いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

夕陽

2009年08月04日 19時32分53秒 | 日本事情

南の島

林達夫Ⅵ

どうでもいい林達夫シリーズ、だらだら第6弾;林達夫の学生時代というのが、下記教養主義、それも元祖の大正教養主義のただ中だったらしい。そして、その近衛文麿/教養主義とシンクロし、戦争に時代へとすすんでいく。教養主義者って、戦争の時、どうしてた?

筒井 清忠、 近衛文麿―教養主義的ポピュリストの悲劇 (岩波現代文庫) (文庫) の 4. 京都大学「白川パーティー」にかいてある;近衛文麿は一高から京都大学へ行く。その時、学習院で出会っていた"貴族"仲間、木戸幸一、原田熊雄とともに学生生活を送る。「西田幾多郎をかこんで『善の研究』を読んだり、休日には西田先生を加えて嵐山に遊んだり」(筒井 清忠、近衛文麿)していた。

生没年
近衛文麿 1891-1945
木戸幸一 1889-1977
原田熊雄 1888-1946

大戦の際には、木戸が内大臣で近衛文麿→東條英樹の政権交代を"主導"した。敗戦時には明暗がはっきりとし、"竹馬の友"でありながら、木戸は近衛を"売って"自らの保身を図ったとの説がある。戦犯としての逮捕に、近衛は自殺、木戸は東京裁判に臨み、懲役刑。原田熊雄は西園寺公望の秘書。

▼一方、林達夫は同じく京大の文学部哲学科で、三木清、谷川徹三と同期。教官に西田幾多郎がいた。

生没年
林達夫  1896-1984
三木清  1897-1945
谷川徹三 1895-1989

2グループのキーパーソン:西田幾多郎

▼近衛文麿の政策ブレーン集団が昭和研究会で、三木清と林達夫が関与していた。さらに、西田幾多郎は、近衛内閣時ではないが、東條内閣時、大東亜会議を開催するにあたり、世界新秩序の原理を書き、政府に"非公式"に提出したらしい。この文章は本もので本当に西田が書いたものと、今では、認定されている。以前は全集に入っていなかったらしいが。

▼林達夫の東方会、プロパガンダ雑誌『FRONT』はさんざん書いた。

▼谷川徹三は;

谷川は飛行機でシナ大陸へ飛び、その土産話をラジオなどで放送したりしたが、この時代にさういう生生しい関心をもつて生き、特別の反撥も違和感もなしにいることのできる生き方というものに、私はむしろ羨ましさみたいものを感じた。(略)彼らはいつも日の当る場所に近づき、そこから享受できるものを見つけ出す。一種にぎやかな笑いがそこにあるとも言える。そしてわたしは自分のとは全くちがう気質の三木、谷川というような先輩に対して、それぞれにいつも一種の人間的な興味をもっていたわけだ。

田中美知太郎、『時代と私』

●まとめ● そうなのだ、"教養主義"は日の当る場所に近づくことなのだ(?????)。

▼ 補足:Some have gone and some remain

敗戦で、近衛は自殺に追い込まれ、三木は戦争中あれだけ軍に協力したにもかかわらず、逮捕され、終戦直後獄死した。

木戸幸一と林達夫と谷川徹三は生き延びた。そして、なにより、谷川徹三は、ひろひとさんより長生きして、昭和天皇崩御に際しての『世界』の特集号で、唯一天皇を称える文章を載せ。た。その8か月後、天皇称賛の任務を果たし安心したのか?、死んだ。恐れ入る尊王家ではある。

「だが、それにしても、やはり運であった。」(林達夫、「三木清の思い出」)