いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第27週

2024年09月28日 18時00分00秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第26週

■ 今週のよその猫

■ 今週の筑豊境

■ 今週の花

■ 今週の博物館:いのちのたび博物館@北九州市

中央が恐竜の顔の正面です。頭が薄い(縦横比が大きい)。

■ 今週の丼

うどん屋さんで、牛丼です。

資さんうどん特製「牛丼」!甘辛く炊いた牛肉が特徴で、ホカホカご飯との相性抜群です!web site

味が濃く、甘いです。

■ 今週の誇大広告 : ごぼ天が小さい

資さんうどん:ぶっかけうどん(冷)。<荊の簪を挿した御方さま>の注文品。ごぼ天が小さい。皿の中に納まっている。広告の写真では皿からはみ出している。

資さんうどんのごぼ天は長さが14cmとの解説がある(web site 【資さん通信】「美味しいごぼ天の作り方をご紹介)。上記画像のごぼ天の長さの測定の記録は、もちろん、ない。

■ 今週の赤腕章

資さんうどんでは店舗にひとり、赤腕章をしているスタッフがいる。案内係と書いてある。

■ 今週の半額;

国産のさばを海外でフィーレ加工し丁寧に一枚ずつ手作業にて骨を取りました。
脂ののった国産さばを骨取り加工した安心・安全なフィーレ原料を使用しています。 
(大分県佐伯市野岡町山田水産 web site

⇒ おすすめレシピ

■ 今週の「鉄条網の向こうの世界遺産」:明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼,造船,石炭産業/官営八幡製鐵所/旧本事務所


 福岡県北九州市八幡東区尾倉(google map)。遠くから見るだけです。

官営八幡製鐵所創業2年前の1899 年に竣工した初代本事務所は,中央にドームを持つ左右対称形の赤煉瓦建造物で,長官室や技監室,外国人顧問技師室などが置かれた。(文化遺産オンラインweb site


模型:現場から離れた「スペースLABO ANNEX」の官営八幡製鉄所の展示ギャラリーgoogle map

■ 今週の「日本近代化の節目」1901年、あるいは、を参照としての近代化のあとさき、はたまた、博文と諭吉

福沢諭吉は『福翁自伝』で云っている;

ただ驚いたのは、掃溜はきだめいって見ても浜辺に行て見ても、鉄の多いには驚いた。申さば石油の箱見たような物とか、色々な缶詰の※(「士/冖/一/几」、第4水準2-5-22)あきがらなどが沢山たくさんてゝある。れは不思議だ。江戸に火事があると焼跡に釘拾くぎひろいがウヤ/\出て居る。所で亜米利加アメリカに行て見ると、鉄は丸で塵埃ごみ同様に棄てゝあるので、どうも不思議だと思うたことがある。(始めて亜米利加に渡る、事物の説明に隔靴の歎あり)(引用元

日本の前近代の特徴は鉄、鋼が貴重品だったのだ。


東田第一高炉史跡:福岡県北九州市八幡東区東田2丁目3 東田第一高炉(google map


1901年4月 伊藤博文と井上馨を中心とした集合写真

福沢諭吉は1901年2月に死ぬ。官営八幡製鐵所は同年同月に操業開始。


中央が伊藤博文、左が井上馨、右が和田維四郎(つなしろう)[wiki]、博文の後ろが麻生太吉[wiki]

福沢諭吉と伊藤博文は実際の歴史で交流があった。明治7,8年頃会ったとのこと。欧米情勢、欧化政策の情報交換でもしたのだろう。明治13年に「福澤諭吉は伊藤博文・井上馨・大隈重信の3人の参議から国会開設の意向を打ち明けられ、そのために官報のような新聞を発行することを依頼された。福澤は「是マデノ御決意トハ露知ラザリシ」と彼らの決心を歓迎し、これを快諾して準備を進めた。ところが、大隈が政府を罷免された翌年の明治14年の政変により、この件は一切立ち消えとなった。福澤は伊藤と井上に長文の書簡を送り、新聞発行が立ち消えとなった理由を問いただしたが、両者から返事はなかった。以後、2人とは絶交状態となった。引用元)」そして、「明治31年に福澤が開いた園遊会に伊藤が出席し、17年ぶりに2人は愉快そうに語り合ったという。その後まもなく福澤が倒れ、これが伊藤との最後の面会となった。(同上引用元)」

なお、明治24年に大槻文彦は日本最初の国語辞書『言海』を完成させた。出版祝賀会には福沢諭吉も伊藤博文も招待された。スピーチを頼まれた。大槻文彦、大槻磐渓親子と福沢諭吉は維新前からの旧知。でも、出席者に伊藤博文がいることを知ると「私は貴顕の尾につくのはいやだ、学者の立場から政事家と伍をなすを好まぬ」と、断った(高田宏、『言葉の海へ』)。

もっとも、諭吉は、そもそも、維新前1863年の長州藩による外国船無差別砲撃の処理の幕府の担当者であった。外国船無差別砲撃を主導したのは松下村塾出身の久坂玄瑞であり、伊藤博文と井上馨はむしろロンドンから帰ってきて止めることを長州藩に説得する立場であったが、諭吉は長州藩の跳ね上がり小児病的攘夷に怒り、幕府が外国軍と連合して長州を打てと幕府上層に提言した。

そして、1901年、伊藤博文と井上馨は官営八幡製鉄所の操業に貴顕としてその集合写真の中心に収まり、さらには、2015年、官営八幡製鉄所ばかりではなく松下村塾が世界遺産:明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼,造船,石炭産業に認定されるのであった(愚記事:「世界で一番成功したテロリスト養成学校」を産業化の枠組みに押し込める(パッケージ化する)ものだ!)。 

・文化遺産オンライン:松下村塾

日本の近代化の思想的な原点となった遺産の一つ。特に,海防の必要性と,西洋に学び,産業,技術の獲得を重視する考え方が,長州ファイブや塾生に引き継がれ,後に,明治政府の政策に活かされ,日本の急速な産業化に貢献した。

松下村塾の出身者に正木退蔵[wiki]という人がいて、のちに東京職工学校(今の東工大⇒東京科学大学)の校長になったというのだ。

今では(2015年の世界遺産登録後)、松下村塾は、「産業革命の担い手となる人材の育成に貢献した吉田松陰の私塾」と説明されている(⇒松下村塾 | 明治日本の産業革命遺産)。

松下村塾といえば、世界史に残る最も成功したテロリストの養成所であることがその名を轟かせていたと思っていたのに、今じゃ、維新回天が「矮小化」され、産業革命の担い手の養成所扱いだ。アベノミクスのせい???

    
久坂玄瑞    正木退蔵

 
産業化のための師

■ 今週の訃報

写真家の細江英公さん死去google

写真家の細江英公さん死去 91歳 三島由紀夫を撮った「薔薇刑」
人間の身体に迫る大胆な表現で、戦後写真界の中心的存在として国際的に活躍した写真家で文化功労者の細江英公(ほそえ・えいこう、本名・細江敏広=ほそえ・としひろ)さんが16日、左副腎腫瘍のため死去した。ソース

写真家・細江英公は三島由紀夫ばかりでなく、江藤淳の写真も撮っている。

 

おそらく、ニューヨークの摩天楼を背景にした江藤淳の写真が細江英公により撮影され、『江藤淳著作集4 西洋について』の巻頭写真に載っている。写真撮影の由来は説明されていない。ネットで調べると、この写真は江藤の単行本『アメリカと私』(朝日新聞社)に使われたとわかった。撮影日時は1964年5月。撮影場所は、やはり、ニューヨーク(エビデンスソース)。

愚記事、江藤淳が、三島由紀夫を「殺した」のか?で書いたように、江藤淳の有名な文章、『「ごっこ」の世界が終ったとき』(1970年 !)の三島由紀夫批判は結構深刻であり、今の視点からみて、相当穿っている。

それは三島由紀夫の「盾の会」を全共闘と並べて「ごっこの世界」での事象と捉えるばかりでなく、自衛隊を「自主防衛ごっこ」と考えている。そして、自衛隊を日本の軍隊と感じることができないと江藤は表明し、この感覚は江藤ばかりでなく自衛隊の将校たちこそ痛切に感じているはずだとする。「自衛隊は人気がなのではなく、その成立と性格の根源に人気を凍らせてしまうものを含んでいるのである」という。これは、自衛隊が日本のためでなく、マッカーサーの命令で創設されたことを云っているのだろう。江藤淳は自衛隊を「アメリカの日本人によるアメリカのための兵力」、あるいは、「米衛隊」と云っている。確かに、三島由紀夫は自決時の檄でこのままではアメリカの傭兵で終わると云っている。しかし、自衛隊は創設時からアメリカのための兵力であった。



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