佐藤功の釣ったろ釣られたろ日誌

釣り・釣りの思い出・釣り界のこと・ボヤキ.etc

淡路じゃのひれ民話・パート2

2010-11-01 20:05:36 | 日々の思い
先日、来淡路のじゃのひれ近辺の民話を書きましたが、この地の阿万田尻に伝わるお話を海上釣り堀じゃのひれ社長の山形氏から聞きましたので書かせていただきます。

その民話の前に
「田尻は私がいま住んでいるところで以前、養殖場(人工孵化場)を営んでいたところです。その養殖場を整地していたときのこと、重さにして70~100キロぐらいの石がごろごろと出てきました。

話によると、昔、源サという男が海からもってきたものだそうです。彼の逸話はたくさんあるそうです。源サは控えめな性格で、力持ちをみんなにひけらかすようなことはなかったそうです。

その源サは、私の母の祖父で、私の曽祖父にあたります。母が5歳(昭和10年)の頃、まだ頭にチョンマゲを結っていたそうです。私も子供のころにその話を聞いたときに、映画の“サムソンとデリラ”を思い出し、源サも、もしかしたらその髪に力が宿っていたのかなぁと想像していた事を覚えております。」

その源サという力持ちの話。

ちょうど明治27-8年の日清戦争のあと、洲本市の由良に砲台をつくることになって、近くの若者が働きにいきました。その中に源サと言う若者もいました。

由良の砲台までセメントを運ぶ仕事です。トラックのない時代で、細い山道をセメントを詰めた樽を一人一人が肩に担いで上がりました。たいていの力持ちでも、ひと樽が75キロほどもあるので、一つを担ぐのがやっとです。しかし源サはとても力持ちですから2樽担いでいきました。

このときの日当は一日何樽運んだかで決めました。他の人たちは源サの怪力に驚いたりうらやましがったりしました。そこである人が冷やかし半分に「源サ、欲張っとるのう」と声をかけましたら、「何ぬかす!」といって、振り返りざま担いでいたふたつのセメント樽を両手でひょいと振り上げて、仁王様のような目をむいて怒ったので、その人は「すまん、すまん」と平謝りに謝ってその場は収まりましたが、みんなは今更のように源サの強力に驚いたとの事。

それからこんな話も。阿万の八幡様の境内に、日清、日露戦争で戦死した多くの人たちの忠魂碑を建てる事になりました。石の土台を作り、その上に石碑を乗せることになりましたが、なにしろ1300キロもあるのでどうして上げたらよいのやらみんな途方に暮れていました。ところが不思議な事に、翌朝になるとちゃんと石碑が土台の上に乗っかっているではありませんか。みんなびっくりするやらうれしいやらで大変なうわさになりました。この噂が耳に入ったのか入らないのか、源サはただ一人ニヤニヤ笑っていたそうです。

ちなみに田尻は家々の姓はすべて阿部です。そして先祖は平家の落ち武者だそうです。それと福良湾の中心部、国民休暇村の前に島があります。その名はけむり島。その昔、平敦盛の首が祭られた島です。この火葬の際、一日中、煙が島から上がっていたそうです。これがけむり島の由来との事。

社長いわく、
今後、できれば田尻に「源サの資料館」なるものができればと考えております。
コメント
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