昭和時代の戦前の事であるが、子供の頃に祖父や母親から、近鉄電車とは別に、伊勢への参宮電車(さんぐうでんしゃ)として「伊勢電」(伊勢電気鉄道・伊勢電鉄)があった事をよく聞かされた。 この電車が走っていたのは、戦前の僅かな期間(昭和5年12月~昭和17年8月)であった為に、知っている人々は悠に80数歳を越えているはずである。
戦後生まれの我輩は、残念ながら近鉄電車(旧・参急電車)と並行して走っていた、この電車を知らない。
伊勢電が最初に開通し、開業したのは大正4年の9月で、最初は今の近鉄名古屋線の「白子 ~ 一身田町(現・高田本山)」であり、その後昭和1年には「四日市 ~ 津新地(現・津市愛宕町)」へと延長し、さらに桑名へと延長が成され、昭和4年に「津新地 ~ 桑名」間が開通し、養老電気鉄道を合併した。
路線の延長は、その後桑名から名古屋へと成され、昭和5年に至って「津新地 ~ 新松阪」間と、「新松阪 ~ 大神宮前」間が相次いで開通し、全線の開通式典が催され、営業を開始した。
伊勢電の軌道は、当時は度会橋の南1km程の所に鉄橋があり、鉄橋を渡った宮川右岸の「秋葉山」(徳川山)と、その東の「天神丘」(天神丘山)に、2つの短いトンネルがあって、二俣町から常磐町の旧宇治山田高等女学校(後の宇治山田高等学校の旧校舎)真横の神社、「坂社」との間を経て、すぐ東方の外宮北口の門前に終点の「大神宮前駅」があった。
駅前の広場からは、国鉄(省線)の「山田駅」まで最短距離で結ぶ、北御門通が「参宮通」となって通じ、商店街にもなっていたと言う。
この軌道の跡地は、今は人・車が行き来する市道になっているが、高校時代には八日市場町の「旭屋食堂」の辺りから入るこの道を、ずっと山高まで通学に通っていた。
その頃の「天神丘隧道」の軌道跡には、細い土道の人道が付いていたものの、天井から地下水の滴り落ちる、薄暗い不気味な場所であったのを覚えている。
その西方の「秋葉山隧道」の内部は、安田製作所の工場用地となっていて、入口は閉鎖されていたし、西口の先は、宮川に残存する橋杭だけが西方へと点在していた。
この通称「伊勢電」と呼ばれていた、全線狭軌の複線軌道の参宮電車は、宮川左岸の川端駅を過ぎ、宮川の鉄橋を渡ると、秋葉山トンネルの入口に「宮川堤」駅があり、一つ目のこのトンネルを少し左にカーブしながら潜り抜けると、「山田西口」駅が天神丘トンネルの手前にあった。
丁度、その場所に当たる民家の玄関の横には、当時のままに再現された「山田西口」駅の立札が貼られている。
そして、2つ目の天神丘トンネルを出たすぐ先に「常盤町」の駅があって、その少し東先の終点「大神宮前」駅へと至っていた。 ( 「常磐町駅」の跡は、沿道の「ヘアサロン・ユニオン」の前辺りになる )
伊勢電鉄に魅せられた鉄道ファンや研究者は、県内外に少なからずいて、何度も鉄道関係の雑誌に取り上げられてきたし、その後も追跡ファンは後を絶たず、我輩らも含めた戦後生まれの世代には、正に「幻の参宮電車」である。
我輩は、この電車にはさほど興味は無かったが、伊勢の事をいろいろと調べてゆくに従い、やはり触れておかないといけないなと思い、収集した古資料などをひもどき、軌道の跡地を辿ってみた次第だ。
ちなみに、この伊勢電鉄の詳細については、次の書物2冊に網羅されているので、是非とも参照をされたい。
1.想い出の伊勢電特急 「はつひ」での85分の旅 昭和62年(1987年)
編集発行者 椙山 満 (自費出版の私家本)
2.保存版 伊勢電・近鉄の80年 平成8年(1996年) 株式会社 郷土出版社