南の島
■西田幾多郎 「世界新秩序の原理」の周辺
田中美知太郎 『時代と私』から抜き書き;
十八年から十九年、そして二十年と選挙区が急迫し、徴兵や徴用、疎開そして空襲ということが重なってくると、国全体が動揺し崩壊現象を起こしてくるのである。滅私奉公などと言っても、公の名による強制は、一つの災難のようなものとして、何とかこれをのがれる工夫をしなければならなくなったりする。つまり、公に対して私を守るようなことが第一義になってくるのである。
「この頃寒暑の変化激しい様で御座います
お変わりも御座いませぬか
今度の事にて大学は大変でせう
どうなりますか
講義はやはり継続になりますか
金子(武蔵)なども尚四十歳未満のこと故何か召集という如きことにもなりはせぬかと思われます
高山(岩男)などもまだ若いのですが(前に高木か誰かの指図で)海軍の仕事をして居るので海軍の方から海軍の方に必要の人物ということを某筋に云ってあるという云うことです
お話により金子も今度海軍の嘱託ということになりましたこと故海軍の方にて何とかそういう様な手続きを取って置いてくれないものにや
お考え下され何卒よろしくお願い申し上げます」
(十八年十月一日、和辻哲郎宛 全集書簡)
という西田幾多郎が娘婿金子のために、徴兵や召集をまぬがれるようにて心配しているこの手紙は、そういう崩壊しつつある社会において、まずめいめいが自分自身や自分の家族のために工夫しなければならなかった状況というものを教えてくれる。
この西田幾多郎が和辻哲郎への懇願の手紙の中の高山岩男とはあの「近代の超克」論者。戦争を大東亜共栄圏の建設という至上の理想、「近代の超克」のために止むを得ないものと肯定。
この手紙の前提として、和辻哲郎が海軍にコネを持っている事実がなければならない。
■さて、西田幾多郎は「世界新秩序の原理」を書いている。内容は、大東亜共栄圏確立と対米英戦が日本の民族的使命であるというもの。(→実現すますた。マンセー)
この文章は、矢次一夫を仲介として、陸軍に頼まれ、執筆、提出したものとされている。いつ執筆・提出したのかは、おいらは、まだ調べ切れていない。
ただ、推定するに、昭和18年の「大東亜会議」の大東亜共同宣言のために陸軍が作文が必要になったのではないだろうか?「大東亜会議」は昭和18年11月である。
さらに、邪推すると、上記の和辻への懇願の手紙と関係があるのではないだろうか? つまり、軍の仕事と引き換えに、「自分の家族のために工夫」したのでは? ただし、この邪推が成り立つには、陸軍と海軍のギャップ、そして10月と11月のギャップを埋めなければならない。一方、西田はこのような懇願の手紙を和辻だけではなく、あちこちに出していたと考えれば、この邪推はなりたつかも。
■軍部と作文内閣
(東條)内閣中枢部は連日軍隊的用語と思われる漢語まがいの文章を以て、連日機構の改正(略)を呼号し、毎日何か新しき考案を以て新聞を賑わさずには済まされぬ様になった。 (略)
内閣や大本営、軍部の作成に関る難解にして複雑なる立案が立て続けに審議せられ、可決せられ、命令せられる。
この内閣は作文内閣である。
(from 重光葵、『手記』、「軍部と作文内閣」)
つまりは、こんな状況で、西田の作文は書かれたのではないだろか? 「連日の軍隊的用語と思われる漢語まがいの文章」に飽きた内閣・軍人が、「哲学用語と思われる漢語まがいの文章」を所望したのだ。
■西田幾多郎 「世界新秩序の原理」は大東亜宣言に寄与したか?
たぶん、してないのだろう。なぜなら、大東亜宣言の作文担当は、陸軍ではなく、外務省であったから。つまりは、重光葵の統括下にあったのだ。たぶん、重光は陸軍に口出しさせなかったのだろう。
周知の通り、昭和18年東京で開かれた大東亜会議とその宣言は、大東亜会議に先だって行われた米英の首脳会談とその宣言・大西洋憲章
対抗であるからには、大西洋宣言をよく研究して、それに対抗・応答するものではなくてはいけない。昭和18年の大東亜会議は、近衛内閣時代の"東亜新秩序宣言"と同じものではない。三木清とか、たぶん西田幾多郎はこの"東亜新秩序宣言"の延長の"東亜共同体論"(? これから調べる)。
ちなみに、外務省の誰が、どのように大東亜宣言作文したのかを、おいらはまだ知らない。