十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

形見とて何残すらむ

2015年11月29日 | 生命

先日、叔母のところへ電話をかけたが、なかなか電話に出ない。切りかけたところでやっと出た。「今、ちょうど司法書士さんに来てもらったとこ。後で」というので、2時間後にかけ直した。司法書士というから、遺言書の作成でもするのかと思っていたらやはりそうだった。
叔母には主人は遠の昔に亡くなり子供もいない。2年前には死にかけたことがあったし、最近は体調も不調気味、で後のことも考えたのであろう。

吾輩も病気自慢で書いたように、そろそろ危険水域に差し掛かってきたことを実感するが、財産があるわけでもなし、子供もいることだから法律的に処理すれば済むこととで叔母のような遺言書を作るつもりは今のところない。

良寛さんの歌に『形見とて何残すらむ春は花夏ほととぎす秋はもみぢ葉』というのがある。これでいいのだと思いつつも、生きた証となるものを何か残しておきたい気がする。
文才があれば本の一冊でも書いておきたいという気はずっと持っていたが、かかる拙文では・・・。文学者で歌人の折口信夫と親戚になるのだが、その文才の欠片でもあったらと思ってしまう。

仕方がない。で、私の形見としたいものは、「自己生命図」である。

元は内山興正老師の自己生命図で、それを発展させたものである。

昭和45年、今から47年前に安泰寺へ行くようになり、丁度その時期に「人生料理の本」が出版された。その本の中にあった老師の自己生命図に青天の霹靂ともいうべき衝撃を受けた。
普通の考えでは、まず出来上がった世界、宇宙であったり、地球であったりするのだが、そこに生まれてきて生きて死ぬと考える。確かに考えてみればそうである。しかし、それは自分を外から客観視しているのである。客観視するのも大事であるが、本来主観的に生きているのが人間である。生命の実物としての世界は体験している世界こそ現に生きている世界なのである。
澤木老師のいう「世界を持って生まれてきて、世界を持って死んでいく」ということなのである。

そしたら主観だけでとなると、他者との関係が上手くいかない。主観と主観のぶつかり合いでは意思疎通が上手くいかない。
主観と客観の使い分けが大事ということになる。いや、主客を分けないという見方が佛法的見方なのである。つまり、生命的に繋がっているといういうことなのである。

内山老師の言葉に「出逢うところわが生命」というのがある。これも「人生料理の本」で知ったのだが、実に素晴らしい。嬉しいことがあったら「出逢うところわが生命」、嬉しさが倍加する。辛いことに出逢っても「出逢うところわが生命」と胸を撫で下ろす。私の呪文である。

生命が世界ぐるみであらゆるものとの繋がりを知って、「出逢うところわが生命」と称える。坐禅は坐禅で素晴らしいものだが、坐禅修行しなくても、これで結構生きていける、私もなんとか以後47年生きてきた。請け合える。

さて、私の自己生命図であるが佛教的にはどうかという思いがある、つまり、科学的な考えを入れ込んでいるからである。しかし、これからはこうでなくてはと思う。顕微鏡も望遠鏡もなかった時代の世界観では駄目で説得力を持たない。
昔は西方に極楽があるなんて素朴に信じていたのであろうが、今は誰も信じない。


我が自己生命図は次稿で。
以前の分を改変しています。これが形見のつもりですから最終版です。
とか言いつつ、また、手直しするかも知れませんが・・・

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