親の肩越しにおいらをじろじろ見るのでデジカメで撮ってやった。
一見情けない顔をしているので、こんなデジカメ画像を撮ったおいらが悪党のようであるが、違う。 無遠慮にじろじろ見るので、こちらも無遠慮にデジカメのシャッターを切った刹那デジカメから焦点合わせと露出検出のため放射される赤い光にやられて、情けない顔となった次第。
猫のおめめぱっちりのデジカメ画像がなかなか撮れないのと同じ理由である。
さて、おいらが「毛唐」という言葉を初めて見たのは城山三郎の『官僚たちの夏』のあるくだりであった。チンゲが生えるか生えないかの頃だった。文脈や語そのものから侮蔑語であるらしいことはわかった上、おいらの中での米英撃滅思想もこのころ確固としたものになりつつあったので、この言葉の採取の瞬間をよく覚えている。ただ、はたち過ぎるまで、ずーっと、「もうとう、もうとう」と心の中で発語していた。辞書を引いたかもしれないが、もちろん、もうとうでは載っていないし、その載っていないことこそ、この語が侮蔑語であるからなのだろうと納得したものと思われる。
なお、今に至るまで現実の社会の生身の会話で「毛唐」と言っている人においらはまだ会っていない。
ところで、城山の小説では通産の高級官僚の発する言葉として「毛唐」が使われている。おいらが、今に至るまで現実の社会の生身の会話で「毛唐」と言っている人においらはまだ会っていないのは、偉い人が周りにいないからなのかな?