2011年3月11日、この日は、朝から穏やかに晴れていた。
午後になると雲が出てきて、次第にどんよりとした空に変わった。
午後2時を過ぎた頃から急速に冷え込んできた、午後2時46分、大川小学校では帰りの会が終わり、
「さよなら」を言ってる途中に、地震は起きた。
子供たちは、机の下に潜り揺れがおさまるのを待った。
教頭がハンドマイクで「机の下に避難」と繰り返あしていた、揺れはそのまま2分ほど続いた。
学校前の県道には、海岸方面の長面地区に向かって、スクールバスが待機していた。
大川小の学区は北上川に沿ってかなり広い範囲にわたるため、多くの子供たちがスクールバスで通っていた、この日、大川小の柏葉照幸校長(当時)は、年休をとり、学校には不在だった、
教頭主任のA教諭(教職員として唯一の生存者)は廊下から「校庭に避難しろ」と叫んでいた。
子供たちは早足で、校庭に出た、上履きを靴に履き替えたり、自分の判断でジヤンバーを着用したり
した子供もいた、外では小雪が舞い始めていた、A教諭は、校庭に出ると「山だ!山だ、山に逃げろ」
と叫んだ。
それを聞いて、山にダーッと登っていた子供がいたが、教諭の誰かから「もどれ!」と怒鳴られ、連れ戻された。 5、6年生の男子たちが「山さ上がろう」と先生に訴えていた、当時6年生の佐藤雄樹君と今野大輔君
は「いつも俺たち裏山に上がってっから」「地割れが起きる」「俺たち、ここにいたら死ぬべや」「先生なのに
なんでわからないんだ」と、くってかかっていたという、
2人も一旦こうていから裏山に駆け出したが、戻れと言われて校庭に引き返している。
防災無線では、「海岸線や河川には近づかないでください」と呼びかけていた。
教頭の持っていたラジオでは、6メートルの大津波警報を伝えていた、担任教諭たちが校庭で点呼をとり、
教頭に報告。遅くとも午後3時前には完了していたと思われる。
数分ごとに、たびたび余震が起きていた、校庭では、女の子たちが泣いていた。
「地震酔い」なのか、吐いている子もいた。
子供たちを迎えに来た保護者は、20家族ほど、名簿に名前を書いて帰宅していった。
大津波警報が出ていることを報告していた母親もういた。
保護者たちは、教諭から「学校の方が安全」「帰らないように」「にげないほうがいい」などといわれていた。
また他の地域の人たちが校庭の入口にあつまってきた、布団やブルーシートを持ってきていた人もいた。
午後3時14分。大津波警報が10メートルにひきあげられる、直後の午後3時15分、余震発生、
防災無線を担当した市河北総合支所の職員によると、この頃にはじめて大津波警報が出ていることを
認識して呼びかけ始めたという。
だが高台への避難のよびかけは特にしなかった。
一方同支所の3台の広報車は、大津波警報と高台への避難を呼びかけながら、県道を海岸の長尾方面に
向かった。
午後3時20分頃、広報車の1台の職員が大川小に立ち寄り、長面の人たちを体育館に避難させられるかを
確認して「危険」との説明をうけている。
同時刻に津波の第一波が、牡鹿半島の先端の鮎川に到達。
校庭では焚き火の準備も始まっていた。
続く、悲惨な話が・・・