今から45年前、私が28歳で、豊田工業高専に勤務していた頃、『朝日新聞』名古屋本社版1970年1月7日夕刊5面の片隅に「研究ノート」として書いた「住宅企画展開過程と「情報」」のコピーが書斎の片隅から出てきたので、将来書こうと考えている「自分研究史」の資料として、ブログ等に書き写しておきたい。
コピーではなく「書き写し」であるのは、一字一文を思い起こしてみたい、とも思ったからである。
住宅企画展開過程と「情報」 西村 一朗
私は住宅の供給方式について少少研究してきた。そして今後もしてゆくつもりであるが、その場合、最も大切な前提作業の一つとして住宅需要の状態を把握(はあく)することがある。それは普通、顕在需要と潜在需要に分けられ、それぞれの内容、潜在需要から顕在需要への転化過程などが問題とされる。これらはいわば「マス」として把握され「マス的」-真のマスとは言えないが-公共供給のために活用されて来た。私は、需要と供給の対応という「第三者的見方」から一歩前進して需要を供給へと接続・展開してゆくための一つの方法論ととして住宅需要を個々の「住宅企画展開」として把握したいと思っている。
すなわち「流動化」し「都市化」しつつある現状において、一般的には個人の住宅企画はきわめてソフトな状態から、いろいろな「情報」を獲得し、いろいろ「学習」しつつハードな状態へと移行するという風に認識するのである。従って「住宅企画展開過程」は「住宅情報収集過程」であると同時に「住宅企画学習過程」となるが、ソフトな段階-ロジャースの「技術革新普及過程」の段階分類を使うと認知、関心、評価の段階ということが出来よう-において、相互検討が加わるなら、現在のマス供給あるいは個人住宅獲得努力は新しい次元でもっと合理的に生かされるだろうと思われる。
そのためには「住宅情報」をいわゆる「情報化社会論」で問題となっているような「商品化」された「情報」以外のところにも求め、創造的「学習」を行うことが緊要であるといえる。(豊田工業高等専門学校講師・建築学)
当時、私は名工大の服部千之先生の研究室に出入りして調査研究をしていた。建築学会東海支部の都市計画委員会では、名大の早川文夫教授を委員長とし、名工大の服部千之・助教授を幹事長とし、幹事・委員として日本住宅公団の長峰晴夫さん、玉置伸吾さん、名古屋市の松尾博雄さん、名大の佐藤圭二さん、名工大の桜井大吾さんらを擁していた。私も末席で参加していた。
だがこの年の4月に私は京大・助手(三村浩史研究室)に移って、上記の問題意識は一時棚上げとなった。この問題は、少し構え方が違うが、後に巽 和夫先生が精力的に取り組まれた。
コピーではなく「書き写し」であるのは、一字一文を思い起こしてみたい、とも思ったからである。
住宅企画展開過程と「情報」 西村 一朗
私は住宅の供給方式について少少研究してきた。そして今後もしてゆくつもりであるが、その場合、最も大切な前提作業の一つとして住宅需要の状態を把握(はあく)することがある。それは普通、顕在需要と潜在需要に分けられ、それぞれの内容、潜在需要から顕在需要への転化過程などが問題とされる。これらはいわば「マス」として把握され「マス的」-真のマスとは言えないが-公共供給のために活用されて来た。私は、需要と供給の対応という「第三者的見方」から一歩前進して需要を供給へと接続・展開してゆくための一つの方法論ととして住宅需要を個々の「住宅企画展開」として把握したいと思っている。
すなわち「流動化」し「都市化」しつつある現状において、一般的には個人の住宅企画はきわめてソフトな状態から、いろいろな「情報」を獲得し、いろいろ「学習」しつつハードな状態へと移行するという風に認識するのである。従って「住宅企画展開過程」は「住宅情報収集過程」であると同時に「住宅企画学習過程」となるが、ソフトな段階-ロジャースの「技術革新普及過程」の段階分類を使うと認知、関心、評価の段階ということが出来よう-において、相互検討が加わるなら、現在のマス供給あるいは個人住宅獲得努力は新しい次元でもっと合理的に生かされるだろうと思われる。
そのためには「住宅情報」をいわゆる「情報化社会論」で問題となっているような「商品化」された「情報」以外のところにも求め、創造的「学習」を行うことが緊要であるといえる。(豊田工業高等専門学校講師・建築学)
当時、私は名工大の服部千之先生の研究室に出入りして調査研究をしていた。建築学会東海支部の都市計画委員会では、名大の早川文夫教授を委員長とし、名工大の服部千之・助教授を幹事長とし、幹事・委員として日本住宅公団の長峰晴夫さん、玉置伸吾さん、名古屋市の松尾博雄さん、名大の佐藤圭二さん、名工大の桜井大吾さんらを擁していた。私も末席で参加していた。
だがこの年の4月に私は京大・助手(三村浩史研究室)に移って、上記の問題意識は一時棚上げとなった。この問題は、少し構え方が違うが、後に巽 和夫先生が精力的に取り組まれた。