11月29日(木)曇
降りそうで降らない天気が続きます。おかげでここのところ毎日、地下鉄の駅まで自転車を止めて歩いて駅まで行ってます。帰りに雨が降ると自転車を駅の駐輪場に置いてくると次の日が歩きなので、降りそうな日は朝歩いて駅まで行くことにしてます。今週は夕方雨が降ると言う予報だったので歩いていくのですが、いつも帰りは降っていません。まぁ健康のために歩けと言われているのでこれもまた良しです。
さて今日も「世の中ここがおかしいよ」の第二段です。今日は「サービス残業の矛盾」です。仕事で残業しなきゃならないことはよくあるので、残業手当をもらって残業をすると言うのが本来の姿です。サービス残業とは残業手当をもらわずに残業していることで、本来あってはならないことです。そこで最近、大企業でサービス残業が労働局から指摘されたとかでサービス残業見合いの手当てを支払ったとか、労働組合から申し入れを受けたとかの話がよくあります。このことは別に何ら問題ないのですが、そもそもなんで残業するのかと言う点で、工場労働者と事務職労働者ではベースがまったく違います。
前者はラインが動いて今日中にあと何個増産するために3時間働いてもらうといったように明確な目標があり、かつラインの稼動能率はほぼ一定です。従って誰が残業しても結果はそんなに変わらないものです。
ところが事務職いわゆるホワイトカラーの生産性は個人差が非常に大きいものです。能率の良い人は短時間に終って、残業手当も少ないのですが、能率が悪いと時間ばかりかかってしかも手当ても多くもらえる。こうなると能率のよかった人も能率よくやる必要がまったくなくなってしまいます。能率の悪い人ほど残業手当が多くなるというのは、ほんとうにそれでいいのでしょうか。もともと事務職のサービス残業というのは、2時間でできなきゃならないけど、自分は仕事の勉強しながらやるから能率も悪いし、3時間かかっても2時間分の手当てでちゃんとやろうといった自己制御のもとに行われたのが元々だったんじゃないでしょうか?それも上司に言われてじゃなく自主的にそうしていたのが元々だったと思います。
ところがそれも会社が拘束している時間だからちゃんと残業手当を出しなさいと言われればそのとおりだから、出すようになったのが現在じゃないでしょうか。お互いが心のルールを共有している時はうまく機能していたものが法律と言う画一的ルールだけで判断するようになるとおかしなことが起こり始めるのが世の常です。法家を重んじた秦の始皇帝は20年しか存続しなかったけど儒家を重用した漢は200年以上も存続しました。
こんなルールばかりを重用していると、今に日本と言う国からは、言われたことだけを忠実に実行し、新しい発明や発見はどんどんなくなり、国力はますます衰退の一途を辿るような気がします。なぜなら優秀な人はしらけるだろうし、能率の悪い仕事はさせないことが管理者としてやらざるを得なくなるでしょうからです。
この問題を解決する一つは、賃金体系を労働内容により変えることかもしれません。日本にはブルーカラーとホワイトカラーの区別があまりありませんが、これからは欧米のように明確に分けることが必要かもしれません。欧米のビジネスエリートは労働組合にも属さないし、時間外手当といった概念もないようです。自分の仕事に対して年俸○○といった自営業と同じ扱いになるのかもしれません。いずれにしてももっと会社と言うビジネスの環境を活用して自主的に自分の技術や技能を磨くための時間を若い人達に与えてもよいのではないでしょうか。それはサービス残業でも残業でもなく、自分自身への投資の時間だと思います。
自分の若い頃を美化するつもりもありませんが、夜遅くまで調べ物をしたり、機械を試験したりしながら自分の勉強をできたことをありがたく思ってます。今ではそんなことをしていたらサービス残業になるから早く帰ってくれと言わざるを得ません。あまり表面ずらのルールを押し付ける国もどうかなと思った次第です。何事も中庸です。
こんなことを書くと労働組合から何を言われるかわかりませんが、組合のあり方もあまり画一的なりすぎても時代に合わなくなってしまうでしょう。なにしろ大工場で大量生産する時代から確実に世の中は変わってきているのですから。
今日はこれまでです。
降りそうで降らない天気が続きます。おかげでここのところ毎日、地下鉄の駅まで自転車を止めて歩いて駅まで行ってます。帰りに雨が降ると自転車を駅の駐輪場に置いてくると次の日が歩きなので、降りそうな日は朝歩いて駅まで行くことにしてます。今週は夕方雨が降ると言う予報だったので歩いていくのですが、いつも帰りは降っていません。まぁ健康のために歩けと言われているのでこれもまた良しです。
さて今日も「世の中ここがおかしいよ」の第二段です。今日は「サービス残業の矛盾」です。仕事で残業しなきゃならないことはよくあるので、残業手当をもらって残業をすると言うのが本来の姿です。サービス残業とは残業手当をもらわずに残業していることで、本来あってはならないことです。そこで最近、大企業でサービス残業が労働局から指摘されたとかでサービス残業見合いの手当てを支払ったとか、労働組合から申し入れを受けたとかの話がよくあります。このことは別に何ら問題ないのですが、そもそもなんで残業するのかと言う点で、工場労働者と事務職労働者ではベースがまったく違います。
前者はラインが動いて今日中にあと何個増産するために3時間働いてもらうといったように明確な目標があり、かつラインの稼動能率はほぼ一定です。従って誰が残業しても結果はそんなに変わらないものです。
ところが事務職いわゆるホワイトカラーの生産性は個人差が非常に大きいものです。能率の良い人は短時間に終って、残業手当も少ないのですが、能率が悪いと時間ばかりかかってしかも手当ても多くもらえる。こうなると能率のよかった人も能率よくやる必要がまったくなくなってしまいます。能率の悪い人ほど残業手当が多くなるというのは、ほんとうにそれでいいのでしょうか。もともと事務職のサービス残業というのは、2時間でできなきゃならないけど、自分は仕事の勉強しながらやるから能率も悪いし、3時間かかっても2時間分の手当てでちゃんとやろうといった自己制御のもとに行われたのが元々だったんじゃないでしょうか?それも上司に言われてじゃなく自主的にそうしていたのが元々だったと思います。
ところがそれも会社が拘束している時間だからちゃんと残業手当を出しなさいと言われればそのとおりだから、出すようになったのが現在じゃないでしょうか。お互いが心のルールを共有している時はうまく機能していたものが法律と言う画一的ルールだけで判断するようになるとおかしなことが起こり始めるのが世の常です。法家を重んじた秦の始皇帝は20年しか存続しなかったけど儒家を重用した漢は200年以上も存続しました。
こんなルールばかりを重用していると、今に日本と言う国からは、言われたことだけを忠実に実行し、新しい発明や発見はどんどんなくなり、国力はますます衰退の一途を辿るような気がします。なぜなら優秀な人はしらけるだろうし、能率の悪い仕事はさせないことが管理者としてやらざるを得なくなるでしょうからです。
この問題を解決する一つは、賃金体系を労働内容により変えることかもしれません。日本にはブルーカラーとホワイトカラーの区別があまりありませんが、これからは欧米のように明確に分けることが必要かもしれません。欧米のビジネスエリートは労働組合にも属さないし、時間外手当といった概念もないようです。自分の仕事に対して年俸○○といった自営業と同じ扱いになるのかもしれません。いずれにしてももっと会社と言うビジネスの環境を活用して自主的に自分の技術や技能を磨くための時間を若い人達に与えてもよいのではないでしょうか。それはサービス残業でも残業でもなく、自分自身への投資の時間だと思います。
自分の若い頃を美化するつもりもありませんが、夜遅くまで調べ物をしたり、機械を試験したりしながら自分の勉強をできたことをありがたく思ってます。今ではそんなことをしていたらサービス残業になるから早く帰ってくれと言わざるを得ません。あまり表面ずらのルールを押し付ける国もどうかなと思った次第です。何事も中庸です。
こんなことを書くと労働組合から何を言われるかわかりませんが、組合のあり方もあまり画一的なりすぎても時代に合わなくなってしまうでしょう。なにしろ大工場で大量生産する時代から確実に世の中は変わってきているのですから。
今日はこれまでです。
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