【愚記事要旨】 最近、林芙美子(1903-1951)を調べていて、改造社の方へ行ってしまっている。そんな中、窪川いね子/佐多稲子(1904-1998)に3度出くわした。窪川いね子と林芙美子が義姉妹のように見えた。ともに、最初の結婚に失敗。ともに、カフェーの女給。ともに、改造社の新鋭文学叢書の企画シリーズの作家。ともに、「従軍」...。
■ 最近は、林芙美子-改造社「チャンネル」に淫し、現を抜かしている; 愚記事( 1936年北京、中秋の月の下; 林芙美子と老舎のすれ違い): チャンネルとして、最近のおいらがのぞきこんでいるのが「林芙美子」の世界だ。
■ 【訂正】 先日の愚記事(今日の些細: アインシュタインと毛沢東; ハブとしての山本実彦 )で、太田哲男、『若き高杉一郎―改造社の時代』に一か所、深田久弥に言及している箇所・情報を見つけた。と書いたが、一か所ではなく、下記太田哲男による高杉一郎(=小川五郎)のインタビューが書いてあった。高杉一郎(=小川五郎)の人格について自ら述べる重要な情報である;
太田 一九四〇年ごろの先生は、精力的に仕事をされていますが、当時先生が接した人で、他に印象に残っている人としてどんな人がいますか。
小川 雑誌『文藝』である座談会(中略)を企画したことがあった。たぶんその帰りに、銀座の「はせ川」に行った。片岡鉄平が一緒だった。そのとき、小林秀雄が時局に関連して、いきなり猪口をもって立ち上がり、「そんなこともわからんのか」と、中島健蔵に酒をぶっかけたことがあった。中島さんはあくまで理性的に対応していた。そのときぼくは、中島に共感したが、小林秀雄の気持ちもわかると思った。これは二つの個性のみごとなぶつかり合いだと思った。
ぼくは、鎌倉に行くと、小林の家、深田久弥の家によく行った。人間的には、小林も中島も両方とも好きだった。小林は独断的な発言をしたが、権威があった。
中野重治と対極的な位置に小林がいた。中間に片岡鉄平がいた。ぼくは、人間の思想によって人間を見るのではなく、人間を見るという考えだった。小林秀雄に対する敬意はつねにあった。 太田哲男、『若き高杉一郎、 改造社の時代』、p172
■ そして、高杉一郎、『極光のかげに』を読んだ。 シベリア俘虜記だ。正直、そう陰惨、苛酷なものではなかった。これは、シベリア抑留生活というのは相当苛酷なものであるという認識がおいらには強く、無意識にでもその水準から読んだからだろう。
捕虜なのに収容所の事務所で一緒に働く赤ん坊をもったバツイチ女性(もちろんソ連人)の家に遊びに行く話も出てくる。その他いろいろ面白いのあるが、一点おもしろいと思った場面(これは絶対創作だろうに違いない);
旧い軍隊の階級序列がまったく無視されている学生同志のような私たちの交友が、新鮮で 風変わりな感覚をみんなのあいだをかきたてるように思われた。
作業から帰ってくると、私たちは誰か仲間の藁蒲団の上に円座をつくっては雑談をした。あるとき、遠藤がこんなふうに問題を持ち出した。
「僕なんか気の利かない学校教師だから、いつもバスに乗り遅れてばかりいるけどね、人間の思想的変貌というのはどうなんだろうな。突然そう言ってもわからんかもしれないが、例えば窪川稲子ね、いつか『日本新聞』に、彼女がマッカーサー司令部を訪問したという記事があったろう。窪川は『キャラメル』工場からで売り出したいわゆるプロレタリアート作家だ。それが、戦争がはじまったら陸軍報道部あたりの金で南方に行って来てさ、そうかと思ったら、こんどはまたあの記事だ。いったい、彼女の立場というのは、どうなんだい?」
なにごとについても歯に衣をきせない江戸っ子気質の川上が、ばっさりと斬ってすてるような放言をした。
「女給というものは、新しいお客が入ってくるたびに笑顔を見せなければならないのさ」
私は、川上の放言にたいして反駁しないではいられなかった。
「作家が時代によって、多少衣装の色模様を変えるのは止むを得ないと僕は思うな。衣装だけ見ていると、ひどく無節操のように見えるかもしれないが、中身は案外変わっていないんじゃないか。たとえば、君にしてもだよ、中味は江戸っ子のディッレンタントで、思想的には福沢さんの流れを汲んだ自由主義者だろう。それが戦争の世の中になれば将校服に身をつつんで日本刀もつるし、戦いに敗れれば、また昔にかえって新劇の話などもしようというわけさ。戦時中、日本文学報告会に名を連ねなかった作家はごくすくないと思うが、それじゃ日本の作家が全部が全部ファシストだったかというと、そうは言えまい。むしろ、腹のなかは自由主義者が大半で、なかには左翼だって入っていたんじゃないかな。さっきの窪川にしても、戦争時代の『素足の娘』という小説を読んだことがあるが、僕には報道部文学だとは思えなかった。それでいいんじゃないかね。人間て、結局はひどく脆いもんだからね。それ以上のことは、なんじらの中、罪なき者先ず石をなげうて、さ」
(高杉一郎、『極光のかげに シベリア俘虜記』)
これは面白い。そして、なぜ、窪川稲子[ママ](本当は、窪川いね子、が"登録商標")がひっぱりだされるのか?おいらは先日知ったが、窪川稲子は林芙美子とともに、 改造社の新鋭文学叢書の企画シリーズ(愚記事)の作家のひとりだ。高杉一郎と窪川稲子は旧知らしい。
"登録商標"「いね子」の証拠。 この画像のコピペ元 → ハナ書房
なお、窪川稲子(窪川いね子)がマッカーサー司令部を訪問したという史実は、ネットでちょっとググったが、確認できなかった。でも史実なんだろう。
■ 桐野夏生、『ナニカアル』
おいらが、林芙美子が昭和17年/1942年に南方に従軍作家として旅をした時、窪川稲子(窪川いね子)と一緒だったと、桐野夏生、『ナニカアル』で知った。 なお、桐野夏生、『ナニカアル』でも、窪川稲子、となっている。
桐野夏生、『ナニカアル』は、桐野夏生が林芙美子に成りきって作話するというもの。相当、林芙美子とその周辺を調べて書いているのが、ニワカ林芙美子読者のおいらにもわかる。もっとも、エピソードや人間について、どこまでが史実でどれが作ったのかが分からないことが問題。もっとも、史実のような嘘、嘘のような史実というのが、林芙美子には似合うのであるが。
おいらは、現時点で桐野夏生、『ナニカアル』に描かれた窪川稲子像しか知らいない。それらの彼女の履歴、エピソードをみると林芙美子もびっくりといったところか。いや、違うのだ。あの時代、1920年代、つまり、昭和が始まった頃、「"若き"林芙美子/窪川稲子/平林たい子」が東京にいっぱいいたに違いない。
そう思いついたら、思い出した;
おそらくそこ(出自を恥じ、変身願望が熾烈なこと@いか註)には、治安維持法と普通選挙法の成立以後の日本の大衆社会における父と子の問題、具体的にいうなら、親許を離れて都市に出、革命的な「プティ・ブルジョア・インテリゲンツィア」たらんとした青年たちと、高等女学校や女子専門学校を出て上京し、これらの青年たちの恋人や「ハウス・キーパー」となり、やがて新劇団の女優やカフェの女給になって行った娘たちの問題が、重ね合わされるはずである。 (江藤淳、『昭和の文人』 平野謙論)
この江藤淳、『昭和の文人』の本の帯の宣伝文句に「昭和文学の時空間を貫く左翼とモダニズムの本質を問う」とある。そして、この本で論じられている作家は中野重治と堀辰雄。ふたりとも、 改造社の新鋭文学叢書の企画シリーズの作家である。
■ 3度目に出くわした窪川稲子; 石堂清倫、『20世紀の意味』
1920年代(林芙美子の高等女学校時代、そして上京した頃の日本社会の状況;モダニズム&共産主義運動など)を知るため読んだ。
中野重治が「転向」のゆえに宮本顕治からいいように引きまわされるのは見ておられない、その不当を論じてもらいたいと佐多稲子(窪川稲子)が私に求めてから久しい。彼女と中野と私のあいだには昔からの或る関係があって、私は彼女の訴えのいくつかを中野にとりつぐようになっていた。そのうち書くつもりでいるうちに、彼女は亡くなった。やっと決心して、私は告別式に一文をとどけた。それがこの「再論」である。 (石堂清倫、『20世紀の意味』、「転向再論」)
▼ 高杉一郎、『極光のかげに』にもどって、この本は1950年の出版で、同時に「スターリニスト」の攻撃にあったそうだ。当時の日本共産党はスターリン崇拝時代であったらしい。その変のことを書いた高杉一郎の本、『ザメンホフの家族たち』、『往きて還りし兵の記憶』、『私にスターリン体験』を発注した。
▼ ネットですごい画像を発見。勝手にコピペする。
吉屋邸の東側サンポーチと思われる部屋の、窓際近くで撮られたと思われる記念写真。
右から左へ、宇野千代、吉屋信子、窪川(佐多)稲子、林芙美子
コピペ元: ブログ記事: 吉屋信子邸を拝見する。 by ブログ 落合道人 Ochiai-Dojin 殿
なお、この4人で、宇野千代だけが従軍していない。宇野千代が従軍を断る場面が、桐野夏生、『ナニカアル』にも出てくる。
おばあさんの 宇野千代しか知らないおいらはこの画像にびっくりした。
そして、林芙美子について、「失礼だけど、実物より写真顔の方がずい分よく」といった円地文子(平林たい子、『林芙美子』)の評あり。