もしも、1日に1枚だけより撮れないカメラを持ってでかけたら、
僕はなにを撮るだろう。
実家のある浅草の、さらに西浅草にいって、すてきに並ばってる
玄関まわりの鉢うえをうつすかな。
それも朝、おすまいの方が水をまいた後の様子を。
こっそり撮るんじゃなくて、撮影させてほしいときいてみて、
雰囲氣よかったら撮る。つれなかったらやめて、次をあたる。
緊張のないポーズになるかと、しゃがんでもらって、
うえきの目線で撮るのだ。
植物と人の融合した景色だから、少しはなれて望遠にし、
大げさなパースをつけず全体をニュートラルに、
ふるると写そう。
で、撮るまえに、出来あがったらプリントして差しあげる由を
つたえつつ、それによって緊張と張りをみちびくから、
はじめの3枚は撮っているふりにして、なごんできた
4枚めが、最初でさいごの本番となる。カシャッ。
つかうカメラも、写るんですのような使いきりカメラとし、
確認できないゆえの集中力をたかめるのだ。
その後1日は、もうどんなにすてきな何かに遇っても
写真をとることができない。
上野のしのばずの池のロータスのすきまより
するするとシマヘビが泳いでるかもしれないが、それでも撮らない。
だからこそね、この自分のまなこで観る映像が、
いつもよりずっととくべつで、物語をおびてきて、
たまらない今を実感するのだ。
そんでもって、写真に撮って安心してすませることが
おろかであったと氣づくのだ。
一方、もしまだ今日のいちまいを撮れる状況で
池のシマヘビに会ったらどうするか。
その場合は、タイミングも構図もきにせずに
かちっと撮っておしまいにする。
いつも会えるものでもない、まれな遭遇なんだ。
だから何はなくとも撮って、あとは午睡して蛇な夢でもみよう。
そしてまた明日がくるのだから。
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