いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

そう思うから、そう見える

2009年09月18日 18時21分44秒 | その他
  

先日の拙記事: なぜ彼岸花は用水路脇に咲くのか? は、検索ワード"なぜ彼岸花は"経由で人を集めた。ただし、集まった人たちの疑問は"なぜ彼岸花は葉がないのか?"であった。 (追加参照拙記事:彼岸花

そうなのだ、彼岸花は葉がないのだ。言われるまで気付かなかった。

目に入っていることと、知ること、あるいは気づくことは大違いだという典型である。

今朝、改めて彼岸花を見直した。当然、葉はなかった。"そう思うから、そう見える"。

さらには、白い彼岸花も生まれて初めて"発見"した。

幕末の天皇発見

 尊攘の志士の多くは、中下級の士族・郷士・浪人・神官・僧侶・学者・医師そして豪家の農商の子弟である。政治上の志をもっていても、これを述べることができる身分にない者たちである。逆にそうであるからこそ、述志の情熱が内に亢進していたと言えるかもしれない。
 外圧の危機があった。そして天皇の発見があった。天皇は、将軍や諸侯を超出した存在であるから、天皇にたいしては身分格式ないし貴賤上下にかかわりなく平等に、直接に忠誠を尽くすことができる。逆にいいかえるならば、志士たちは、天皇への忠誠を語ることによって、身分格式の桎梏から解放されることになる。そして志士たちは、天皇への忠誠を語りながら他にもこれを要請していく。尊王運動である。天皇の意志が攘夷にあるとみて、志士たちはこれの実践にふみきる。尊王攘夷運動である。

井上勲、『王政復古』


▲今日のブログ記事ネタ選定の動機は、すめろぎをめぐる存在と認識が話題となっているからである。→2009-09-15 小林よしのり氏に答える(2)

ああ、存在と認識!; ぬんげんにとってのαでありωである。