いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

今日の些細: アインシュタインと毛沢東; ハブとしての山本実彦

2015年08月06日 19時50分06秒 | 日本事情

「アインシュタインと毛沢東」; 題名、今日も衒いました。


  (ネット上からの パ ク リ 画像)

アインシュタインが日本に来たのは1922年。

片平にも来たらしい(本多光太郎と会う

そのアインシュタイン来日の企画を立ててスポンサーとなったのが、改造社。今はない出版社だ。その創立社長(おそらく廃社時も)が、山本実彦。

一方、毛沢東は、もちろん、日本に来たことがない[毛沢東関連愚記事群]。周恩来や小平と比べて、毛沢東は出不精だ。おそらく第二次世界大戦後にモスクワに行ったのが毛沢東生涯一度の外国旅行のはず。

もちろん、日本に来たことがない毛沢東。ところが、彼の論文、『持久戦を論ず』、『抗日遊撃戦論』、『対談 毛沢東・スノー』が、支那事変が始まった後に、日本の雑誌に掲載され、紹介されていたのだ。その雑誌は『改造』であり、もちろん、山本実彦が社長の改造社から刊行されていたのだ。

太田哲男、『若き高杉一郎―改造社の時代』に書いてあった。

雑誌『改造』に掲載された毛沢東論文は下記;

「持久戦を論ず」 1938年10月号
「抗日遊撃戦論」 1938年11月号
「世界新情勢と中国の前途」 1939年11月号
「対談 毛沢東・スノー」 1940年4月号 「時局増刷」
「憲法促進と抗日」 1940年6月号

太田哲男、『若き高杉一郎―改造社の時代』高杉一郎の伝記である。高杉一郎は改造社の雑誌『文藝』の編集長。その雑誌『文藝』にも中国人作家(郭沫若、魯迅、周作人、簫軍、林語堂、蕭紅、老舎、景宋、胡風)の新作を多く掲載していた。

上記毛沢東関連の情報は、改造社と中国との関係を示すものとしてのもの。雑誌、『改造』には毛沢東ばかりでなく、蒋介石の論文も掲載している。雑誌、『改造』の建前的立場は、「敵を知り己を知れば百戦危うしからず」というものだったのだろう。


雑誌、『改造』の常連

(毛沢東の論文を初めて雑誌、『改造』に掲載したとき)内務省だか警視庁だかの外事課から社に電話があって、あれは毛沢東が直接、寄稿したものかと訊いてきた。もちろん当時毛沢東は延安にいて、また国民党の監視下にあったときだ。延安のような中国でも僻地から、どんなルートで、またどんな理由で、侵略者日本の商業主義雑誌に、直接毛沢東が投稿することがあろうか。日本の治安関係者も、まだそのころはそれほど無知であった。(増田渉[wiki]の回想、太田哲男、『若き高杉一郎―改造社の時代』からの孫引き)

じゃぁー、毛沢東論文をどうやって、改造社、『改造』の編集部は入手したかというと、山本実彦社長が自ら集めて、中国から、持って来ていたとのこと。

▼ 当時、毛沢東は日本にはほとんど知られていなかったに違いない。もっとも、新聞には毛沢東の名前が認められる;

近衛声明(暴支膺懲)の3日後の朝日新聞、1938年1月19日(昭和13年)[愚記事]。 

●深田久弥問題

そもそもおいらが太田哲男、『若き高杉一郎―改造社の時代』を読んだ理由は、"何のことはない、改造社は、1933年秋(昭和8年)雑誌『文藝』を創刊したのだ。深田は、社内の人事移動で、『改造』から『文藝』に移ったのだ"(愚記事:今日の些細; 改造社、雑誌 『文藝』  )に始まる。太田哲男、『若き高杉一郎―改造社の時代』に一か所、深田久弥に言及している箇所・情報を見つけた。

高杉一郎『文藝』の編集をしていた時期、深田久弥は『改造』の文藝欄を担当していたとのこと。つまり、”深田は、社内の人事移動で、『改造』から『文藝』に移った”後、さらに、『文藝』から『改造』に移ったらしい。なお、『若き高杉一郎―改造社の時代』では、深田久弥の政治、思想問題に言及していない。

当の高杉一郎については、いろいろ書いてあるが、その件はまたいつか。

なお、高杉一郎は現在、大江健三郎さま、鶴見俊輔さま、加藤周一さま、御用達とのこと(太田哲男、『若き高杉一郎―改造社の時代』)。

うげ~、気持ち悪い! ネトウヨたるおいらの天敵どもが好きな人らしい、高杉一郎

そして、『若き高杉一郎―改造社の時代』の著者太田哲男さんは、どうやら、小牧治さんのお弟子さんの可能性がある。 ぎょえ。

     つまりは、茗荷谷はそんな悲しい人々の魂のふるさとなのである。

■ 肝心の高杉一郎

読んだことがなかったので、発注しました。

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