いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

今日の些細; 改造社、雑誌 『文藝』

2015年08月04日 22時19分16秒 | 

昨日知ったこと;雑誌『文藝』は改造社より刊行していた。

先日書いた;

ところで、小林秀雄には、「林芙美子の印象」という文章がある。昭和9年/1934年。すなわち、このスキー 旅行の3年前。「林芙美子の印象」は深田が小林に、林芙美子の印象を書け、書け!というので、困ったが(しぶしぶ)書いたみたいなことを、小林はこの文章 で云っている。そして、ねじり酒のせいにして、「林芙美子の印象」が書いてある。 (愚記事; 林芙美子 些細; スキー編  )

この「林芙美子の印象」という文章(昭和9年/1934年)は雑誌『文藝』が初出だ、と小林秀雄全集の説明に書いてあった。さらに、この「林芙美子の印象」では深田(久弥)が『文藝』の編集者であると書いてあった。おいらは、????。深田久弥は雑誌『改造』の編集者で小林秀雄の『様々なる意匠』を扱ったのではなかったか?不思議に思った。でも、ここで、雑誌『文藝』は改造社の刊行とすれば何ら不思議もなく理解できると、傍からは見えるだろう。しかしながら、先週のおいらは、雑誌『改造』『様々なる意匠』や『敗北の文学』を載せるような文藝も扱う雑誌であるから、同じ改造社から別途文芸雑誌が出ていたという考えに至らなかった。雑誌『改造』文藝雑誌でもあることは林芙美子が端的に書いている;

私は、その秋の改造十月号に『九州炭坑街放浪記』と云う一文を載せて貰うことが出来ました。その時のうれしさは何にたとえるすべもありません。広告が新聞に出ると、私は、その十月号の執筆者の名前をみんな覚えこんだものでした。創作では、久米正雄(くめまさお)氏のモン・アミが大きな活字で出ていました。森田草平(もりたそうへい)氏の四十八人目と云うのや、谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)氏の卍(まんじ)、川端康成氏の温泉宿、野上弥生子(のがみやえこ)氏の燃ゆる薔薇、里見(さとみとん)氏の大地、岩藤雪夫(いわとうゆきお)氏の闘いを襲(つ)ぐもの、この七篇の華々しい小説が、どんなに私をシゲキしてくれたか知れないのです。 (林芙美子、「文学的自叙伝)

そこで、おいらは、勝手に空想した。深田久弥はフリーの編集者で『改造』と他社の雑誌『文藝』の編集を掛け持ちしていたのだろうか?と。

何のことはない、改造社は、1933年秋(昭和8年)雑誌『文藝』を創刊したのだ。深田は、社内の人事移動で、『改造』から『文藝』に移ったのだ。そして、翌年には小林秀雄に林芙美子の印象を書いてくれと頼む。昭和12年の小林秀雄、深田久弥、林芙美子のスキー旅行も改造社の編集者の深田がハブだったのだろう。

ちなみに、改造社は林芙美子の『放浪記』が50万部の大売れをする前は、円本ブーム、さらには「マル・エン全集」、「魯迅大全集」などを刊行し、儲かっていたらしい。林芙美子が魯迅に二度会えたのは、改造社の紹介だろう。林芙美子も魯迅も改造社で儲けさせてもらい、改造社も林芙美子と魯迅で儲かったのだ。なお、林芙美子はロンドンに行ったとき、マルクスの墓参りをしている。これは、改造社の山本社長の依頼で、「マル・エン全集」で儲けさせてもらった改造社の名代として線香を上げにいったに違いないとおいらは睨んでいる。間違いない!(???)。

さて、この雑誌『文藝』はすごい。 ところで、なぜ、昨日おいらが、雑誌『文藝』は改造社より刊行していたと気づいたかというと、老舎(関連愚記事; 1936年北京、中秋の月の下; 林芙美子と老舎のすれ違い )の作品の日本への紹介はいつ頃、どのうように、誰の翻訳で、日本に紹介されたのであろうか?という疑問を持ったことである。

ネットでググった。

そうしたら、書いてあった; 支那事変の勃発の頃(すなわち、もう満州国はできている時)、

改造社『文藝』には、中国人作家の作品や中国関係の記事がさまざまに並んでいた。ここにその著者名をあげれば、郭沫若、魯迅、周作人、簫軍、林語堂、蕭紅、老舎、景宋、胡風などである。当時、中国人作家たちの作品がこれだけ紹介されていた点も、この雑誌の特色として見逃せない。(学位請求論文要旨 『高杉一郎の改造社時代』 太田 哲男)

さらには、改造社の雑誌『文藝』には支那事変の頃、盛んに中国人作家、しかも抗日作品も掲載されていたらしい;

同年2月の「“大なる時代”と作家」(老合作)は,「国を教ふことは我々の天職であり,文褻は我々の技術だ,この二者は必ず一致すべきである。救国の工作がすなわち救国の文章を生む,友人等よ,何でも工作せよ!国を愛して人後に落ちるな,雨る後にこそ語れ」と,激烈な調子で救国を訴える抗日文書である。

 さらに1939年1月号のグラビア「活動せる国際作家」の欄には,「茅盾(支那)一八九六年生。支那の新文學運動の初期より活動し,しかも今なほ文壇の現役として第一線にある……現代支那文壇に於ける指導的な重鎮。……極く最近までは廣東で『文褻陣地』を編輯して,“人”を描け,いつも問題の核心をなすものは“人”であると主張してみた」という解説付きで,茅盾の写真が掲載されている。

  このほか,薫紅や薫軍の小説,林語堂の随筆,魯迅未亡人・許広平の随筆など,「華威先生」前後(1937.7~39.5)に掲載された中国人作家の文章は,合計12篇にのぼる三昌〕日中戦争の時代に,“敵国”の作家たちの文章をこれだけ載せることは,それ自体がひとつの立場の表明を意味する。しかもその中には,老台のようにあからさまに抗日を主張する文章も見られた。 
「華威先生」の"訪日" : 日中戦争下の文学交流と"非交流" )

ということで、『若き高杉一郎―改造社の時代』(Amazon)を発注した;