をついで言った、 「神は生きておられる。彼はわたしの義を奪い去られた。全能者はわたしの魂を悩まされた。 わたしの息がわたしのうちにあり、神の息がわたしの鼻にある間、 わたしのくちびるは不義を言わない、わたしの舌は偽りを語らない。 わたしは断じて、あなたがたを正しいとは認めない。わたしは死ぬまで、潔白を主張してやめない。 わたしは堅くわが義を保って捨てない。わたしは今まで一日も心に責められた事がない。」』
ヨブは3人の友人たちの言葉に反論することをやめ、いのちの限り不義を語らず偽りを言わないと誓い、自らの身の潔白を主張しました。更にヨブは今まで一日たりとも心に責められるようなやましいことをしたことがなく、そして死ぬまで神の義を保って捨てないと宣言しました。口に出した言葉には力があります。義を守ると宣言することは、私たちの信仰を守ります。ヨブのように大胆に義を宣言させていただく私たちでありますように。
http://bible.com/81/job.27.1-6.ja1955
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ヨブ記 27:8-10
「神が彼を断ち、その魂を抜きとられるとき、神を信じない者になんの望みがあろう。 災が彼に臨むとき、神はその叫びを聞かれるであろうか。 彼は全能者を喜ぶであろうか、常に神を呼ぶであろうか。」
私たちがこの世で生きているのは、自分の自由意志でいのちを得ているのではなく、神様が肉体に魂を宿してくださっているからです。にもかかわらず人は神様から離れ、自分の好き勝手に人生を送ろうとします。そのような者がやがて死を迎え神様から魂を抜き取られるとき、もはや彼に何の希望があるだろうか、神様はその叫びを聞かれるであろうか、彼は神様を喜ぶことができるだろうか、とヨブは問います。この問いかけは、ヨブの友人たちだけでなく私たちにも向けられています。この世の生涯はたかが100年と少し、永遠の歴史から見たら誤差範囲でしかありません。束の間の今を自分の好き勝手に過ごして永遠に苦しむことと、御言葉に従って永遠の喜びを得ることと、どちらが益でしょうか。その答は自明のことと思います。
http://bible.com/81/job.27.8-10.ja1955
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ヨブ記 27:11-12
「わたしは神のみ手についてあなたがたに教え、全能者と共にあるものを隠すことをしない。 見よ、あなたがたは皆みずからこれを見た、それなのに、どうしてむなしい者となったのか。」
ヨブの友人たちは、以前ヨブが主の御前に誠実な生き方をしていたかを知っており、またヨブの語る信仰の言葉も聞いていました。にもかかわらずヨブが苦しみに遭うと、罪を犯したからだと一方的に決めつけて断罪し、無実の罪を着せてヨブに悔い改めを迫りました。表面的なものの見方しかできない者は、このような虚しい結論しか導き出すことができません。上辺だけしか見ることのできない人の知恵や経験に頼らず、神様の御心を尋ね求める信仰によってこの世の諸々の出来事の中に秘められた神様の摂理を見出す目を養い、真理に気付かせていただく私たちでありますように。
http://bible.com/81/job.27.11-12.ja1955
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ヨブ記 27:13, 20-23
「これは悪人の神から受ける分、圧制者の全能者から受ける嗣業である。
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恐ろしい事が大水のように彼を襲い、夜はつむじ風が彼を奪い去る。 東風が彼を揚げると、彼は去り、彼をその所から吹き払う。 それは彼を投げつけて、あわれむことなく、彼はその力からのがれようと、もがく。 それは彼に向かって手を鳴らし、あざけり笑って、その所から出て行かせる。」
ヨブが語った悪人に対する神の裁きは、言葉の上ではヨブの友人たちと同じことを言っています。しかしヨブの友人たちは神様の裁きを他人事として語っていたのに対し、ヨブはもし自分が罪を犯しているならばこれらの裁きが自分の身に降りかかっても仕方ないのだと、自分のこととして受け止めて語りました。ヨブの言葉に重みがあるのは、信仰を単なる知識や他人事として受け止めていたのではなく、自分の身をもって証していたからです。どれほど聖書を読み、また礼拝で素晴らしい説教を聞いても、自分のこととして受け止めなければ何の意味もありません。神様の御言葉を自分の身に起こることと確信する、生きた信仰を持つ私たちでありますように。
http://bible.com/81/job.27.13,20-23.ja1955