”しんさん”のよもやま話

僕のビジネス感や社会現象に対する意見とかを趣味のヨットやゴルフ等の話を織り交ぜながらよもやま話的に発信します。

しんさんのよもやま話・・・ビジネス編

2006年05月03日 19時42分53秒 | ビジネス

5月3日(水)晴
今日は憲法記念日です。戦後の昭和22年5月3日に戦争放棄を謳った日本国憲法が発布された日です。以来60年近く守られてきた憲法ですが、最近改正の動きがいろいろ取沙汰されています。改正とは正しく改めることを言いますが、どこかの国の意向によらず、より人の為になる正しさを持った日本人としての自主独立的な憲法にして行ってほしいものです。

ところで私の技術屋ビジネスライフの続きですが、入社1年後に3つ目の職場である東京大手町の事務所に通うようになりました。ここでは会社の設備の設計を担当しているところでした。またまたよくわからない仕事をするわけですが、僕は転勤に伴い昇格していたので新入社員とも言えないけど聞かないとなにもわからない厳しい状況にありました。ただ先輩のO氏に本当によく面倒みていただきました。O氏は宇都宮から大手町まで通っていたのですが、よく自分の家に僕を呼んでくれて食事等ごちそうになってました。彼が僕によく言っていたことは”お前が俺に世話になったと思うなら、それはお前が世話をできるようになった時の部下や後輩に恩を返せばいい
。”この言葉は僕の常識にはない言葉でしたが、すごく新鮮でした。世話になったお礼は自分にしなくてもよいから、世話をできる立場になったときの部下や後輩に返せ。そうやって人間社会は回っているものなのだ。後に僕が若い人達を”たこ焼きパーティ””茶摘み””ヨットクルージング”等誘うのには、自分が若い頃お世話になった方たちへの恩返しでもあるのです。人間は何か良いことをするとその見返りをほしくなるものですが、O氏のように良いことの輪が広がっていくような生き方ができたらいいなと思います。
さてここでのビジネスライフも失敗ばかりで、私が始めて設計した千葉県八日市場の施設は8千万円の工事だったのですが、細かい端子板の数が全然足らなかったり、配線を間違えていたりで詳細設計を担当している部門から苦情を一杯もらいましたがその都度上司のI氏やH課長が調整してくれていました。H課長は僕が配属した時に電車の中だけでもよいから本を読め、読む本は小説ではなくエッセイを読めと言われ、どっちが多く読めるか競争しようとまで言われてました。そして時々何冊読んだと聞いてくるわけです。まじめな僕としては、ちょっとは読まずにいられず、エッセイを読むようになったのです。でもおかげで僕は今でも地下鉄の中で本を読むようになっています。このブログでも何冊かビジネス書を紹介していますが、ほとんど毎日の通勤地下鉄の中で読んだものです。学生時代、読書ぎらいだった自分が30年近く通勤時だけの読書をいまだに続けている原点はこのH課長にあります。
H課長を筆頭にI係長・O先輩・IさんやUさんみんな仕事はきつかったけど、いい人たちの中で半人前になったと思います。競馬は日曜出勤で、IさんやUさんの買う馬券を場外売り場に使い走りすることから覚えました。以来三重勤務になるまでギャンブルは競馬ひとすじでした。競馬をやめてからはパチンコひとすじです。ギャンブルはあれもこれもやりだしたら多分お金がいくらあっても足りないので一つにしておくのが良い遊び方だと思います。女遊びは残念ながらしたことないのでよくわかりません。と言うか誰も教えてくれなかったのです。でも神田の飲み屋はよく連れて行ってもらいました。いつも三吉と言うヤキトリ屋ばかりでしたけど。(課長が好きだったため)たまにIさんやUさんにキャバレーとか連れて行ってもらったのですが、うまく話ができず水割りを飲んでばかりでいつもすぐにつぶれていました。実は当時ほとんど酒が飲めなかったのです。たいがい神田ステーションホテル(ビジネス旅館)に担ぎ込まれ、朝8時になると仲居におこされてました。もちろんみんなは僕をホテルに預けて帰宅しているのですが。そして宿代は当然ながら自腹で解決です。当時は職場のみんなが飲兵衛だったのでよく誘われていきましたが、いつも変な所ばかりでうなぎの頭だけを串に刺してヤキトリにしたのだとか、かえるやへびの肉とかで食べることもできないような所だとかでした。いつも今度はもうちょっとましな所だからと言われて行くとまた変なところで苦労しました。やはり神田は三吉のヤキトリが一番安くてうまかったです。もう30年も前の話ですから店そのものがなくなっているとはおもいますが、なつかしいところです。
僕はこの職場にいる時に結婚しました。みんなから記念にいただいた壁掛け式の時計はいまだに動き続けています。多分あのメンバーだったから結婚する気になったと思います。披露宴にもみなさん静岡まで来て頂き助かりました。それから半年後には父が亡くなり、またまたI係長はじめみんなに迷惑をかけてしまったのです。さらに長女の誕生でもお世話になったのです。この入社2年目3年目の時は本当に職場でお世話になった時期でもありました。ただその恩返しは何もできていない自分は薄情な人間かもしれませんがO氏の言葉に甘えて、10年後ぐらいから自分の周りで人に喜んでもらえることがあれば当時の恩返しだと思ってやっています。
その後僕は研究所勤務を命ぜられ、武蔵野・三鷹に赴任することになったのでした。この続きはまた明日書きましょう。ではまた。

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