いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

林芙美子-改造社「チャンネル」で、窪川いね子/佐多稲子に三度出くわした。

2015年08月13日 20時50分18秒 | 

【愚記事要旨】 最近、林芙美子(1903-1951)を調べていて、改造社の方へ行ってしまっている。そんな中、窪川いね子/佐多稲子(1904-1998)に3度出くわした。窪川いね子と林芙美子が義姉妹のように見えた。ともに、最初の結婚に失敗。ともに、カフェーの女給。ともに、改造社の新鋭文学叢書の企画シリーズの作家。ともに、「従軍」...。

■ 最近は、林芙美子-改造社「チャンネル」に淫し、現を抜かしている; 愚記事( 1936年北京、中秋の月の下; 林芙美子と老舎のすれ違い): チャンネルとして、最近のおいらがのぞきこんでいるのが「林芙美子」の世界だ。

■ 【訂正】 先日の愚記事(今日の些細: アインシュタインと毛沢東; ハブとしての山本実彦 )で、太田哲男、『若き高杉一郎―改造社の時代』に一か所、深田久弥に言及している箇所・情報を見つけた。と書いたが、一か所ではなく、下記太田哲男による高杉一郎(=小川五郎)のインタビューが書いてあった。高杉一郎(=小川五郎)の人格について自ら述べる重要な情報である;

太田 一九四〇年ごろの先生は、精力的に仕事をされていますが、当時先生が接した人で、他に印象に残っている人としてどんな人がいますか。

小川 雑誌『文藝』である座談会(中略)を企画したことがあった。たぶんその帰りに、銀座の「はせ川」に行った。片岡鉄平が一緒だった。そのとき、小林秀雄が時局に関連して、いきなり猪口をもって立ち上がり、「そんなこともわからんのか」と、中島健蔵に酒をぶっかけたことがあった。中島さんはあくまで理性的に対応していた。そのときぼくは、中島に共感したが、小林秀雄の気持ちもわかると思った。これは二つの個性のみごとなぶつかり合いだと思った。
 ぼくは、鎌倉に行くと、小林の家、深田久弥の家によく行った。人間的には、小林も中島も両方とも好きだった。小林は独断的な発言をしたが、権威があった。
 中野重治と対極的な位置に小林がいた。中間に片岡鉄平がいた。ぼくは、人間の思想によって人間を見るのではなく、人間を見るという考えだった。小林秀雄に対する敬意はつねにあった。 太田哲男、『若き高杉一郎、 改造社の時代』、p172

■ そして、高杉一郎、『極光のかげに』を読んだ。 シベリア俘虜記だ。正直、そう陰惨、苛酷なものではなかった。これは、シベリア抑留生活というのは相当苛酷なものであるという認識がおいらには強く、無意識にでもその水準から読んだからだろう。

捕虜なのに収容所の事務所で一緒に働く赤ん坊をもったバツイチ女性(もちろんソ連人)の家に遊びに行く話も出てくる。その他いろいろ面白いのあるが、一点おもしろいと思った場面(これは絶対創作だろうに違いない);

 旧い軍隊の階級序列がまったく無視されている学生同志のような私たちの交友が、新鮮で 風変わりな感覚をみんなのあいだをかきたてるように思われた。
 作業から帰ってくると、私たちは誰か仲間の藁蒲団の上に円座をつくっては雑談をした。あるとき、遠藤がこんなふうに問題を持ち出した。
「僕なんか気の利かない学校教師だから、いつもバスに乗り遅れてばかりいるけどね、人間の思想的変貌というのはどうなんだろうな。突然そう言ってもわからんかもしれないが、例えば窪川稲子ね、いつか『日本新聞』に、彼女がマッカーサー司令部を訪問したという記事があったろう。窪川は『キャラメル』工場からで売り出したいわゆるプロレタリアート作家だ。それが、戦争がはじまったら陸軍報道部あたりの金で南方に行って来てさ、そうかと思ったら、こんどはまたあの記事だ。いったい、彼女の立場というのは、どうなんだい?」
 なにごとについても歯に衣をきせない江戸っ子気質の川上が、ばっさりと斬ってすてるような放言をした。
 「女給というものは、新しいお客が入ってくるたびに笑顔を見せなければならないのさ」
 私は、川上の放言にたいして反駁しないではいられなかった。
 「作家が時代によって、多少衣装の色模様を変えるのは止むを得ないと僕は思うな。衣装だけ見ていると、ひどく無節操のように見えるかもしれないが、中身は案外変わっていないんじゃないか。たとえば、君にしてもだよ、中味は江戸っ子のディッレンタントで、思想的には福沢さんの流れを汲んだ自由主義者だろう。それが戦争の世の中になれば将校服に身をつつんで日本刀もつるし、戦いに敗れれば、また昔にかえって新劇の話などもしようというわけさ。戦時中、日本文学報告会に名を連ねなかった作家はごくすくないと思うが、それじゃ日本の作家が全部が全部ファシストだったかというと、そうは言えまい。むしろ、腹のなかは自由主義者が大半で、なかには左翼だって入っていたんじゃないかな。さっきの窪川にしても、戦争時代の『素足の娘』という小説を読んだことがあるが、僕には報道部文学だとは思えなかった。それでいいんじゃないかね。人間て、結局はひどく脆いもんだからね。それ以上のことは、なんじらの中、罪なき者先ず石をなげうて、さ」
(高杉一郎、『極光のかげに  シベリア俘虜記』)

これは面白い。そして、なぜ、窪川稲子[ママ](本当は、窪川いね子、が"登録商標")がひっぱりだされるのか?おいらは先日知ったが、窪川稲子は林芙美子とともに、 改造社の新鋭文学叢書の企画シリーズ(愚記事)の作家のひとりだ。高杉一郎と窪川稲子は旧知らしい。

"登録商標"「いね子」の証拠。 この画像のコピペ元 → ハナ書房

なお、窪川稲子(窪川いね子)がマッカーサー司令部を訪問したという史実は、ネットでちょっとググったが、確認できなかった。でも史実なんだろう。

■ 桐野夏生、『ナニカアル』

 おいらが、林芙美子が昭和17年/1942年に南方に従軍作家として旅をした時、窪川稲子(窪川いね子)と一緒だったと、桐野夏生、『ナニカアル』で知った。 なお、桐野夏生、『ナニカアル』でも、窪川稲子、となっている。

 桐野夏生、『ナニカアル』は、桐野夏生が林芙美子に成りきって作話するというもの。相当、林芙美子とその周辺を調べて書いているのが、ニワカ林芙美子読者のおいらにもわかる。もっとも、エピソードや人間について、どこまでが史実でどれが作ったのかが分からないことが問題。もっとも、史実のような嘘、嘘のような史実というのが、林芙美子には似合うのであるが。

 おいらは、現時点で桐野夏生、『ナニカアル』に描かれた窪川稲子像しか知らいない。それらの彼女の履歴、エピソードをみると林芙美子もびっくりといったところか。いや、違うのだ。あの時代、1920年代、つまり、昭和が始まった頃、「"若き"林芙美子/窪川稲子/平林たい子」が東京にいっぱいいたに違いない。

 そう思いついたら、思い出した;

 おそらくそこ(出自を恥じ、変身願望が熾烈なこと@いか註)には、治安維持法と普通選挙法の成立以後の日本の大衆社会における父と子の問題、具体的にいうなら、親許を離れて都市に出、革命的な「プティ・ブルジョア・インテリゲンツィア」たらんとした青年たちと、高等女学校や女子専門学校を出て上京し、これらの青年たちの恋人や「ハウス・キーパー」となり、やがて新劇団の女優やカフェの女給になって行った娘たちの問題が、重ね合わされるはずである。 (江藤淳、『昭和の文人』 平野謙論)

 この江藤淳、『昭和の文人』の本の帯の宣伝文句に「昭和文学の時空間を貫く左翼とモダニズムの本質を問う」とある。そして、この本で論じられている作家は中野重治と堀辰雄。ふたりとも、 改造社の新鋭文学叢書の企画シリーズの作家である。

■ 3度目に出くわした窪川稲子; 石堂清倫、『20世紀の意味』

1920年代(林芙美子の高等女学校時代、そして上京した頃の日本社会の状況;モダニズム&共産主義運動など)を知るため読んだ。

 中野重治が「転向」のゆえに宮本顕治からいいように引きまわされるのは見ておられない、その不当を論じてもらいたいと佐多稲子(窪川稲子)が私に求めてから久しい。彼女と中野と私のあいだには昔からの或る関係があって、私は彼女の訴えのいくつかを中野にとりつぐようになっていた。そのうち書くつもりでいるうちに、彼女は亡くなった。やっと決心して、私は告別式に一文をとどけた。それがこの「再論」である。 (石堂清倫、『20世紀の意味』、「転向再論」)

 

▼ 高杉一郎、『極光のかげに』にもどって、この本は1950年の出版で、同時に「スターリニスト」の攻撃にあったそうだ。当時の日本共産党はスターリン崇拝時代であったらしい。その変のことを書いた高杉一郎の本、『ザメンホフの家族たち』、『往きて還りし兵の記憶』、『私にスターリン体験』を発注した。

▼ ネットですごい画像を発見。勝手にコピペする。

吉屋邸の東側サンポーチと思われる部屋の、窓際近くで撮られたと思われる記念写真。
右から左へ、宇野千代、吉屋信子、窪川(佐多)稲子、林芙美子

コピペ元: ブログ記事: 吉屋信子邸を拝見する。 by ブログ 落合道人 Ochiai-Dojin 殿 

なお、この4人で、宇野千代だけが従軍していない。宇野千代が従軍を断る場面が、桐野夏生、『ナニカアル』にも出てくる。

おばあさんの 宇野千代しか知らないおいらはこの画像にびっくりした。

そして、林芙美子について、「失礼だけど、実物より写真顔の方がずい分よく」といった円地文子(平林たい子、『林芙美子』)の評あり。

 


黒鼠のささやき;「なんでもなかったんだよ...」、天皇「最後」の靖国親拝←アメリカさまの対日洗脳戦争

2015年08月11日 19時13分27秒 | 日本事情

★ episode 1


  黒鼠のささやき; 「なんでもなかったんだよ」

1975年10月8日 at the Disney Land

★ episode 2

1975年10月31日 昭和天皇 公式記者会見

そして、この記者会見で;

YouTube (昭和天皇「原爆投下はやむをえないことと、私は思ってます。」  )

★ episode 3

1975年11月21日 そして天皇「最後」の靖国親拝


愚記事:  聖上、英霊に御親拝 昭和16年10月19日 、昭和50年、ひろひとさん、そして天皇「最後」の靖国親拝

この日、すめろぎさまは、英霊に永遠の別れを告げた...、「さらば! "土人"の皇軍」  

「"皇軍"は、在日米軍に頼んであるから、大丈夫!」と靖国の旧英霊に告げたのだ。

⇒ DL化するした日本!

★ episode 4

 そして、2015年8月9日 : ディズニー公式 なんでもない日おめでとう

「なんでもない日」のヒバクかぁちゃん

■ まとめ

                  
などて、すめろぎはヒトとなりたまいし。   そして、ジミーさん(@そもそも靖国なんか行ったことにゃい)は”すめろぎ”になりたまいし。


 


「今後の日本のあり方を考えていく」ために、考えるべき「侵略と植民地支配」と特に考えなくともよいそれ

2015年08月09日 19時42分42秒 | 日本事情

よい「侵略と植民地支配」と、悪い「侵略と植民地支配」

本年は終戦から70年という節目の年に当たります。多くの人々が亡くなった戦争でした。各戦場で亡くなった人々,広島,長崎の原爆,東京を始めとする各都 市の爆撃などにより亡くなった人々の数は誠に多いものでした。この機会に,満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び,今後の日本のあり方を考えていく ことが,今,極めて大切なことだと思っています。  天皇陛下、平成27年、新年のご感想 [宮内庁web site より]

われらが 大日本帝国 薩長クーデター政権 の赫々たる業績は2皇帝の奪取と3国王の生け捕りである(愚記事)。ここで、2皇帝と3国王を確認すると、京都にいた皇帝[1]、北京にいた皇帝江戸にいた国王那覇にいた国王、そしてソウルにいた「国王」だ [大韓帝国だったから皇帝かもしれない]。

(  [1] 明治元年の拉致家族! :  掴んだ玉は今ではガラス箱にいれて、「*(自己検閲)民」にたまに見せる。     )

現在の日本国の公式見解である村山談話では、その「侵略と植民地支配」の網羅する範囲は不明確である。

これに対し、昭仁陛下は、とつぜん、事実上、線引きをした。

満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び,今後の日本のあり方を考えていく こと

■ なお、大日本帝国の赫々たる業績は2皇帝の奪取と3国王の生け捕りであるというもの言いはいけない。なぜなら、これでは北海道が入らないからだ。北海道に旧[フル]くからその土地に住んでいた人たち( 旧 土 人 さんたち)は、sauvage だったので支那式の王様/皇帝がいなかったのだ。でも、大日本帝国の北海道領有は、「侵略と植民地支配」の典型である。よかったね、北海道サヨク、おとがめなしで。そして、よかったょ、おいら@日帝侵略庶民。今上天皇陛下のおかげで、「免責」されて。

● まとめ; 2015年、大日本帝国瓦解70年。 安倍談話発表を前に;

          

 謝ってもらえる人   謝ってもらえない人


新しい街でもぶどう記録;第41週

2015年08月08日 18時15分38秒 | 草花野菜

■ 今週の看猫

■ 今週の夏ごはん


「ごはん」=食事の意味です。麺です。 夏野菜ジャージャー麺 (関連愚記事: ジャージャー麺

この10年前の愚記事の「ジャージャー麺」を見て、苦笑せざるを得ないのは、おいらの芸の無さである。10年前と今の視点が変わらない;

こまったもんだ。  でも、支那共産党は日帝に依存している。毛沢東は、日中国交回復の頃、いやみか(当時はたぶん脳軟化状態だったとされてるので)本気か、現在の中国があるのは日本帝国主義のおかげであると言明した。

死ぬまで、この調子なんだろうな。昔から、「成長しないやつ!」と罵倒されてきた。なお、「こまったもんだ」と思った対象は2005年の中国での反日暴動:wikipedia

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の絶対悪

Googleニュース: 絶対悪 絶対悪である核兵器の廃絶を目指さなければなりません

敗戦70年。そういえば今年、リークアンユーさんがpassed away(愚記事)。われらが安倍ちゃんも葬儀に参列。

(われらが安倍ちゃんが尊敬するという)そのリークアンユーさんが、原爆投下が必要であると主張していたことは愚ブログで言及している。

愚記事; 原爆投下が必要

そもそも、われらがすめろぎさまが、原爆やむをえない、と云っていることもさんざん愚ブログで言及。

愚記事; 原爆はやむをえない、など

今の若い人には信じられないと思うけど、この原爆やむをえないとひろひとさんがバッキリいっちゃてる映像というのは、テレビ時代にはめったにみられるものではなく、おいらが学生になって周囲の人に、かつて、ひろひとさんは「原爆やむをえない」っていってるんだぜ!と主張しても信じてもらえなかった経験がある。 ありがとう、YouTube!

何よりの証拠はこちらで ↓ 気の毒だが、やむをえない。



YouTube (昭和天皇「原爆投下はやむをえないことと、私は思ってます。」  )

「絶対悪」という主張する人は、こういう事例に論理的に、説得的に、反論しなきゃね。そして、天皇を中心とする憲法への言及もよろしく!

関連愚記事:すごいぞ! マッカーサー憲法! 現行憲法は十分すぎるほど天皇に日本国政への関与と責任を求めている。 護憲派!マンセー!  天皇陛下!マンセー! もっとも、そもそも現行憲法を発布したのは ひろひとさん である。(愚記事:天皇こそ日本国政の中心であることは現行憲法に明記するところである

おいらのわららがぬっぽんの将来に関する見立てはこうだ;

将来、○国の核ミサイルが日本の生贄都市[1]に打ち込まれ数百万人が死んだのち、「日本」の「天皇」は○国に服従するだろう。そして、その生贄都市には「安らかに寝てね、過ちはくりかさないよ」と刻まれるに違いない。そして、その時のすめろぎさんは「原爆やむなし」と言うのである。 おそらく、ホーリーネームだってもらうのだろう。それが「日本」だ!~♪~おいらの国だ~♪~ ~♪~愚劣なお国を、カラダに感じて~♪~ ~♪~おいらは歩こう、おバカなクニを~♪~ おバカのかぎり~ ~♪~明日の亡国を見物に行こう~♪~

[1] ○国は列島を太平洋の出口:艦隊出撃基地にしたいので、列島全体の核汚染は避けたい。○国人が、住めなくなるから。だから、生贄都市を血祭にして「日本」を屈服させる。なお、「日本」が抑止力の源泉だと思っている□国には当然、○国はあらかじめ話をつけておく。□国だって自国を犠牲にしてまで「日本」を保護・保有する必要もない。

・まとめ; 当たり前のこと=天は自らを助くる者を助く

今週の アメリカ合衆国 (U.S.A.): アメリカ横断中のヒッチハイクロボット「hitchBOT」くん、何者かに破壊される

A Canadian robot (without the Maple leaf) has been destroyed;

関連愚記事: The maple leaf saves Canadians, or they implicitly insist; We are NEVER U.S. people 

■ 

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今日の些細: アインシュタインと毛沢東; ハブとしての山本実彦

2015年08月06日 19時50分06秒 | 日本事情

「アインシュタインと毛沢東」; 題名、今日も衒いました。


  (ネット上からの パ ク リ 画像)

アインシュタインが日本に来たのは1922年。

片平にも来たらしい(本多光太郎と会う

そのアインシュタイン来日の企画を立ててスポンサーとなったのが、改造社。今はない出版社だ。その創立社長(おそらく廃社時も)が、山本実彦。

一方、毛沢東は、もちろん、日本に来たことがない[毛沢東関連愚記事群]。周恩来や小平と比べて、毛沢東は出不精だ。おそらく第二次世界大戦後にモスクワに行ったのが毛沢東生涯一度の外国旅行のはず。

もちろん、日本に来たことがない毛沢東。ところが、彼の論文、『持久戦を論ず』、『抗日遊撃戦論』、『対談 毛沢東・スノー』が、支那事変が始まった後に、日本の雑誌に掲載され、紹介されていたのだ。その雑誌は『改造』であり、もちろん、山本実彦が社長の改造社から刊行されていたのだ。

太田哲男、『若き高杉一郎―改造社の時代』に書いてあった。

雑誌『改造』に掲載された毛沢東論文は下記;

「持久戦を論ず」 1938年10月号
「抗日遊撃戦論」 1938年11月号
「世界新情勢と中国の前途」 1939年11月号
「対談 毛沢東・スノー」 1940年4月号 「時局増刷」
「憲法促進と抗日」 1940年6月号

太田哲男、『若き高杉一郎―改造社の時代』高杉一郎の伝記である。高杉一郎は改造社の雑誌『文藝』の編集長。その雑誌『文藝』にも中国人作家(郭沫若、魯迅、周作人、簫軍、林語堂、蕭紅、老舎、景宋、胡風)の新作を多く掲載していた。

上記毛沢東関連の情報は、改造社と中国との関係を示すものとしてのもの。雑誌、『改造』には毛沢東ばかりでなく、蒋介石の論文も掲載している。雑誌、『改造』の建前的立場は、「敵を知り己を知れば百戦危うしからず」というものだったのだろう。


雑誌、『改造』の常連

(毛沢東の論文を初めて雑誌、『改造』に掲載したとき)内務省だか警視庁だかの外事課から社に電話があって、あれは毛沢東が直接、寄稿したものかと訊いてきた。もちろん当時毛沢東は延安にいて、また国民党の監視下にあったときだ。延安のような中国でも僻地から、どんなルートで、またどんな理由で、侵略者日本の商業主義雑誌に、直接毛沢東が投稿することがあろうか。日本の治安関係者も、まだそのころはそれほど無知であった。(増田渉[wiki]の回想、太田哲男、『若き高杉一郎―改造社の時代』からの孫引き)

じゃぁー、毛沢東論文をどうやって、改造社、『改造』の編集部は入手したかというと、山本実彦社長が自ら集めて、中国から、持って来ていたとのこと。

▼ 当時、毛沢東は日本にはほとんど知られていなかったに違いない。もっとも、新聞には毛沢東の名前が認められる;

近衛声明(暴支膺懲)の3日後の朝日新聞、1938年1月19日(昭和13年)[愚記事]。 

●深田久弥問題

そもそもおいらが太田哲男、『若き高杉一郎―改造社の時代』を読んだ理由は、"何のことはない、改造社は、1933年秋(昭和8年)雑誌『文藝』を創刊したのだ。深田は、社内の人事移動で、『改造』から『文藝』に移ったのだ"(愚記事:今日の些細; 改造社、雑誌 『文藝』  )に始まる。太田哲男、『若き高杉一郎―改造社の時代』に一か所、深田久弥に言及している箇所・情報を見つけた。

高杉一郎『文藝』の編集をしていた時期、深田久弥は『改造』の文藝欄を担当していたとのこと。つまり、”深田は、社内の人事移動で、『改造』から『文藝』に移った”後、さらに、『文藝』から『改造』に移ったらしい。なお、『若き高杉一郎―改造社の時代』では、深田久弥の政治、思想問題に言及していない。

当の高杉一郎については、いろいろ書いてあるが、その件はまたいつか。

なお、高杉一郎は現在、大江健三郎さま、鶴見俊輔さま、加藤周一さま、御用達とのこと(太田哲男、『若き高杉一郎―改造社の時代』)。

うげ~、気持ち悪い! ネトウヨたるおいらの天敵どもが好きな人らしい、高杉一郎

そして、『若き高杉一郎―改造社の時代』の著者太田哲男さんは、どうやら、小牧治さんのお弟子さんの可能性がある。 ぎょえ。

     つまりは、茗荷谷はそんな悲しい人々の魂のふるさとなのである。

■ 肝心の高杉一郎

読んだことがなかったので、発注しました。

極光のかげに―シベリア俘虜記Amazon


 


今日の些細; 改造社、雑誌 『文藝』

2015年08月04日 22時19分16秒 | 

昨日知ったこと;雑誌『文藝』は改造社より刊行していた。

先日書いた;

ところで、小林秀雄には、「林芙美子の印象」という文章がある。昭和9年/1934年。すなわち、このスキー 旅行の3年前。「林芙美子の印象」は深田が小林に、林芙美子の印象を書け、書け!というので、困ったが(しぶしぶ)書いたみたいなことを、小林はこの文章 で云っている。そして、ねじり酒のせいにして、「林芙美子の印象」が書いてある。 (愚記事; 林芙美子 些細; スキー編  )

この「林芙美子の印象」という文章(昭和9年/1934年)は雑誌『文藝』が初出だ、と小林秀雄全集の説明に書いてあった。さらに、この「林芙美子の印象」では深田(久弥)が『文藝』の編集者であると書いてあった。おいらは、????。深田久弥は雑誌『改造』の編集者で小林秀雄の『様々なる意匠』を扱ったのではなかったか?不思議に思った。でも、ここで、雑誌『文藝』は改造社の刊行とすれば何ら不思議もなく理解できると、傍からは見えるだろう。しかしながら、先週のおいらは、雑誌『改造』『様々なる意匠』や『敗北の文学』を載せるような文藝も扱う雑誌であるから、同じ改造社から別途文芸雑誌が出ていたという考えに至らなかった。雑誌『改造』文藝雑誌でもあることは林芙美子が端的に書いている;

私は、その秋の改造十月号に『九州炭坑街放浪記』と云う一文を載せて貰うことが出来ました。その時のうれしさは何にたとえるすべもありません。広告が新聞に出ると、私は、その十月号の執筆者の名前をみんな覚えこんだものでした。創作では、久米正雄(くめまさお)氏のモン・アミが大きな活字で出ていました。森田草平(もりたそうへい)氏の四十八人目と云うのや、谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)氏の卍(まんじ)、川端康成氏の温泉宿、野上弥生子(のがみやえこ)氏の燃ゆる薔薇、里見(さとみとん)氏の大地、岩藤雪夫(いわとうゆきお)氏の闘いを襲(つ)ぐもの、この七篇の華々しい小説が、どんなに私をシゲキしてくれたか知れないのです。 (林芙美子、「文学的自叙伝)

そこで、おいらは、勝手に空想した。深田久弥はフリーの編集者で『改造』と他社の雑誌『文藝』の編集を掛け持ちしていたのだろうか?と。

何のことはない、改造社は、1933年秋(昭和8年)雑誌『文藝』を創刊したのだ。深田は、社内の人事移動で、『改造』から『文藝』に移ったのだ。そして、翌年には小林秀雄に林芙美子の印象を書いてくれと頼む。昭和12年の小林秀雄、深田久弥、林芙美子のスキー旅行も改造社の編集者の深田がハブだったのだろう。

ちなみに、改造社は林芙美子の『放浪記』が50万部の大売れをする前は、円本ブーム、さらには「マル・エン全集」、「魯迅大全集」などを刊行し、儲かっていたらしい。林芙美子が魯迅に二度会えたのは、改造社の紹介だろう。林芙美子も魯迅も改造社で儲けさせてもらい、改造社も林芙美子と魯迅で儲かったのだ。なお、林芙美子はロンドンに行ったとき、マルクスの墓参りをしている。これは、改造社の山本社長の依頼で、「マル・エン全集」で儲けさせてもらった改造社の名代として線香を上げにいったに違いないとおいらは睨んでいる。間違いない!(???)。

さて、この雑誌『文藝』はすごい。 ところで、なぜ、昨日おいらが、雑誌『文藝』は改造社より刊行していたと気づいたかというと、老舎(関連愚記事; 1936年北京、中秋の月の下; 林芙美子と老舎のすれ違い )の作品の日本への紹介はいつ頃、どのうように、誰の翻訳で、日本に紹介されたのであろうか?という疑問を持ったことである。

ネットでググった。

そうしたら、書いてあった; 支那事変の勃発の頃(すなわち、もう満州国はできている時)、

改造社『文藝』には、中国人作家の作品や中国関係の記事がさまざまに並んでいた。ここにその著者名をあげれば、郭沫若、魯迅、周作人、簫軍、林語堂、蕭紅、老舎、景宋、胡風などである。当時、中国人作家たちの作品がこれだけ紹介されていた点も、この雑誌の特色として見逃せない。(学位請求論文要旨 『高杉一郎の改造社時代』 太田 哲男)

さらには、改造社の雑誌『文藝』には支那事変の頃、盛んに中国人作家、しかも抗日作品も掲載されていたらしい;

同年2月の「“大なる時代”と作家」(老合作)は,「国を教ふことは我々の天職であり,文褻は我々の技術だ,この二者は必ず一致すべきである。救国の工作がすなわち救国の文章を生む,友人等よ,何でも工作せよ!国を愛して人後に落ちるな,雨る後にこそ語れ」と,激烈な調子で救国を訴える抗日文書である。

 さらに1939年1月号のグラビア「活動せる国際作家」の欄には,「茅盾(支那)一八九六年生。支那の新文學運動の初期より活動し,しかも今なほ文壇の現役として第一線にある……現代支那文壇に於ける指導的な重鎮。……極く最近までは廣東で『文褻陣地』を編輯して,“人”を描け,いつも問題の核心をなすものは“人”であると主張してみた」という解説付きで,茅盾の写真が掲載されている。

  このほか,薫紅や薫軍の小説,林語堂の随筆,魯迅未亡人・許広平の随筆など,「華威先生」前後(1937.7~39.5)に掲載された中国人作家の文章は,合計12篇にのぼる三昌〕日中戦争の時代に,“敵国”の作家たちの文章をこれだけ載せることは,それ自体がひとつの立場の表明を意味する。しかもその中には,老台のようにあからさまに抗日を主張する文章も見られた。 
「華威先生」の"訪日" : 日中戦争下の文学交流と"非交流" )

ということで、『若き高杉一郎―改造社の時代』(Amazon)を発注した;

 



1936年北京、中秋の月の下; 林芙美子と老舎のすれ違い

2015年08月02日 19時35分48秒 | 中国出張/遊興/中国事情

もちろん、世の中をすべてを知ることはできない。多様・膨大過ぎるからだ。何か個別、特殊な「チャンネル」("世界"をのぞきこみ、知るための節穴)で以って"世界"の極めてわずかなことを知る。そのチャンネルとして、最近のおいらがのぞきこんでいるのが「林芙美子」の世界だ(関連愚記事群)。一方、一昨年からは「老舎の世界」ものぞいている(継続中)。

さて、林芙美子の旅行記の「北京紀行」を読んだ。昭和11年秋/1936年に北京に行ったときの記録だ。盧溝橋事件の8か月あまり前だ。ところで、盧溝橋は北京郊外とか歴史書や教科書に書かれている。事実そうであり、北京の故宮から約15kmの距離。今では、地下鉄の駅ができて、すぐ行ける。東京に喩えれば、松戸みたいものだ。皇居から松戸まで15km。

その「北京紀行」を読んで、そうだよな、と実感した点;

 北京は森のなかのように樹の多い街で、そうして、厚い土塀に囲まれた真四角な建物が多い。(林芙美子、「北京紀行」)

(重要なのは、この時点で林芙美子はパリもロンドンも、当然東京も、さんざん歩いた経験を基にしての印象であること)

こんなだ ↓

もうこの画像を撮ってから10年だ。なにせ、北京オリンピックの前である。 別に北京の至るところが森の中のようなわけはない。むしろ、特定の場所であろう。さらには、最近の北京の再開発で様相は変わったのであろう。ただし、上記、孔子廟-国士監あたりの通りの樹木の通りは一昨年も残っていた。しかし、通りの雰囲気は全然、にぎやかになった(愚記事、北京参り2013 でも報告したが、人でごったがえしていた)。2005年には孔子廟-国士監には人がほとんどいなかった。


   2005年の大成殿 (ここで1966年に老舎は紅衛兵に吊し上げとリンチに遭う)

■ 秋は月、しかも、北京; 1936年の北京の空の中秋の月の下、林芙美子と老舎がすれ違っていた話

林芙美子が昭和11年秋/1936年に北京に行ったときの到着日と出立日はわからない。ただし、次の情報が「北京紀行」からわかる;①中秋の月を北京で見たこと(9月30日とある)、②この北京滞在は20日ほどであったこと。さらには、周作人に北京大学であっている。周作人は魯迅の弟。なお、魯迅は1936年10月19日に死ぬ。林芙美子は魯迅に二度会っている(愚記事)。

一方、老舎は、1936年、山東大学を辞め(夏)執筆に専念。『ラクダの祥子』[wiki]を脱稿。9月には母の80歳の誕生日を祝うため北京に帰り、祝宴を催す。10月27日に北京大学で講演会。そして、北京大学での「魯迅の逝去追悼大会」に参加。(以上、老舎の年譜情報は『文豪老舎の生涯』より)。なお、老舎は、年明け後も北京に滞在したようだが、7月7日の盧溝橋事件以降の戦争拡大で、本格的に抗日戦争に身を投じ、武漢へ行く。このとき、上記の老母は北京に置いていく。

以上のことから、1936年9月30日の中秋の満月を、林芙美子と老舎はそれぞれ北京の空の下見ていたに違いない。老舎はこの北京訪問と滞在で周作人に会っていないのも不自然だろう。老舎-周作人-林芙美子ラインというのがあったのだ。でも、林芙美子は老舎って知らなかったんだろうなぁ~。『ラクダの祥子』の祥子は ル ン ペ ン なのに。

ちなみに、1936年、芙美子33歳、老舎37歳である。

盧溝橋事件勃発8か月前、林芙美子、漢口入城の2年前の秋の話だ。


新しい街でもぶどう記録;第40週

2015年08月01日 18時33分44秒 | 草花野菜

■ 今週の看猫


やって来たよそんちの猫;  迎撃  お迎えするみけちゃん。

■ 今週の ひろひとさん 外伝


Google: 昭和天皇「蒋介石支持を」=国連代表権問題、佐藤首相に促す

 蒋介石総統率いる中華民国(台湾)政府が国連の代表権を失う直前の1971年6月、佐藤栄作首相が米国のマイヤー駐日大使(共に当時)と会談した際、昭和天皇から「日本政府がしっかりと蒋介石を支持する」よう促されたと伝えていたことが分かった。

このニュースを理解するにはこの年に生じた事態の詳しい時系列的情報が必要だ;

1971年6月: 上記ニュース=佐藤-米国マイヤー駐日大使会談

1971年7月9日: キッシンジャー、パキスタンから北京へ極秘訪問

1971年7月15日: 第1次ニクソン・ショック(ニクソン訪中宣言)=ニクソン大統領の中華人民共和国への訪問を予告する宣言

1971年10月: 中華人民共和国 国連加入 (国連の会議への代表は、小平)=台湾、国連から追放される

つまり、1971年6月の時点で、米国政府中枢(キッシンジャー&ニクソン)は台湾・国民党政府を見捨てることを決定していた。 もちろん、佐藤栄作はじめ日本人全員がそれを知らなかった。当然、ひろひとさんも知らなかった。その無知の上で、「日本政府がしっかりと蒋介石を支持する」よう促したのだ。

もっとも、東京にいた米国マイヤー駐日大使は1971年7月15日は床屋のラジオ(?)で、ニクソン訪中予定を聞いて驚愕したことは有名な話。現場の大使にも秘密裡にキッシンジャー&ニクソンは策をなしたのだ。

その後のひろひとさんと中共(=新 興 支 那 政 権)の戦略的勝利;

▼ 国民党を相手とせず!

   
  1938年       1972年


thier struggle for recognition - 1938-1972

(関連愚記事; 1937-1972の大戦略;文麿と角栄の間  )

関連愚記事;

日帝的鬼子、あるいは、父を求めて三千里
* 千両役者は、悪人に限る; 岸信介は、中共訪問寸前だった、やはり、両岸さん

 ・ まとめ: 中共を嫌いになっても、中共を侮らないでくださ~い!

■ 今週の解放屋さん

去年の今ごろ、すなわち8月の第1週目、中国では「石油屋」さんが事実上粛清された。 


愚記事

そして、今週は「解放屋」さんだ。  「解放屋」さんは石油屋さんと違って中国共産党の屋台骨だ。 実力組織だからだ。 

中国共産党、元軍制服組トップ 郭伯雄 の党籍剥奪 (google)


      郭伯雄

中共内部で何が起きているんだ!?というwkwkdkdkが丸1年続いている。遂に、人民解放軍、制服組トップが事実上粛清。

まあ、朱徳とか前例もあるしね。 郭伯雄の失脚の理由は、江沢民派直系であるかららしい。

びびる ? 倭国内、江沢民派;

■  【いか@ 武相境斜面寓 『看猫録』】のアクセス・ランキング

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