日本家庭科教育学会近畿地区会で8月に講演した内容概要は以下の如し。
住まいを舞台として家庭生活を総合的に考える
西村 一朗(平安女学院大学・教授、
奈良女子大学名誉教授、
NPO法人地域支援研究フォーラムなら)
はじめに―問題意識―
家庭科の教科書(例えば高校)を一例としてみてみると、家庭生活―衣食住、家族生活等―を扱ったところでは、家族生活は別扱いで、衣食住に関しては、「食」「衣」「住」の順になっており、かつそれぞれのページ数が、実習のありなしもあるが、やはりこの順である。これだと、日本史で明治以降の近代、現代まで到達しない場合がしばしばなのと同じく住に到達しないうちに家庭科が終わってしまうのでは、と心配になる。
そこで、住まいを舞台と考え、その上で「衣食住、家族生活」のドラマが展開していると捉える方法がないのかな、と考えてみた。
住まい舞台と食生活
食の流れを考えると、農山漁村で食材が採れ、それらが流通経路を経て住まいに至る。(食物のことを考える場合、何処でそれらが採れるか―自然農業や有機農業をどう考えるか・・・―、どう身近に到達するか考えさせるのも大事)それらの食材は、住まいでは先ず「貯蔵」される。冷蔵庫・冷凍庫といった貯蔵設備が一般化しているが、「食品庫」、食品置き場という空間も必要と考えられる。例えば、地産地消で、泥付き大根などは何処に置いたらよいか。一度に買いだめるジャガイモや玉葱等は何処におくのか。土間空間が、段々少なくなっている住まいを考え直すいいチャンスではないか。
次に冷蔵庫や冷凍庫であるが、「貯めて捨てる」のではなく、無駄なく食材を使い切る工夫も必要なのではないか。食材を調理する台所であるが、一人で効率よく台所作業が出来る、といった人間工学的取り組みも大事だが、今後は、親子が肩を並べたり、夫婦が肩を並べたり、友人同士が肩を並べて調理できる台所が必要なのではないか。
配膳し、食べる場面だが、最近「早寝、早起き、朝ごはん」などと言って朝ごはんを食べようという運動もあるようだが、少なくとも日に一回位は、家族そろって食べる機会を設けるべきだろう。これは、食生活の問題であるとともに家族関係の問題でもある。
そして、後片付けであるが、これは家族全員で取り組む問題ではないか。これは、家庭生活でも行為の切れ目はきちんとすることでもある。残った食物は、どうするのか、単に捨てるのか、「コンポスト」などに回して有機肥料とするのか、何処でそれをするのか、舞台装置を考えねばなるまい。
(どういう食品を食べたらよいか、栄養学的問題や、どう美味しく調理したらよいか、調理学的問題は、食固有の問題として教育すべきは論をまたない。)
住まい舞台と衣生活
衣の住まい舞台での流れを考えると、何処に納めてあり、何処で着て、何処で脱いで、洗濯はどうするか。それらの洗濯前後の流れはどうか、などの問題があるだろう。下着を例に、拙宅での考え方を一例として述べてみる。
二階に浴室を設け(寝室隣接型)、洗濯機を脱衣室に置いた。脱衣室に下着収納棚(ドア付)がある。干し場も二階ベランダとした。下着の動きを見てみると、浴室に入る時、下着を脱ぎ洗濯機に入れる。洗濯機での洗濯・脱水のあと二階のベランダに干す。乾いたものは寝室でたたんで、脱衣室の下着収納棚に収める。浴室で入浴の後その下着収納棚から新しい下着を取って着る。これで、下着が脱がれて選択され干され整理され再度着られるのであるが、この下着の一回転・処理は二階のみで行われている。庭付き戸建て二階建では、一般に一階の南側にリビングルームがあり、南側庭空間の一部に洗濯物干し場がある場合が多い。これだとリビングルームからの南側の眺めが必ずしも良いとは言えない。これに対して先に説明した二階のみで洗濯物を処理するやりかたが一つの「解」ではないか。
(繊維の質や、洗濯・洗浄のメカニズムは固有の問題であろう)
住まい舞台と家族生活
子どもの部屋をどう考えるかは、住まいにおける家族関係の問題でもある。小学校に入ったら自動的に親が子どもに子ども部屋を与えるのは、問題ではないかと考える。その時点では、一般に子どもが子ども部屋を切実に要求している訳ではない。だから、一つの考え方として、子どもが「部屋が欲しい」と切実に要求したら、その理由も良く聞いて与えたらどうなのか、と考える。そうすれば、子どもに「子ども部屋の掃除、整理等の管理」を義務付けることも可能であろう。自動的に親が与えた場合は、子どもは「別に欲しいと言っていないのに・・・」と管理を逃げる場合もある。
次に、子どもの「子ども部屋引きこもり」の問題について考えてみる。先ず、家族構成員の日々行っている行動が、歴史的に「ばらばら」になってきたことを考える必要がある。昔は、例えば農業にしろ商業にしろ家族で協力してやってきたのに、最近では、言ってみれば「お父さんは仕事の人、お母さんは家事の人、僕や私は勉強の人」となり行動が「ばらばら」になってきた。共同の行動が、それをする人間同士の理解を深める。だから例えば家事等を分担・協力し、全体として共同行動したらどうか。そのためには、台所の空間も変えていく必要があろう。
他に居間や食堂など家族員が集まる空間にするためには、子どもたちの「匂い」を付けて、例えば自分が選んだ椅子などを置いて、「引力」を働かせて出てきてもらう方法もあるかもしれない。
住まい舞台と福祉・高齢者生活
住まい舞台での高齢者問題というと、「バリア・フリー化」の問題と思われがちであるが、高齢者が増え、住まいでの生活期間、時間も長くなってくると、住まいは、高齢者の福祉空間、療養空間としても捉える必要が出てきている。
昔から高齢になり退職などすると、「隠居」となり、住まいにおいても「離れ」等にそれこそ「隠居」するイメージであったが、それは拙くて、むしろ外部との「つながり」を維持する「顕居(けんきょ)」が良いと考える。具体的には、自ら外出しやすいように、又外との交流がしやすいように空間的位置などを考える必要がある。
また、医療関係者や、福祉関係者が当該高齢者等の居場所にアプローチしやすいように、他の家族成員の生活をディスターブしないよう考慮しなければなるまい。
住まい舞台と「市民サロン」など
高齢者が、住まいに「居たきり」になるのは「寝たきり」の前段階とも言えよう。やはり、人間は、動物なのであるから、日に一度位は外出することが気晴らし上も大切である。社会的に「デイサービス」施設もあるが、個々人で言わば「市民サロン」を開設している例も出てきている。言ってみれば「地域に開かれた」住まいの一種である。将来の生活の予測と実現、対応する生活舞台のあり方の予測と実現が大切となるだろう。
終わりに
以上、住まいを生活の基本舞台と考えて、個々の生活の諸側面を動かせて、その舞台がそれらの生活ドラマに適当な方向かどうか、をいくつかの例で検討してきた。今後、共同で知恵を集めて、以上の問題意識に立って生活と舞台との関係を体系化していきたいものだ。先ず、住まいを基本舞台とし、次に地域を発展舞台と考えていこうではないか。(2008年10月15日付けで増補修正)
住まいを舞台として家庭生活を総合的に考える
西村 一朗(平安女学院大学・教授、
奈良女子大学名誉教授、
NPO法人地域支援研究フォーラムなら)
はじめに―問題意識―
家庭科の教科書(例えば高校)を一例としてみてみると、家庭生活―衣食住、家族生活等―を扱ったところでは、家族生活は別扱いで、衣食住に関しては、「食」「衣」「住」の順になっており、かつそれぞれのページ数が、実習のありなしもあるが、やはりこの順である。これだと、日本史で明治以降の近代、現代まで到達しない場合がしばしばなのと同じく住に到達しないうちに家庭科が終わってしまうのでは、と心配になる。
そこで、住まいを舞台と考え、その上で「衣食住、家族生活」のドラマが展開していると捉える方法がないのかな、と考えてみた。
住まい舞台と食生活
食の流れを考えると、農山漁村で食材が採れ、それらが流通経路を経て住まいに至る。(食物のことを考える場合、何処でそれらが採れるか―自然農業や有機農業をどう考えるか・・・―、どう身近に到達するか考えさせるのも大事)それらの食材は、住まいでは先ず「貯蔵」される。冷蔵庫・冷凍庫といった貯蔵設備が一般化しているが、「食品庫」、食品置き場という空間も必要と考えられる。例えば、地産地消で、泥付き大根などは何処に置いたらよいか。一度に買いだめるジャガイモや玉葱等は何処におくのか。土間空間が、段々少なくなっている住まいを考え直すいいチャンスではないか。
次に冷蔵庫や冷凍庫であるが、「貯めて捨てる」のではなく、無駄なく食材を使い切る工夫も必要なのではないか。食材を調理する台所であるが、一人で効率よく台所作業が出来る、といった人間工学的取り組みも大事だが、今後は、親子が肩を並べたり、夫婦が肩を並べたり、友人同士が肩を並べて調理できる台所が必要なのではないか。
配膳し、食べる場面だが、最近「早寝、早起き、朝ごはん」などと言って朝ごはんを食べようという運動もあるようだが、少なくとも日に一回位は、家族そろって食べる機会を設けるべきだろう。これは、食生活の問題であるとともに家族関係の問題でもある。
そして、後片付けであるが、これは家族全員で取り組む問題ではないか。これは、家庭生活でも行為の切れ目はきちんとすることでもある。残った食物は、どうするのか、単に捨てるのか、「コンポスト」などに回して有機肥料とするのか、何処でそれをするのか、舞台装置を考えねばなるまい。
(どういう食品を食べたらよいか、栄養学的問題や、どう美味しく調理したらよいか、調理学的問題は、食固有の問題として教育すべきは論をまたない。)
住まい舞台と衣生活
衣の住まい舞台での流れを考えると、何処に納めてあり、何処で着て、何処で脱いで、洗濯はどうするか。それらの洗濯前後の流れはどうか、などの問題があるだろう。下着を例に、拙宅での考え方を一例として述べてみる。
二階に浴室を設け(寝室隣接型)、洗濯機を脱衣室に置いた。脱衣室に下着収納棚(ドア付)がある。干し場も二階ベランダとした。下着の動きを見てみると、浴室に入る時、下着を脱ぎ洗濯機に入れる。洗濯機での洗濯・脱水のあと二階のベランダに干す。乾いたものは寝室でたたんで、脱衣室の下着収納棚に収める。浴室で入浴の後その下着収納棚から新しい下着を取って着る。これで、下着が脱がれて選択され干され整理され再度着られるのであるが、この下着の一回転・処理は二階のみで行われている。庭付き戸建て二階建では、一般に一階の南側にリビングルームがあり、南側庭空間の一部に洗濯物干し場がある場合が多い。これだとリビングルームからの南側の眺めが必ずしも良いとは言えない。これに対して先に説明した二階のみで洗濯物を処理するやりかたが一つの「解」ではないか。
(繊維の質や、洗濯・洗浄のメカニズムは固有の問題であろう)
住まい舞台と家族生活
子どもの部屋をどう考えるかは、住まいにおける家族関係の問題でもある。小学校に入ったら自動的に親が子どもに子ども部屋を与えるのは、問題ではないかと考える。その時点では、一般に子どもが子ども部屋を切実に要求している訳ではない。だから、一つの考え方として、子どもが「部屋が欲しい」と切実に要求したら、その理由も良く聞いて与えたらどうなのか、と考える。そうすれば、子どもに「子ども部屋の掃除、整理等の管理」を義務付けることも可能であろう。自動的に親が与えた場合は、子どもは「別に欲しいと言っていないのに・・・」と管理を逃げる場合もある。
次に、子どもの「子ども部屋引きこもり」の問題について考えてみる。先ず、家族構成員の日々行っている行動が、歴史的に「ばらばら」になってきたことを考える必要がある。昔は、例えば農業にしろ商業にしろ家族で協力してやってきたのに、最近では、言ってみれば「お父さんは仕事の人、お母さんは家事の人、僕や私は勉強の人」となり行動が「ばらばら」になってきた。共同の行動が、それをする人間同士の理解を深める。だから例えば家事等を分担・協力し、全体として共同行動したらどうか。そのためには、台所の空間も変えていく必要があろう。
他に居間や食堂など家族員が集まる空間にするためには、子どもたちの「匂い」を付けて、例えば自分が選んだ椅子などを置いて、「引力」を働かせて出てきてもらう方法もあるかもしれない。
住まい舞台と福祉・高齢者生活
住まい舞台での高齢者問題というと、「バリア・フリー化」の問題と思われがちであるが、高齢者が増え、住まいでの生活期間、時間も長くなってくると、住まいは、高齢者の福祉空間、療養空間としても捉える必要が出てきている。
昔から高齢になり退職などすると、「隠居」となり、住まいにおいても「離れ」等にそれこそ「隠居」するイメージであったが、それは拙くて、むしろ外部との「つながり」を維持する「顕居(けんきょ)」が良いと考える。具体的には、自ら外出しやすいように、又外との交流がしやすいように空間的位置などを考える必要がある。
また、医療関係者や、福祉関係者が当該高齢者等の居場所にアプローチしやすいように、他の家族成員の生活をディスターブしないよう考慮しなければなるまい。
住まい舞台と「市民サロン」など
高齢者が、住まいに「居たきり」になるのは「寝たきり」の前段階とも言えよう。やはり、人間は、動物なのであるから、日に一度位は外出することが気晴らし上も大切である。社会的に「デイサービス」施設もあるが、個々人で言わば「市民サロン」を開設している例も出てきている。言ってみれば「地域に開かれた」住まいの一種である。将来の生活の予測と実現、対応する生活舞台のあり方の予測と実現が大切となるだろう。
終わりに
以上、住まいを生活の基本舞台と考えて、個々の生活の諸側面を動かせて、その舞台がそれらの生活ドラマに適当な方向かどうか、をいくつかの例で検討してきた。今後、共同で知恵を集めて、以上の問題意識に立って生活と舞台との関係を体系化していきたいものだ。先ず、住まいを基本舞台とし、次に地域を発展舞台と考えていこうではないか。(2008年10月15日付けで増補修正)