いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

真イカ姿煮

2009年08月25日 21時51分20秒 | 国内出張・旅行

真イカ姿煮

茨城県ひたちなか、にて。

南部仏印進駐 wiki: 仏印進駐

昭和16年(1941)9月6日に対米英蘭戦争が御前会議で決定された(10月という期限を決めて外交で決着しなければという前提で)。昭和天皇が「よもの海 みなはらからと 思う世に など波風の たちさわぐらむ」と読んだ御前会議。内閣総理大臣は、近衛文麿。

なぜ、対米開戦を決断することになったかというと米英蘭から石油などの輸入を止められ、このままでは戦争もできなくなってしまうので、早く開戦を!という言い分(永野軍令部長とか)。

で、なぜ米英蘭が石油を輸出を止めたかといと、日本が昭和16年(1941)7月28日に南部仏印進駐を行ったから。この進駐を受けて米国は直ちに8月1日石油を含む一切の物資を禁輸とした。在米日本資産も凍結。もうこの時点で事実上の戦争である。つまり、米国は戦争を辞さないつもりだった。日本が戦争を辞さないと決める上記御前会議(9/6)より前だ。

なぜ、米国が戦争も辞さないと決めたかというと、日本の南部仏印進駐を許せなかったからだ。一方、日本では南部仏印進駐が事実上の対米宣戦布告であるという自覚がなかったらしい。

筒井清忠、『近衛文麿 教養主義的ポピュリストの悲劇』から抜き書き;

 15  第三次近衛内閣  -南部仏印進駐・頂上会談構想・九月六日御前会議-

 既述のように一九四一(昭和一六)年七月二八日に南部仏印駐留が行われたのだが、その数日前に近衛は幣原喜重郎に面会し、このことを告げた。幣原が"船を引き返せないか"というと、近衛は"御前会議で決定したことなので覆せない"と答えた。すると幣原は言った。「そうですか。それならば私はあなたに断言します。これは大きな戦争になります」。近衛は「そんなことになりますか」と「目を白黒させ」、「いろいろ軍部とも意見を戦わし、しばらく駐兵するというだけで、戦争ではない、こちらから働きかけることをしないということで、ようやく軍部を納得させ、話を纏めることが出来たのです。それではいけませんか」と言った。幣原が「それは絶対にいけません」というと「近衛公は顔面やや蒼白となり」「何か他に方法がないでしょうか」と言った。幣原は、「勅許を得て兵を引きかえす他に方法はありません」「もう面子だけの問題じゃありません」と断言したが、これで打ち切りとなり、幣原には「不愉快な煮え切らぬもの別れとなった」という。(1、幣原喜重郎・『外交五十年』)
 幣原の"自慢話"なのでこの時の近衛の態度などについては割り引いて聞く必要があるが、それよりも、外相を辞めてから10年近く外交の枢機に参画することなく世間から忘れられていた幣原を呼んで意見を求めていることのほうが注目されるべきであろう。その人の置かれた政治的状況でなく専門領域についての見識により人の意見を求めようという態度が見られるからである。近衛が同時代人から評価されたのはこうした教養主義的な懐の深さがあったからだと見てよいだろう。
 そして、南部仏印進駐に対してアメリカは石油を止めてくるなどの様々な強硬手段を発動してきたので日米戦争の危機が高まってくるのだが、これに対して近衛が八月四日「遂に自ら大統領と会見しようと一大決心を固める」にあたっては、この幣原との会見も大きな影響を与えたのではないかと思われる。


(下線、おいら) おいらがぎょっとしたのは、近衛が南部仏印進駐が日米戦争につながる、いや、米国を限りなく挑発する行為であることに無頓着だという史実ばかりではなく、筒井清忠も下線のごとく南部仏印進駐が日米戦争につながったという認識が薄いこと。そして、南部仏印進駐が日米戦争につながることに近衛が無神経のことに筒井清忠が驚くのではなく、近衛の"教養主義"に注目していること。

もちろん、中川八洋センセのごとく、南部仏印進駐は近衛文麿の"犯罪"であり、日米戦争のはじまりであった、というのが史実であると言いたいのではなく、むしろ、悪意などなさそうなあっけらかんとした近衛が戦争に大きく踏み出したことへの驚き、そしてその近衛のおめでたさへの分析が筒井清忠には認められないことに、おいらは驚いた。

でも、亡国へとあっけらかんと踏み進む神経と"教養主義"は正反対のものとは思われない。両者とも"おばか"ということはありうる。その両者に欠けていた南部仏印進駐の戦略的意義とは?

矢次一夫、『政変昭和秘史 (下)』より抜き書き;

 アメリカが、もしも日本の南仏進駐を見送り、南仏占領を許して終わった場合、東南アジアの広大な各地域は、すべて日本爆撃機の行動圏内に入って、大きく言えば、制空権を奪われてしまうことになるだろう。これをアメリカがおめおめと見過ごすものでない...(略)当時の日本軍部が、この点で、甚だしく対米認識を欠いたという批判は、今日に至っても免れ得ないゆえんである。

もちろん、これも結果が分かった戦後に書かれたものなので、「割り引いて聞く必要があるが」、南仏・サイゴンの戦略的重要性が発揮されるのはまさに対米英戦争開戦後。南仏・サイゴンから出撃した航空隊により、英国海軍、プリンスオブウエールズ、レパレスは撃沈された。だから、日本の南仏進駐は正しかったのだろうと結論できるのだろうか?ただし、その場合、続々と出てくる米軍を撃破するという善後策を担保しているという条件でなければならない。





http://www.teamrenzan.com/archives/writer/edajima/post_168.htmlから勝手に転載 (乞う、御容赦)。