alternativeway

パリ、カフェ、子育て、サードプレイス、
新たな時代を感じるものなどに関して
徒然なるままに自分の想いを綴っています。

本物に触れる

2016年12月19日 | パリのカフェ的空間で
 子供に本物に触れさせること
子育てで何を大事にしてるかと問われたら
最近の私の答えはこれを置いて他にないと思う。

 どうしてそれがそんなにも大切なのか?
この必要性を感じていない日本人は多いと思う。
我が子はまだ8歳だ。そんな時にどうして
わざわざ美術館やお寺巡りに?もちろん子供は
それが好きじゃない。他の低学年の子供たちといえば
習い事に忙しく、英語に野球、サッカー、プール、
バレエもあるから土日はとにかく暇がない。
でも私はこう思う。今、この時に無理やり、
子供の興味は一旦さておき、きちんとしたものに
触れさせること、それは本当に10歳くらいになるまでの
今しかできないことではないのだろうか・・・

 でも、子供はそんなの興味ないじゃない?
そう、確かにそうだけど。
正直そんなのどうでもいい。
親の手を引っ張ってくれてるうちに、
まだ勝手に自分でどっかにいかないうちに
無理やりにでも、いいものはいいと伝えていくこと
それは文化の継承という上で死活問題じゃないかと思う。

 日本には美しい文化がある。日本の伝統は美しい。
でもそれはもはや死にかけていると私は思う。
京都では生きているかもしれない、田舎でもまだ少し?
でも東京において、伝統を意識して生きることは
それが職業な場合を除いてごく稀だ。
私たちは椅子に座って生活し、多くの家から畳が消えた。
もちろん囲炉裏なんて存在しないし、もはや
昆布と鰹で出汁をとらない家も多いという。
小さいときに、右も左もわからぬうちに
無理やり本物に触れさせておく。
そうすると子供はうんちく以前に
「〜とはそういうものだ」と思っていく。
「出汁とは昆布と鰹でとるものだ」と思っている家で育った子と
「出汁とは粉末を加えてつくるものだ」と思って育った子とでは
大人になった時にも大きな違いが出てくるのではないだろうか。
そういうものだ、と思っていればそうするし、
そんなこと面倒臭い、なんの必要があるの?と思えばそうしない。
そしてそんなことしてどうするの?という人が大半を占めてしまうと
その伝統は支持基盤を失って消滅に向かっていってしまう。

 感覚が鋭いうちに、無理やりにでも
直に、そのものがもつ美しさや力強さに触れさせること。
そうすれば子供はきっとわかるだろう。
京都の紅葉は美しい。たしかにこの燃えるような赤は東京にはないのだと。
だが東京のイチョウの煌めく黄金色の美しさ。それもまた京都のイチョウとは違う。
たっぷりの鰹節を使った出汁のしみじみ旨いこと。
あつあつの炒り大豆の止まらない美味しさ・・・
大人が感動するような美しいものや旨いものは
子供にだってよくわかる。我が子は6歳の時も
京都の紅葉めぐりに駆り出され、高雄では
転んで泣き、東山では傘が壊れ、散々な想いをしたものの、
最終日、雨の降る清水の舞台の上で、
山の上にもうもうと立ち上がる霧を見てこう言った。
「ママ、きれいだね。」

 私は泣きそうになってしまった。
あんた、綺麗って・・・わかるの?
今回は私が言わせたわけではなく、彼から自分でそう言った。
3日間無理やりだけども連れてきた甲斐があったと
心底思えた瞬間だった。

 直に触れることがなぜ大切が、柳宗悦は述べていた。
大切なのはウンチクでも固定観念でもない。
観念から入ると人は色眼鏡で見てしまう。
楽茶碗は美しい筈だから美しい。しかし、本当に美しいのか?
美しく見せようとしすぎた上の作為に満ちた茶碗が
本当に美しいと言えるのだろうか?
「美しいと言われているから美しい」
そういうものの見方をする人が増えていくと
自分の判断よりも他人のものの見方が優先されて、
自分の意見を言うのが恥ずかしくなり、それを隠して生きてしまう。
その結果として日本では美しくない街並みや建物がまかりとおっているように思う。
あんなの・・・本当にいいと思うの?もし誰もが正直に
口を開いたのなら、建てられるはずのなかった建造物や
壊されるべきでなかったものが、この国には山ほどあった。
高速の下の日本橋を見るたびに、そんな思いがこみ上げてくる。

 直に見て判断すること・・・そして自分がどう思うかを
素直に表現してみること。そうして感覚が養われ、
研ぎ澄まされていくのではないのだろうか。
小さな子供は先入観を持っていない。だから直に見るには最適だ。
「いいといわれているものだからいい」そんなの子供に通用しない。
「これ、つまんない、早く終わんないかなあ」
そう言われるとカチンとくるけど、大抵そういう類のものは
大人だって我慢しており、終わった後、たいして心に残らない。
子供のときから良いものに触れ、その感覚を養っていく。
パリの人たちはその点が卓越していて、幼稚園の時から
美術館に行くのは至極当然だし、美味しいものを知っている人たちは
早いうちから味覚の訓練もさせている。どうして子供の時にかといえば
おそらく大人になってからではあまりに遅い、それを
実感としてわかっているからだろう。

 日本の伝統文化が危機に瀕しているのは
それが次世代に伝えられなかったからだと思う。
その美しさ、重要性がストンとわかっていなければ
それを残そうとは思わない。それが実は隠された世界に
まだ存在していることも知らないならば、そこを覗いてみようという
気持ちも起こらない。やっとそこを覗いてみたって
その世界が危機に瀕しているとは思っていない人たちは
高級な着物を売りつけ、わからない者を馬鹿にしたような眼差しで見る。
そして今日も、日本の伝統文化は刻一刻と死んでいる、そんな気がしてならないけれど。

 伝統文化は面倒くさい。
私は最近朝ごはんをあたためるのにレンジをやめて
蒸籠で蒸している。でも蒸籠はめんどくさい。
もし味に明らかな違いがなければ、レンジはよっぽど簡単だ。
蒸籠のごはんとレンジのごはんの味の違いがわからなかったら?
誰もがレンジを選ぶだろう。

 着物はとても面倒くさい。どんなに早く着れたって、
たいていの人は20分はかかるという。それに現代社会は
乱雑すぎて、着物で移動するのに向いていない。
着物は重い、はじめは苦しい、そして早く脱ぎたい!と思うだろう。
けれど着物にも良さがある。まず見た目に美しい。
着物を着ているだけで、普段なら見向きもしない高級店の
店員さんが向こうから「いらっしゃいませ」と声をかけてくる(この差は本当にいやらしい)
それになんだか世界がちょっと変わって見える。もっと
美しくてゆったりしたはずだった世界、穏やかな世界に
少しの間存在できる、そんな気持ちになっていける。

 そんな面倒くさいことを文句も言わずに今日に至るまで
守ってきてくれた職人さんの世界があり、一方でパンとコーヒー、
ダウンコートをばっと羽織って電車に飛び乗る慌ただしい日常がある。
伝統の世界はもはや東京の日常と乖離しているけれど、
それでも私たちが日本人とは何かと自分に問いかけた時
戻ってこられる世界というのは、そこにしかないんじゃないか、
最近とみにそう思う。

 日本には美しい世界があった。
私が小さかった時、八芳園では眩いほど美しい夏祭りが開催されていた。
起伏のある緑の丘に、鮮やかな赤の縁台があり、細かな飴細工がつややかに光っていた。
私はあまりの美しさに思わず目を細め、これが現実なのかと思わざるをえなかった。
そんな世界は今でもわずかに残っている。紅葉時の京都のお寺の枯山水、
華やかな都をどり、赤、黄、オレンジに染まった八瀬の山、素晴らしい旅館のおもてなし・・・
そういうものがいい、恋しい、またなんとかしてあそこにいきたい、
そう思えるにはまずそれを知ることが重要で、手をとって連れていく誰かが必要なのだ。
でも誰もそこに連れて行ってくれなかったら?もはや存在にすら気づけない。
それらの多くはあまりにも日常からはかけ離れ、隠れた所にあるからだ。

 先日ようやく息子を連れて行けた歌舞伎の世界は美しく、
そこには私たちの日常と大きく離れた日本文化が存在していた。
歌舞伎座の伝統があるからこそ、銀座という街が今でも
本物とは何かを伝えてくれているのだろう。とはいえ
やはりあの世界はあまりに遠く、日常に還元するのが難しい。
失われつつある日本の文化、日本の美、それを大事にするには
どうしたらいいのだろう。一つは自分がそれを身につけ、
ほんの少しでも伝える側として貢献することだろう。
また一つは、相変わらず敷居と金額の高い日本文化を
もう少し日常的に触れられる機会を増やしていくことだろう。
西欧に留学したって、どうあがいても日本人でしかないのなら、
私たちの強みというのはフジタがしたように、日本の強みを
ウリにして個性をアピールしていくことではないのだろうか。
失われつつある日本の文化、外国人に伝えるより真っ先に
日本の次世代に伝えていくこと、そっちの方がよほど重要だと思う。

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