今日の筑波山麓
■『羊をめぐる冒険』における囚人道路
村上春樹、『羊をめぐる冒険』に囚人道路(参照拙記事:出藍の誉れ;町村信孝外相 )が出ていると今日初めて気づく(何度も読んでるはずなのに)。
明治三十五年に村のすぐ近くにある台地が牧草地として適していることがわかり、そこに村営の緬羊牧場が作られた。道庁から役人がやってきて、柵の作り方や水の引き方、牧舎の建築などを指導した。次いで川沿いの道が囚人工夫によって整備され、やがて政府からただ同然の値段で払い下げられた羊の群れがその道を辿ってやってきた。
『羊をめぐる冒険』、羊をめぐる冒険Ⅲ、1 十二滝町の誕生と発展と転落
うーん、すごい。村上作品は寓話的とか野暮じゃない上品な表現とかが人気で受容されているとされるが、実は過酷な近代日本の現実を"埋め込んで"ある。
囚人工夫による北海道の道路づくりというのは、今でも語り草になる(しつこく上記拙記事参照)ほどの奴隷労働である。たぶん、日本史上(日本人が日本人にしたものとして)証拠として残るものとして、最悪の残酷さであった。その証拠というのは奴隷労働で死んだ囚人の遺骨が数百人規模で現在出る。そしてその遺骨には鉄球・鉄鎖が付いている。→Wikipedia;鎖塚
想像してくれよ!その道端に弊死した囚人を埋めた道を羊の群れがメーメーいいながら行進する! まさに、羊が人を食うではないか。本源的蓄積だ。もっとも十二滝町においては牧用地が農民にあたえられるのであるが...。
そこまでして明治新政府は国策を進め、そんな道を通って、羊の群れがやってくる。近代日本の空虚さを羊を象徴として描くこの『羊をめぐる冒険』、村上春樹はこの囚人奴隷労働を知ってこの物語に織り込んだのだろうか?
榎本守恵、『北海道の歴史』、北海道新聞社、1981年 より転載。