西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

有料老人ホーム「アクティバ」の視察記録

2010-05-11 | 訪問場所・調査地
最近、過去日記をどうしようか、考えている。実はノートなどに摘要を大分前から書いているが、パソコン(前は「ワープロ」)で書き出したのは1988年(昭和63年)2月10日であり、22年前である。

で、その年の日記によると、2月21日(日)にアルパックの霜田 稔さんと滋賀県湖西の雄琴にあった有料老人ホーム『アクティバ』に見学に行った。同行したのは木下さん夫妻(元宇治市職員)、松井さん(元アルパック)の奥さんである。

(以下聞き取りより)この施設は老人医療に携わっていた医師・今井幸一さん(茨木市)が老人用居住施設をつくろうと6年前(=1982年)にプロジェクトチームを発足。ヨーロッパを調べたが日本とギャップが大きすぎ、アメリカの民間施設を参考とすることとなった。アメリカの施設はほとんど湖の傍に建っていた。湖の傍は気候温和、気分爽快ということで日本で数十ヶ所調べ最後に琵琶湖と浜名湖が残った。

結局、大阪、京都に近い琵琶湖となった。雄琴は、ある意味でイメージが悪いが長い目では「歴史的温泉地」となり大丈夫となったという。(木下さんの話では琵琶湖西岸が正解で、東岸は駄目であるとのこと。何故なら老人に昇る朝日を見せても良いが沈む夕日は禁物とのこと)

全部で60数億円の事業費、建設費だけで40数億円である。1万坪の敷地に6000坪の建物。6階建て。やはり集合住宅のほうが老人ホームとして合理的か。普通のベースではとても高くつくので施工の間組にも浴室施設の松下電工にも協力を要請した。浴室は「実用新案[特許]」にて共同で売り出すらしい。

昨年(1987年)7月に完成(隣りのクリニックは9月となる)して181室の内80室が契約済み、現在40戸が入居している。2期工事としてあと100戸位つくると言う。

5戸のみ夫婦で、後は単身であり女性が多い。平均70歳過ぎ。前歴は社長、経営者、医者、学校の先生など。中にはオペラ歌手もいるという。

(経営は)利用権購入方式の株式会社で部屋の大きさにより2000万円より5000万円までである。その他に月10数万円の費用(管理、食費、光熱水費など)がかかる。月費用は厚生年金の範囲内。

入居にあたって親子のトラブルもあるらしい。利用権のため死んだら終わり(没収される)のため、子どもとしては全然財産にならないこと、(また)やはり「老人ホーム」に親を追いやったことに個人的に世間体からの抵抗があるとのことだった。


国際健康村『アクティバ』自身の施設内容は、かなり良く考え抜かれていると思った。国際、と銘打っているのは社長弟はアメリカ住まいが長く、その線にてハワイの同じような老人ホームと提携してお互いにゲストルームを開放し合おうということである。

また、普通はコミュニティ部分と個室部分が3対7なのに対して、ここでは4対6にした。ホテル部門、レストラン、バー、喫茶部門等があり。近隣の人も利用できる部分がかなりある。カルチャーセンターもあり。

となりの「クリニック」には入院施設もあり。寝たきりになれば、そちらに移行出来る。入浴サービスは送り迎え付で4500円/回で安い。


現在、どうなっているのか、「22年後の訪問」などしてみたい。ご存知の方、コメントをどうぞ。


三重県・湯の山温泉に浸かるなど

2009-12-05 | 訪問場所・調査地
昨日、一昨日と三重県の菰野町(こものちょう)の湯の山温泉等に行った。

それは、妻の兄弟4人の4組の夫婦で毎年やっている一泊の忘年会のためである。最高81歳の義兄夫婦、最年少が私と妻である。一つ上の義兄と奥さんの歳を足すと実は我々二人の歳合計と同じなのであるが・・・。

行きも帰りも近鉄を使った、行きは大和八木から四日市まで特急、四日市から湯の山線、単線の各駅停車である。湯の山温泉駅は終点だ。高の原から湯の山温泉まで、ほぼ3時間だった。私には初めての訪問だ。

湯の山温泉では、新・湯の山温泉の「グリーン・ホテル」に泊まった。料理もグー、温泉もグー、部屋やサービスもグーだった。部屋は5階、窓は東に面し、朝の6時45分に伊勢湾を越えて知多半島の地平線に太陽が昇るのが目撃された。

温泉はアルカリ単純泉、40℃位のぬるめの所にゆっくり浸かった。夕食前と寝る前に浸かったのだ。体を温めるのは身にも心(リラックス)にも良いと思う。日本人が「長生き」の一つの理由は、温泉、風呂に親しんでいることではないだろうか。

夕食、二次会の話題は、新政権の評価などのこと、年金のこと、後期医療制度のこと、健康のこと、趣味等でやっていること(次兄がバード・カービングで入賞・・・)、孫たちのこと、昔の思い出、海外旅行のことなどなど大いに喋った。

次の日(昨日)は、朝9時に出発して晴れていたので御在所岳のロープウエーに乗って頂上まで行った。このロープウエーは50年ほど前に出来ている。400メートルから1212メートルまで800メートル程を一気に登る。平均30度位の勾配、今日は風速10メートルの風が吹いていたので、何時もより遅く15分位かかった。

頂上からは北方から東方にかけてアルプスが遠望できる。下ってから、同じ町内の「paramitamuseum(パラミタ美術館)」に行った。2003年の開館、池田満寿夫さんの陶彫「般若心経シリーズ」などのコレクションを持つ。

「パラミタ」とは、般若心経の「はんにゃはらみた・・・」に由来する。当日は、池田満寿夫さんの常設展示の他、企画展として写真家の南川三治郎さんの40年の軌跡を展示してあった。その「巨匠のアトリエ」で、小倉遊亀さんにも出会えた。

昼食で、近くの食堂で蕎麦を食べて来年は、京都でやろうと決めて解散した。

私達は、一旦、名古屋に出て娘家族の家に行き、孫三人の顔を見て、また名古屋駅から近鉄特急を使って帰宅した。近鉄名古屋駅前の売店で買い、車中で食べた、あつあつ握りたての握り飯も美味しかった。


パリのこと一二

2009-05-27 | 訪問場所・調査地
「花の都」パリには、私は過去4,5回行っている。

昨日、bshiテレビで「フランス縦断の旅」(再放送)をやっていたので見た。

それで心に残ったこと一二メモしておく。セーヌ川を船でエッフェル塔の辺りからシテ島のノートルダム大聖堂まで行く途中、「ポン・ヌフ」橋というのがある。意味は「新しい橋」だが、「パリで一番古い橋だ」という。

これは、どういうことかと言うと、それまでの橋は、橋の上の両側に建物を造っていて橋の上からセーヌの川面が見えなかったのだが、この橋から、それらの建物を取り払って橋からセーヌが見えるようになったのだ。だから「ポン・ヌフ」(新しい橋)なのである。(1604年完成)

それ以来、他の橋も見習って建物を取り払った結果、「ポン・ヌフ」橋が一番古い橋になってしまったのだ。

もう一つ、パリの発祥の地は、シテ島である。今でもパリ20区の第1区である。シテ島のノートルダム大聖堂の前にフランス各地までの距離を測る原点がある。お江戸日本橋のような所でもあるのだ。
そこからエスカルゴのように渦巻き状に外側に三重に伸び第20区まである。

都市を「渦巻き状」に展開するのは面白い。パリで活躍したル・コルビュジェは「永久に成長するまち」を「渦巻き状」に考えていたようだ。


夏休み、孫の来襲にそなえて

2008-07-25 | 訪問場所・調査地
やはり、8月中旬に娘夫婦と三人の孫がやってくる。妻(お祖母ちゃん)は何やかやと名古屋往復しているが、私(お祖父ちゃん)は、今のところ行く間もなく、長期休暇に「迎え撃つ」のみである。一番目の孫(男小六)、二番目の孫(女小一)とは、「付き合いが長く」なりつつあるが、一番下の孫(男一歳四ヶ月弱)は、ハイハイから「立っち」に移行しているが、「立っち」を見るのは初めてだ。どういう風に「付き合い」に入っていったら良いか・・・。

まあ私の娘の場合「一人っ子」だったこともあり、小学校に入った頃より、夏休みに毎年国内旅行をしていた。近くは伊勢志摩、伊根町、少し足を伸ばして広島、大山、箱根、NHK+岩崎ちひろ美術館などに行った。孫対象のそういう旅行は、今後、娘夫婦に任せて、私達祖父母は近場で色々行ったらと思っている。「けいはんな学研都市」の「仕事館」、「水景園」、精華町図書館、京田辺の一休寺、まあイオンのシネマにも上の二人連れて一回は行こうかな。一番下の子に奈良の鹿を見せるのもいいかな・・・、中々「計画案」が固まらない。

ああそうそう、絵本の読み聞かせもしてやらなくっちゃ・・・。


まちの「表と裏」を見る

2008-06-22 | 訪問場所・調査地
最近、多田富雄さん(免疫学者、東大名誉教授)が、『朝日新聞』の「!聞く」欄に「闘病記+社会批評」を連載しておられ愛読している。

で、⑧に「その国の真実の姿を見る」というのがあって、読んでみて、自分の体験にも照らして「そうだな」と思った。

引用「私は、よく旅行もしました。国際学会のついでに、遠回りしました。そこで専門分野とは無関係のことも見聞し、目を開かれました。1960年代にアメリカに留学しましたが、貧民街を歩くのが好きでした。アフリカでも、あまり人の行かない難民のキャンプやスラムも歩きました。ずいぶん危ない目にもあいました。スラムのバーで、ナイフで脅されたこともあります。こうした体験は、その国を理解するヒントになりました。・・・私が好んでスラム街を歩くのも、そこに上っ面の観光やビジネス旅行では見ることのできないその国の真実の姿があるからです。」

私は1960年代に豊田高専に就職して「都市計画」の科目も担当したが、ある時、何人かの学生がニューヨークに短期に派遣されて、まちを見て帰ってきた。その帰国談を聞いたのだが、それこそニューヨークの表通りを歩いた話だった。私は「ウェストサイド物語」のような所は行かなかったのか、聞いてみたが、どうも行かなかったようだ。私は、ルイス・マンフォードの『都市の文化』のようにまち全体を歩き回らないと本当の姿が分からないのでは・・・、とコメントしたことを思い出す。

その後、ロンドンに10ヶ月滞在した時、同じ頃におられた先輩の三宅 醇さんと危ないめをして、ヴァンダリズムのまちに出かけて写真を撮ったこと、その後、家族で夏休みに短期の滞在をした時、友人だったMichael Hebbert(マイケル・へバット当時LSE講師、現マンチェスター大学教授)さんの家(Lime House地区)に2週間住んで貴重な体験だった。(家族体験は、拙著『キラッと輝くいい住まい』所収)
そのLime House地区はロンドンの「イースト・エンド」で普通の観光地図には載っていない所である。普通のロンドンの観光地図の東端は、ロンドン塔であり、それより東もロンドン市なのだが、普通の観光客は近づかない所なのだった。

奈良女子大にいた時も、海外に出かける学生・院生に、上記のような体験を話しつつ、まちの表と裏を見るべし、と原則を言いつつ、やはり若い女性は危ないこともあるので、複数で行くとか、危険度を見極め「止めることも勇気」と言っていた。

奈良県立図書情報館に行く-利用者登録とトイレ-

2008-06-08 | 訪問場所・調査地
妻が「調べ物」のため奈良県立図書情報館に行きたいという。私は出来上がる3年以上前に一度見に行ったことがあるので、ナビゲーターで一緒に行った。

行きは、国道24号線で南下、「柏木」交差点まで行って左折、最初の信号で再び左折、大安寺西小学校の北隣が、奈良県立図書情報館である。昔「大池」という溜め池があった所を埋め立てた敷地だ。

2階のカウンターで聞くと、別に奈良県民でなくとも利用者になれるというので、たまたま「保険証」があって身分証明できたので、京都府民の私は利用者カードを作ってもらった。この「図書情報館」には50万冊の蔵書、様々な「電子情報」も蓄積しつつあり、ネットで接続して検索等もできるらしい。

ちょっと開架部を見て回って「戦争体験記」関連が5万冊あると聞いて、それがここの一つの「売り物」だな、と思った。今日は時間がなく、ゆっくり回れなかったが、今度ゆっくり見て回りたい。

もう一つ気付いたのは、トイレについて、である。昨日だか、個人住宅のトイレにおける手洗い空間について書いて、便器のすぐそばになければならない、と論じた。トイレットペーパー24枚をも貫く大腸菌をすぐに洗い流すには、その必要があるからだ。で、そのことが頭にあって、この施設の公共トイレに入ってみて、大便器のすぐそばに手洗いがあるべきだと、思ったが、実際は、トイレ個室を出てから少し離れて手洗いが並んでいるのであった。これでは、大腸菌(単なる大腸菌ではなくO-157菌が恐い)がパンツやズボンについてしまう。こういうことまで考えた公共トイレは未だ皆無ではなかろうか。

帰りは、前の道を北上して、奈良市役所前に出て、帰った。バスで行くなら、近鉄・新大宮から、「エヌシーバス」で行くことができる。

東京の鉄道空間ー立体開発等

2007-12-11 | 訪問場所・調査地
今日、東京に出張、JR市ヶ谷駅まで行った。行きは、東京駅から山の手線で秋葉原まで行って総武線(各駅停車)に乗換えて市ヶ谷まで。帰りは、市ヶ谷から総武線で御茶ノ水まで行きホーム向い側の中央線に乗り換えて東京まで行く。中央線の東京駅ホームは高くてエスカレータも長い。うーん東京ではエスカレーターの左側に立つんだな、関西やロンドンの右側立ちと違うな、いつか友人のFUTANさんも言っていたな、と思い出す。新幹線東京駅のホームから見ると丸の内側の赤レンガの東京駅建物は低く「沈んでいる」ようだ。東京駅では、地下ホームもあって、狭い空間を立体開発している、と改めて認識した。

恭仁宮(くにきゅう)跡周辺散歩-1

2007-11-26 | 訪問場所・調査地
先日の日曜日、小春日和で気温も上がって温かだった。地域SNSの友人3人と我々夫婦の5人で、木津川市の旧・加茂町にある恭仁宮(くにきゅう)跡とその周辺に散歩に出かけた。恭仁宮跡は、聖武天皇が740年から4年間営んだ恭仁京の中心であった所だ。最近、その大極殿の回廊跡の発掘調査が行なわれ、柱間隔等の検討から平城宮の移築があったのではないか、とのことだ。とすると、聖武天皇は一時的に平城京からここに移住するのではなく、はっきり遷都の意志があったと、思われる。これは何故か、又何故4年間で、又、結局、平城京に戻るのか、色々言われていて興味深いが今後の議論に委ねる。しかし、遷都に先立つ735年に光明皇后の夢の枕元に海住山寺のある所に寺を建立するようにとのお告げがあり、実際に寺を造った。又、光明皇后は豪族(藤原氏)からの初の皇后で、施薬院などもつくっていて現代の福祉の原点でもある感じで実力者、それに都を造ろうとした場所は、光明皇后の兄・橘諸兄の領地でもあり、言わば藤原家が都を「誘致」した格好になっている等は面白いポイントと思う。光明皇后「貴方!彼の地は私の発願のお寺もあり、兄の橘諸兄の領地でもありますよ。是非、あそこに恭仁京を造りましょうよ」と聖武天皇に言ったかどうか分らないが、そういうシーンも思い浮かべられる。この紀元740年前からの4、5年間は小説になると思うが恐らく誰かが既に取り組んでいるに違いない。(続く)
(写真は、恭仁宮・大極殿回廊発掘現場ーasahi.comによるー)

鳥取への旅、そのルート

2007-11-22 | 訪問場所・調査地
日曜日から火曜日まで出張で鳥取市に行っていた。鳥取には過去何回か訪れたことがある。1968年3月の新婚旅行は中国地方一周の旅だったが、鳥取砂丘にも行った。次に奈良女大・助教授の頃に鳥取大学の秋の学園祭に講演で行った。11月の松葉ガニ解禁の直前だった。その後、西山夘三先生(京大名誉教授、故人)、扇田 信先生(奈良女子大学教授、故人)、連仏 亨さん(京都建築事務所社長、当時)夫妻と共に西山研で過去、鳥取農村調査をした現地に数十年後に訪れた。また奈良女大学院生の結婚式(同志社大から奈良女・大学院の私の研究室に来たのだが、バイトで奈良国立文化財研究所に行ったため、その後「年輪年代法」を確立した光谷拓実さんと結婚することになり、その結婚式)、更に奈良女の卒業生の結婚式等でも行った。
で、今回、「野暮用」で行ったのだが、そのルートは京都からJR山陰線ではなくJR東海道線、山陽線、智頭急行線(これはJRではなく私鉄)、因美線経由だった。「特急スーパーはくと」である。智頭急行線、因美線では色々な名所旧跡があるようで、列車のディスプレイに表示されていた。宮本武蔵の生誕地もあるようだ。宮本武蔵駅というのもある。郡家という駅があったが、「こうげ」と読むようで、高槻市にある「ぐんげ」と読み方が違うのも分った。次回はゆっくりとその辺りを訪れたいものだ。

木津川市(加茂・当尾[とうの]地域)散策

2007-07-09 | 訪問場所・調査地
昨日、8日、日曜日、梅雨の合間に地域SNSの仲間(+一人)の6人で、わが「けいはんな」地域で誇る文化財地域の一つ、旧加茂町の当尾地域をワイワイ言いながら散策した。私は、長年、31年間、まあ京都から奈良に通勤したのだが、この地域についに行けなかったのだが、今回行くことができた。この加茂地域は、京都府では京都市、宇治市に次いで国宝や重要文化財が多い地域だ。聖武天皇の恭仁京(くにきょう)跡地や岩船寺、浄瑠璃寺、海住山寺等の天平、平安時代の有名寺院も多い。鎌倉時代のものと言われる石仏も路傍に多い。まあ、今までは近鉄線(京都ー奈良)、JR線(京都ー宇治ー木津ー奈良)から僅かに東に外れていたために観光客が京都、奈良、宇治のようにどっとは来なかったのだ。で、つい私も過去行けていなかったのだ。昨日は、岩船寺の重要文化財・阿弥陀如来像(平等院のより古い)、浄瑠璃寺の国宝・九体阿弥陀堂、同・九体阿弥陀如来像、同・三重塔、たまたま8日に行ったので、その三重塔の秘仏・薬師如来像も暗闇を透かして拝む幸運に恵まれた。8日は「開帳日」なのであった。特別名勝・浄瑠璃庭園、岩船寺から浄瑠璃寺に下る路傍に多くの石仏を眺めながらの散策、岩船寺の紫陽花も良かった。浄瑠璃寺前の食堂での「とろろ定食」も美味しかった。五感浄化の一日だった。又、誰かと行きたいね。将来の「けいはんな地域計画」には、保全地域としてしっかり組み込み、もう少しアプローチを良くしてもよいと思った。

紫陽花に紫陽花重ね岩船寺  市路

鵜匠・山下純司さんに学ぶ

2007-05-14 | 訪問場所・調査地
岐阜の鵜匠・山下純司さん宅に出かけて色々話を聞いたり観察したりしたことは、一応書いた。しかし、「そこからこぼれ落ちている話」が沢山あったのでいくつかメモしておく。(1)博物館風の小屋に親父さんが作ったという鵜舟等の模型があった。過去二時代のもので、少しづつ違っていた。現在は、鵜舟に三人乗船だが、模型を見ると4人になっている。山下さんは、本当は4人が合理的、「中乗りさん」を二人にしていて、一人の体調が悪ければ、現在のように三人で出来る。(2)上流に舟を運ぶのに昔は、帆かけ舟にする、岸辺を人力で舟に綱をつけて引っ張る等があった。遊覧舟でひときわ豪華な舟模型があるが、これは伊藤博文が観覧した時のものだと言う。(現在の舟で「トイレ船」があったのには驚いた。水洗完備で明るい感じであった。女性の便器が少ない感じだった。)(4)庭で「遊んでいた」鵜は全部で25羽、そのうち調子が良いもの10羽ないし12羽を毎日鵜飼に連れて行く。本当に優秀なのは2,3羽、後はそこそこ。老いぼれて25歳のが「最長老」、余所ではそれ以前に「処分」しているが、自分(山下さん)は、働いてきた彼らをここで死なしてやろう、と考えている。年取った鵜も皆の「模範」の面もあり、自分は、何か悩むときには彼らに「相談」すると言う。(5)鵜が死ぬ1週間ほど前になると食べなくなって、死期を知る。自分もああいうように静かに「死ぬんだな」と自覚して死にたい気持ちになったのも鵜の死に方をみたからだ。(6)鵜25羽全ての性格、体調を掴むまで一人前ではない。息子も自分の死んだ後に息子自身で掴むことになるだろう。自分もそうだった。(7)親父さんには、死ぬまで反発していたが、いざなくなると、何度も何度も手を握った。亡くなってから本当のことを教わった気分、模型を残してくれたお陰で、皆に開放する気になったし、感謝している。(8)庭の池の周りに一面「どくだみ」草が生えているのを指して「何を植えても鵜が食いちぎった。どくだみは、臭いが嫌なのか食いちぎらず、共生している。もうすぐ「どくだみ」の白い花が咲く頃、鵜の毛も真っ黒になって、対比が美しい。これも自然とそうなったのだ。(9)この庭に昔「造り酒屋」があった、水が良かったからだ。で、隣りに大きな旅籠があって、尾張徳川家が鵜飼を見に来たときに泊まって、ここの酒を飲んだと言う。(10)喫茶店の端の席から金華山の方を見ると、頂上のお城が良く見える。岐阜城グッド・ヴュー・ポイントだ。・・・

安全・安心と生活の豊かさ

2007-05-14 | 訪問場所・調査地
今度の第59回家政学会大会では、初めて「統一テーマ」として「安全・安心と生活の豊かさ」がついた。田村照子学会長と小川宣子中部支部長等との相談の結果である。
で、初日(11日)に政治学(政治史学?)の御厨 貴さん(東大教授、1951年生)に、安全・安心という概念が社会的に現れるのは、どういう背景で何時ごろか、という講演をしてもらった。戦後史で言うと、1956年頃の水俣病公式発見の時も社会的に問題になったが、チッソの操業停止、漁獲禁止とはならなかった。企業優先の高度成長路線になりつつあったためである。他に四日市も公害都市として有名になったが、現在は、過去にそういうことがあったことを出来るだけふれないように四日市当局もつとめている位だ。何と行っても、1995年の阪神・淡路大震災とオウム真理教のサリン事件で、一気に国民の安全・安心が皆の意識に定着してきている。その後も食品の安全、原子力発電、マンション、エレベーター、鉄道、ジェットコースター等々の安全問題がひっきりなしに起こっている。圧倒的に「官」に情報と規制力があるとは言え、市民・住民がシステムとしてチェックできる体制が望まれるとのことだ。
安全は、対象の客観的事実に関する事象、安心は、対象を受ける主体の意識という仕分けをされた。
最後に、少し安全・安心・豊かさ問題とづれるが、大きな問題として憲法改正論議があるが、実は9条問題等の陰に隠れている問題として、国民の最小単位をどう捉えるかで、自民党は「伝統的に家族」、民主党は「夫婦」に置いているようだが、これがやがて問題になるだろうと述べられたが、「個人」というのは考えられないのだろうか。誰もが結婚して子どもをつくるという時代ではないし、個人の「自立と連携」に対して、国家や行政がどうサポートするかが、21世紀の課題なのではないか。
御厨 貴さん登場の私のブログ:http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/2dab142d9978f6173d44b2ff988b4555
(写真は、御厨さん)

江戸時代の美濃平野部の特徴

2007-05-13 | 訪問場所・調査地
今度の家政学会は、美濃の中心のまちである岐阜で行われたので、講演で岐阜市立女子短大学長の松田之利さんの「江戸時代の美濃」という話を聞いた。ある意味では現在の美濃(岐阜県南部)を理解するベースの一つであろう。松田さんは1941年生まれで私と同年、長野市出身、東京教育大学で近世史を専攻、岐阜大学に長年勤められ最近、現職。夕べの家政学会の懇親会でお聞きすると奥さんは奈良女子大学の地理学出身とのことで「地歴夫婦」である。
で、松田さんの講演で私の脳裏に引っかかった要点を記す。まず初っ端に「皆さんは金華山の頂上のお城を見上げて、岐阜は城下町と思うかもしれないが、あれは織田信長時代にあったものの「復元」で、江戸時代は廃城、岐阜町は尾張徳川家の(飛び)所領で商工業の町・川湊のあった町、城下町と言えば、南の加納であった」と言われ、そうなのか、と思った。(最近、まとめて三人の岐阜高校出身者を知り、彼らの会話に良く加納が出て来ていたが、さっぱり土地勘がなかった。松田さんの話を聞き、帰りにJR岐阜駅で南に「加納口」、北に「長良口」と書いてあり、良く分かった。)私自身、長く岐阜は私の郷里の金沢と同じく城下町と思っていた。ところで尾張藩、加納藩といった言い方は明治以降の言い方で、江戸時代は「○○家所領」と言っていたとのことだ。そこで,「家老」「家臣」と言うとのことだ。関連で「家政」は、従って「○○家のまつりごと」ということではないか、というのが松田さんの解釈である。さて、次に言われたのは、木曽三川、木曽川、長良川そして揖斐川は江戸時代にも絶えず洪水で流路を変え、入り乱れて流れていたため、住む場所を確保するため住民自ら築いた堤防で中の集落を守った。それを「輪中(わじゅう)」と言う。そういう小単位のまとまりのよい集落が美濃平野部の特徴となり、現在でも例えば外来の岐阜県知事などは「地域全体のまとまりが悪い」と言うが、これが伝統と松田さんは言う。そういう輪中の開発を率先して行った百姓は地侍の系譜を引く「頭百姓」と言われ、それなりの格と文化を持っていたという。長屋門、白壁、羽織袴、詩歌や武芸等で、武士的色合いも持つ。工業では木綿、絹ともあり、美濃焼きは瀬戸物と一線を画していた、と言う。(そういえば、美濃紙というのもあるな、と思った)最後に印象に残った美濃の特徴は、東西文化の混在地域ということだ。「しちや」と「ひちや」、「名主と庄屋」、(うどん汁の濃いと薄い・・これは的場輝佳さんの研究)等々という。で、これらが現在までも「残っており」、いなか的まち、実質的豊かさを持っているが、固有性がやや希薄では、と言われた。さて、現代の「美濃人」はどう言われるだろうか。
(写真は、松田之利さん)
木曽三川の覚え方:http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/8566fe66e89c28b28f3b91632921b0b4

鵜匠・山下純司さんを訪ねて(2)物事をつながりで理解

2007-05-13 | 訪問場所・調査地
鵜飼が長続きするには、それを成り立たせている要素もまた長く成り立っていなければならない、ということだ。例えば、鵜舟であるが、もうこれをつくる舟大工は見つからない、と言う。まさかモーターボートにする訳にはいくまい。これからは自分でやるしかない、とのこと。それで現在のものをなるべく長く使うために今朝も息子さんが手入れをしていたのだ。次に海鵜、これはなんとかなるようだ。川に鮎が少なくなれば、6艘で年間157日も「営業」できなくなる。で、私は「ああそうだ」と思いだして、長良川河口堰の「効果」を聞いてみた。現在、河口堰の両側に小さい川が魚道として作られているようだが、もっと別の方法もあるのでは・・、と言う。鮎が少なくなったのは、その遡上の問題もあるが、更に水の質が鮎生息にそぐわなくなってきた、と言う。山の樹木の様相が戦後の人工造林で変わってきて山から流れ出る水の質も変わってきたようだ。中庭の池の水は長良川の伏流水とのことだ。このように鮎の問題は川の下流の海から上流の山まで「つなげて」総合的に理解しないといけない、と言っているようだった。篝火の松も脂の入ったものを得ようと思うと、生育条件の悪い海岸地帯の松とかやせ山の松とかでないといけないが、そういう松は11月以降に伐採の要があると言う。脂が樹木内にたまる季節と言う。
これを聞いていると、鵜飼一点で理解するのでなく、上下左右のつながりを線、面として理解し、つながりを維持し豊かにする行動を取らなければ、大事な一点も守れない時代なのだとつくづく思う。
山下さんは、河川管理当局も最近は住民の意見を聞くようになったのは良い、と言っていたが、果たしてそのシステムは実質化しつつあるのだろうか。

鵜匠・山下純司さんを訪ねて(1)

2007-05-13 | 訪問場所・調査地
今日は、昨日、長良川国際会議場で鵜を見せながら話をされた鵜匠・山下純司さん宅を訪ねてみたくなった。「鵜と人との語らい 鵜の庵 鵜」という鵜づくめの喫茶店をされていて庭に鵜小屋を作って25羽も飼っておられると聞いたからである。バスで長良橋を渡り、次のバス停の「鵜飼屋」で下りて、通りを地下道で渡り、長良川右岸の長良中鵜飼という町に入る。そこには岐阜の鵜匠6人のうち5人までも住んでいる。もう一人は少し上流に住んでいるようだ。山下さんの家はすぐ見つかったが、今日は喫茶店は「休み」と知り、がっかり。まあ10時前だし、10時になったらぶっつけ本番で「訪問ミニ調査」をしてみようと決心し、一旦、時間つぶしに長良川岸まで出てみた。そこには、鵜飼舟5艘がつながれている。その一艘で若者が作業を終え、岸に上がってきたので「おはよう、鵜飼の舟ですね」と声をかけてみた。若者は「そうですよ」と答えたので、勘で「鵜匠の跡取ですか」と聞いた。「そうです」と言う。「実は、昨日、国際会議場で鵜匠の山下純司さんのお話を聞いたのですが・・」と言いかけると「それは僕の親父です。今日は喫茶店は休みですが鵜小屋の掃除をするので鵜は全部、一旦庭に出すので見れますよ」と連れて行ってもらう幸運にぶつかった。「小さい頃から鵜舟に乗っているのですか」「いや、本式には大学出てからで、学生時代は小遣い欲しさに乗っていた」というやりとり、ちょうど庭先まで来た時、中から当主の山下さんが顔を出されたので昨日からの経緯を話すと「どうぞ」と言って木戸を開けてくれた。色々な話を聞き、色々観察もさせてもらった。途中から、やはり家政学会に来ておられた文化女子大の二人の先生も木戸を覗いていて招じ入れられ、一緒に話を聞いた。山下さんの家は、本宅との一階に喫茶店を設けているが今日は「休み」、第二、第四日曜は休みと言う。庭の真ん中にに鵜が泳げる池があり、その向こう(長良川上流側)に鵜小屋が並んでいる。その並びに篝火(かがり火)に使う松の薪のストック場、さらに色々な鵜飼にまつわる歴史や過去の道具、模型を展示している私設鵜飼博物館のようなものがあり、池のこちら側、即ち木戸から入ってすぐ左手にお話を聞いた休憩小屋があった。(続く)(写真は、鵜匠の装束、モデルは山下純司さん)