いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

私は妬いたことがない;あるいは、福田恒存や村上春樹

2009年09月15日 19時33分46秒 | 東京・横浜


屠られた掃除のおじさん

闘いうどん氏が開港博で買った木久蔵ラーメンに現(うつつ)を抜かし、つまりはうどんを啜ることを忘れ、どうやら、推敲に推敲を重ねて、300人委員会加入申請のための自己推薦文か、はたまた300人委員撲滅のための檄文を書いているらしい。

■そもそも日本が300人委員会に着目されるに至ったのは、日本が近代化し、300人委員会が日本を飼えば益を搾りとれるからという打算がなりたつからに他ならない。そんな日本近代化の嚆矢が開国・開港であり、決断したのが我らが井伊直弼に他ならない。きっと、闘いうどん氏も開港博でそっと掃除のおじさんにオマージュをささげたに違いない。

■そんな闘いうどん氏が言及している「福田恒存は渡部昇一を批判していたそうで、」というのは、雑誌「中央公論」、昭和五十六年三月号の『問い質しき事ども』にある(のち新潮社から単行本『問い質しき事ども』、現在は全集七巻に収録)。文脈は、清水幾太郎の論文「核の選択」に対し、福田恒存は「近代的知識人の典型清水幾太郎を論ず」を書き、清水を徹底的に批判した。その福田の清水批判に渡辺が福田を批判するというより清水を助けるようなことを言った。これに福田が怒った。それが、「福田恒存は渡部昇一を批判していたそうで」のいきさつ。以下一部抜き書き;

 あなたは、カトリックを自称しながら、左右の空間を越え、過去と未来の時間を越え、その横軸に交わる縦軸が全く見えないらしい。あなたには生と死が向かい合い、心と物とが出逢う一人の人間が全く解っていない。そういう人間が、国家や国防を論じ、歴史や知的生活の方法を語り、ジャパニーズ・アズ・ナンバーワンなどという夢で国粋主義の頤をくすぐる。あなたの正体は共産主義者と同じで、人間の不幸はすべて金で解決できると一途に思い詰めている野郎自大の成り上がり者に過ぎぬのではないか。
 (当然かなづかいは勝手に修正)

うーん、おとろしい。

■全然話が変わって、お題を私は妬(や)いたことがないへ転換; この「問い質しき事ども」の中でおもしろいと思った福田の発言。つまり、福田が清水を批判した時、周囲に起こったらしいことについて、福田は言っている;

 私が清水幾太郎を批判した時、多くの人々は、先取権を主張したものと思いこみ、嫉妬心から文句を付けたと勘違いしたらしい。が、私という人間と嫉妬心という感情とは、およそ縁がない。嫉妬心に限らず、羨望、虚栄心の類は負の情念であり、余り生産的ではないからであろう。それ故、まさか、そんな風に思う者はあるまい、たとえあったにしても、それを嫉妬からだと言えば、かえって自分のうちにそれがあることを証しするようなものだ、物を書く人間なら、そのくらいの羞恥心や自意識を持っているだろう、そう漫然と筆を執っていたのである。

■一方、村上春樹はインタビューで言っている;

(インタビュアー) それは「僕」のキャラクタリゼーションという部分だけには限らないですよね。村上さんの小説の中ではそういう競争心とか嫉妬心とかそういう意識はすごく小さな位置しか占めてないように思うのですが。

村上 うーん、たしかにそうなんですね。おっしゃるとおりです。それについてはね、僕もよく考えるんです。でもね、正直に言って、それは僕自身の中にそういう意識がやはり希薄だからじゃないかな、と思います。べつにだから僕が立派な人格であるということではなくて、僕は僕なりにひどくいい加減な人間だとは思うけれど、そういう嫉妬とか競争心とか劣等感とかいったような意識はたぶん希薄ですね。(中略)嫉妬心というのもね、そうねえ、あまりないと思うな。女房に言わせると、ぜんぜんないんじゃないかって言うね。

『村上春樹の世界』ユリイカ臨時増刊、1989年


▼うーん、福田恒存も村上春樹も偉い人は、みんなすごい。やれやれ。

おいらみたいにひがみ根性を駆動力として生きているぬんげんとは大違いだ。リアル社会でも「そういうこと言うのは、君の ひがみ だ」と公然と御指摘を受けてるんだからね、おいら。ガンガレ!